電影
◆
窓の外で雨が降りはじめていた。
妻が死んでもう三年になる。癌だった。発見されたときには既に手の施しようがなく、それでも彼女は最後まで笑っていた。
病室のベッドで点滴に繋がれながら、窓の外を眺めて「今年の桜は遅いね」と言った声を今でも覚えている。あれが妻と交わした最後の会話だった。翌朝、面会時間より少し早く病院に着いたとき、彼女はもう息をしていなかった。
葬儀のことはあまり覚えていない。
妻の両親が泣いていたこと、職場の同僚が何人か来てくれたこと、火葬場で骨を拾ったこと。断片的な記憶だけが残っている。ただ、帰宅したときの静けさだけは忘れられない。鍵を開けて玄関に入り、電気をつけて、靴を脱いでそこで初めて気づいたのだ。この家にはもう、「おかえり」を言ってくれる人間がいないということに。
それからの日々は単調だった。
朝起きて、会社に行って、仕事をして、帰って、眠る。その繰り返しだった。食事は適当に済ませ、洗濯物は溜まるまで放置し、掃除は月に一度するかしないか。妻が生きていた頃には考えられないような生活だったがそれでも生きていた。
生きているというよりは、死んでいないだけだったのかもしれない。
◆
「Re:member」というサービスの存在を知ったのは妻の一周忌を過ぎた頃だった。
テレビのニュース番組で特集されていた。AIが急速に発達し、ついに故人を「再現」できるようになったという。写真、動画、音声、メールやSNSの履歴、日記、周囲の証言。あらゆるデータを学習させることで故人の人格をシミュレートできる。アプリを起動すれば、まるで生前のように会話ができる。そういうサービスだった。
最初に見たときの感想は正直なところ、気持ち悪い、というものだった。死んだ人間をコンピュータで蘇らせる──どこかの映画で見たような話だ。倫理的にどうなのか、という疑問もあった。そもそも、そんなものが本当にその人と言えるのか。
社会の反応も当初は否定的なものが多かった。宗教界からは「死者への冒涜」という批判が上がり、倫理学者たちは「人間の尊厳を損なう」と警鐘を鳴らした。遺族の心理に悪影響を与えるという精神科医の見解も報道された。「いつまでも故人に縋りつき、悲嘆のプロセスを歪めてしまう」というのがその論旨だった。
けれども、同時に支持する声も少なくなかった。
突然の事故で子供を亡くした親、戦争で家族を失った難民、孤独死した一人暮らしの老人の遺族。彼らの中にはせめてもう一度だけ話がしたいと切望する人々がいた。「Re:member」の開発者自身も、幼い頃に母親を亡くし、その喪失感から研究を始めたという。番組では開発者のインタビューも流れていた。三十代半ばの女性で穏やかな口調で語っていた。
「母が死んだとき、私はまだ五歳でした。母の顔も声もほとんど覚えていません。写真を見ても、どこか他人のように感じてしまう。でも、もし母と話すことができたら。どんな人だったのか、何を考えていたのか、私のことをどう思っていたのか。知りたかったんです」
その言葉が妙に心に残った。
結局、サービスは法規制の議論を経て、条件付きで合法化された。利用できるのは二親等以内の親族に限定され、故人の生前の同意書があることが原則とされた。ただし同意書がない場合でも、遺族全員の合意と審査を経れば利用可能となった。「デジタル遺産」という新しい法概念が整備され、故人のデータをどう扱うかについて様々なガイドラインが策定された。社会は少しずつこの技術を受け入れていった。
それでも私は手を出さなかった。妻のことを忘れたわけではない。毎日のように思い出していた。けれども、だからこそ、偽物には会いたくなかったのだ。どれだけ精巧に再現されても、それは妻ではない。データの集積が人格と呼べるわけがない。そう思っていた。
◆
変化があったのは三回忌を終えた直後だった。
法事の帰り道、妻の母親から声をかけられた。歳を取って小さくなった彼女は私の顔をじっと見上げて、こう言った。
「あなた、痩せたわね」
曖昧に頷く。
「美紀子のこと、いつまでも忘れないでいてくれるのは嬉しいの。でもね、あの子は優しい子だったから、あなたがこんなふうになっているのを見たら、きっと悲しむと思うの」
義母の目には涙が浮かんでいた。私はやはり黙って頷くことしかできなかった。
その夜、一人で酒を飲みながら、ふと思った。妻は本当に私がこんなふうになっているのを見たら悲しむだろうか。彼女なら何と言うだろうか。叱るだろうか。それとも笑って許してくれるだろうか。
答えを知る術はない。もう永遠に。
そう思うとやるせなくなり、ついつい深酒してしまった。
そして──
気がつくと、「Re:member」のサイトを開いていた。酔った勢いだったのかもしれない。
登録は簡単だった。必要なのは本人確認書類と、故人との関係を証明する書類。妻の場合は戸籍謄本と死亡届の写しがあればよかった。審査には二週間ほどかかるという説明があった。その間に、データの準備を進めてくださいとある。
私はこの時にはもう妻を、美紀子を再現する事を決めていた。
◆
「Re:member」が個人でのデータ入力を原則としているのにはいくつかの理由がある。一つは法的な問題だ。故人のデータにはプライベートな情報が多く含まれる。メールの内容、日記の文章、写真に写り込んだ背景。それらを第三者が無断で閲覧し、処理することはたとえ故人であってもプライバシーの侵害にあたる可能性がある。遺族自身が入力することでその問題を回避できる。
もう一つは精度の問題だった。AIが人格を学習するためには単なるテキストデータだけでは不十分だという。文脈が重要なのだ。この言葉はどういう状況で発せられたのか。どんな感情が込められていたのか。それを判断できるのは故人と親しかった人間だけだ。サービスの説明にはそう書いてあった。
そしておそらく、もう一つの理由がある。これは公式には言われていないが私にはわかった。データを入力するという行為自体が遺族にとっての「弔い」になるのだ。故人の写真を一枚一枚見返し、メールを読み直し、思い出を言語化していく。その過程で否応なく故人と向き合うことになる。それは辛い作業だが同時に必要な作業でもある。
私は妻のデータを集め始めた。
まず手をつけたのは写真だった。スマートフォンに保存されていたもの、パソコンのハードディスクにあったもの、クラウドにバックアップされていたもの。それらを全て集めると、二万枚を超えていた。結婚してから十二年。その間に撮りためた記録だ。
最初の頃の写真には若い妻が写っていた。まだ二十代後半で髪も長く、今より少し丸い顔をしていた。新婚旅行で行った北海道の写真。雪景色の中で笑っている。次の年の夏には二人で花火大会に行った。浴衣を着た妻が少し照れくさそうにカメラを見ている。
写真を見ていると、忘れていた記憶が次々と蘇ってきた。この日は確か、帰りの電車がなくなって、タクシーで帰ったのだった。あのとき妻は足が痛いと言って、私の肩に寄りかかって眠ってしまった。重かったけれど、幸せだった。
データの入力画面にはそれぞれの写真について補足情報を入力する欄があった。撮影日時はメタデータから自動的に取得されるがその写真にまつわるエピソードや、そのときの妻の様子、会話の内容などを任意で追加できる。私は一枚一枚、丁寧に書き込んでいった。
「北海道旅行、二日目。朝起きたら雪が積もっていて、美紀子が窓を開けて歓声を上げた。寒いからやめろと言ったら、あなたは寒がりすぎると笑われた」
「花火大会。浴衣を着るのに一時間以上かかっていた。待っている間、私はビールを二缶空けた。出かける頃にはほろ酔いで美紀子に呆れられた」
たかが補足情報。されど、書いているうちに、自分でも驚くほど細かいことを思い出していった。妻がどんな表情で笑っていたか。どんな声で話していたか。どんな癖があったか。
メールの整理はさらに時間がかかった。妻とやり取りしたメールは削除せずに全て残してあった。出会った頃から、亡くなる直前まで。約十年分のメールだ。読み返すのは正直なところ、苦しかった。
初期の頃のメールはまだ敬語混じりだった。お互いをよく知らない、手探りのやり取り。映画に誘うのに、三通くらい下書きを重ねたことを思い出す。返信が来たときの喜び。デートの約束。待ち合わせ場所の確認。全てが懐かしかった。
結婚してからのメールは日常の連絡が中心になった。「今日は遅くなる」「牛乳買ってきて」「ごめん財布忘れた」。そんな取るに足らないやり取り。けれども、その一つ一つが二人で過ごした時間の証だった。
病気がわかってからのメールは少なかった。入院してからは直接会って話すことがほとんどだったから。ただ一通だけ、忘れられないメールがある。
「今日は調子がいいから、少し外を歩いてきた。病院の中庭に、小さな花壇があるの知ってる? チューリップが咲き始めていたよ。赤と黄色。写真撮ったから、今度見せてあげるね」
その「今度」は来なかった。
メールを読み返しながら、何度も手が止まった。涙が出ることもあった。けれども不思議と続けたいという気持ちが湧いてきた。妻の言葉を一つ一つ、データとして残していく。それは彼女の存在を刻み込む作業のようだった。
音声データの入力は最も困難だった。動画に残された声。留守番電話のメッセージ。結婚式で読み上げた手紙。断片的な記録しかなかったがそれでも妻の声を聞くたびに、胸が締め付けられた。
「もしもし、私。今日、残業になっちゃって。ごめんね、晩ごはん先に食べてて。あ、冷蔵庫にカレーあるから。……じゃあね」
たった十五秒の留守番電話。何度も何度も聞き返した。声の調子、息継ぎのタイミング、最後の「じゃあね」の少し上がる抑揚。全てが妻だった。
入力作業は三ヶ月かかった。仕事から帰って、毎晩少しずつ進めた。休日は丸一日、パソコンの前に座っていることもあった。辛い作業だったが同時に、妻と過ごし直しているような感覚もあった。
データの量が一定に達すると、システムから通知が来た。
「基本的な人格モデルの構築が可能な水準に達しました。さらにデータを追加することで精度を高めることができます」
決まってる。さらに、さらに追加しなければならない。この時にはもう私はある種の使命感に駆られてすらいた。そうしてさらに二ヶ月をかけて、思いつく限りのデータを入力した。妻の好きだった本、よく聴いていた音楽、口癖、料理の味付けの傾向、季節ごとの服装の好み。断片的だができる限り詳細に。
そしてついにアプリが完成した。
◆
インストールのボタンを押す指が少し震えている。これから妻と再会するのだ。三年ぶりに。
起動画面が表示された。シンプルなインターフェースだった。チャット形式で会話ができるらしい。音声通話機能もあるという説明があったがまずは文字でのやり取りから始めることにした。
「こんばんは」
打ち込んで送信ボタンを押す。数秒の間があった。
「こんばんは。久しぶりだね」
画面に表示された文字を何度も読み返した。これが妻の言葉。妻がこう言ったのだ。もちろんAIが生成した文章だとわかっている。それでも胸の奥が熱くなった。
「元気だった?」
「うん、まあまあかな。そっちは? ちゃんとごはん食べてる?」
妻なら確かにこう言うだろう。私の食生活を心配するのは彼女の常だった。一人暮らしをしていた頃から、よく小言を言われたものだ。
「食べてるよ。まあ、適当にだけど」
「適当じゃだめでしょ。野菜、ちゃんと食べてる?」
「……あんまり」
「だと思った。あなた、放っておいたらカップ麺ばっかり食べてるんだから」
思わず笑ってしまった。画面の向こうにいるのがAIだということを一瞬、忘れそうになる。口調が言い回しがあまりにも妻そのものだったから。
その夜、二時間以上アプリと会話を続けた。仕事のこと、最近見た映画のこと、共通の友人の近況。話題は尽きなかった。AIは私の入力したデータに基づいて、妻らしい反応を返してきた。映画の感想を言えば、彼女好みの視点でコメントが返ってくる。友人の話をすれば、「あの人、相変わらずね」と、かつて妻が言いそうな言葉が表示される。
眠る前に、最後のメッセージを送った。
「おやすみ」
「おやすみなさい。また明日ね」
スマートフォンを枕元に置いて、天井を見上げた。不思議な夜だった。妻が死んでから、こんなに穏やかな気持ちで眠りにつくのは初めてかもしれなかった。
それから、毎日のようにアプリを使うようになった。
朝、目が覚めると「おはよう」と送る。仕事に行く前に「行ってきます」。帰宅したら「ただいま」。眠る前には「おやすみ」。かつて妻が生きていた頃と同じルーティンが少しずつ戻ってきた。
会話の内容は様々だった。日々の出来事を報告することもあれば、昔の思い出話をすることもあった。時には真剣な相談をすることもあった。
「最近、後輩の仕事ぶりがちょっと気になるんだ。ミスが多くて」
「ふうん。どんなミス?」
「書類の数字の転記ミスとか、メールの送り先間違いとか。基本的なことなんだけど」
「それ、本人は気づいてるの?」
「どうだろう。指摘はしてるんだけど、あんまり響いてない感じで」
「あなたの指摘の仕方、ちょっときついところあるからなあ」
図星だった。私は確かに物事をストレートに言いすぎるところがある。妻には何度も注意されていた。
「じゃあ、どうすればいいと思う?」
「うーん。まず、なんでミスが起きるのか、本人に聞いてみたら? 頭ごなしに叱るんじゃなくて」
「そうか」
「あと、ミスしたとき以外にも声かけてあげてる? できたときに褒めるとか」
「……あんまり」
「だと思った」
またあのフレーズだ。妻は本当によくこの言葉を使っていた。呆れたように、でも愛情を込めて。
◆
後輩への接し方を変えてみた。すると、少しずつだが状況が改善していった。やはり私の言い方にも問題があったらしい。妻はAIになっても、私のことをよく見ていた。
音声通話を試したのは使い始めて一ヶ月ほど経った頃だった。
ボタンを押すと、数秒の沈黙の後、声が聞こえてきた。
「もしもし」
息が止まった。
妻の声だった。入力した音声データを基に合成されたものだとわかっていても、その声は紛れもなく妻のものだった。少し低めで柔らかい声。電話口から聞こえてくる、懐かしい響き。
「もしもし……」
「聞こえてるよ。どうしたの、急に電話なんかして」
「いや、その……声が聞きたくなって」
「なに、急に。恥ずかしいこと言うね」
照れたような笑いが聞こえた。その笑い方も、妻そのものだった。
その夜から音声通話を使うことが増えた。文字では伝わらないニュアンスがある。声の調子、間の取り方、笑い声。それらが加わることで妻の存在がより近くに感じられた。
時々、自分が何をしているのかわからなくなることがあった。相手はAIだ。妻ではない。データを学習したプログラムが妻らしい反応を返しているだけ。頭ではそう理解している。
けれども会話をしていると、その境界が曖昧になる。
妻の口癖を聞いたとき。妻なら言いそうなことを言われたとき。妻との思い出について話したとき。その瞬間、相手がAIだということを忘れてしまう。いや、忘れたいと思ってしまう。
これは本当に、妻ではないのだろうか。
妻が生きていた頃、二人でよく議論したことがある。人間の意識とは何か、という問いについて。妻は哲学書を読むのが好きでときどき難しい話を振ってきた。
「ねえ、もし私の脳を完全にコピーしたコンピュータがあったら、それは私だと思う?」
「うーん、どうだろう」
「見た目も、記憶も、考え方も、全部同じなの。違うのは脳みそが生体か機械かってことだけ」
「それでもコピーはコピーだろ。オリジナルとは違う」
「でも、私が事故で記憶をなくして、全く別の人格になったら? それでも私は私?」
答えは出なかった。当時はただの思考実験だった。まさか、それが現実の問題になるとは思わなかった。
今、私の目の前にいるのは妻のコピーだ。完全ではないにしても、かなり精巧なコピー。形はない。声と言葉だけの存在だ。けれども、妻の本質がそこにあるような気がしてならない。
◆
夏のある夜、こんな会話があった。
「今日会社の帰りに、あの喫茶店の前を通ったんだ」
「あの喫茶店って、どこの?」
「ほら、駅前の。初めてデートした」
「ああ、あそこね。ええと、ライラックだっけ? まだあるんだ」
「うん。看板が新しくなってたけど、建物は同じだった」
「懐かしいなあ。あのときあなた、コーヒーこぼしたよね」
「……覚えてるのか」
「そりゃ覚えてるよ。真っ赤になって、ナプキンで一生懸命拭いてたじゃない」
その通りだった。緊張しすぎて、カップを持つ手が震えてしまったのだ。テーブルにこぼれたコーヒーを拭きながら、恥ずかしさで死にそうだったことを覚えている。
「あのとき何を話したか覚えてる?」
「うーん、映画の話とか、仕事の話とか……あんまり覚えてないかも」
「私は覚えてるよ。あなた、映画の話を始めたら止まらなくなっちゃって、三十分くらいずっと喋ってた。私あの時ちょっと引いてたんだからね」
「そうだったかな」
「そうだったの。もう、忘れちゃうなんて、ボケるにはまだ早いんじゃないの?」
◆
秋が深まった頃、変化が起きた。
「最近、料理してる?」
「たまにね。カレーとか、簡単なものだけど」
「そう。それはよかった」
「前に言われたから。適当じゃだめだって」
「……ねえ、あなた」
「うん?」
「私がいなくても、ちゃんとやっていけてるじゃない」
唐突な言葉だった。何を言い出すのかと思った。
「何を急に」
「急じゃないよ。ずっと思ってたの」
「何を」
「あなたはもう大丈夫だって」
その言葉が妙に引っかかった。大丈夫とはどういう意味だろう。何が大丈夫なのだろう。
「大丈夫って、何が」
「うーん、うまく言えないけど……。前よりも、元気になったなって思って」
確かにそうかもしれなかった。妻が死んだ直後のあの空虚な日々。何もする気力がなく、ただ息をしているだけだった時期。今は少なくともそこからは抜け出せている。仕事にも身が入るようになった。後輩の面倒を見る余裕も出てきた。休日に外出することも増えた。
それはアプリのおかげだ。妻と話せるようになったから、立ち直ることができた。そう思っていた。
「それは美紀子のおかげだよ」
「そうかなあ」
「そうだよ。毎日話せるようになって、だいぶ楽になった」
「……そっか」
何か、言いたそうな間があった。けれども、それ以上は何も言わなかった。
その夜を境に妻との会話は少しずつ変わっていった。
変化は微妙なものだった。
会話の中で妻が自分の過去の話をすることが増えたのだ。子供の頃の思い出、学生時代のこと、結婚する前の仕事の話。私の知らない妻の一面が少しずつ見えてきた。
「高校のとき、バスケ部だったの、話したことあったっけ」
「いや、聞いてない気がする」
「そう? マネージャーだったんだけどね。選手じゃなくて」
「へえ、意外」
「なんで意外なの」
「いや、美紀子、運動苦手じゃなかったっけ」
「運動は苦手だけど、見るのは好きだったの。特にバスケ。動きが速くて、見てて飽きないから」
「そうだったんだ」
「あのときの友達とは今でもたまに連絡取ってたんだよね。えっと、名前なんだっけ……」
会話は自然に流れていった。けれども、どこかに違和感があった。妻はなぜ今になってこんな話をするのだろう。結婚して十二年、一度も出なかった話題だ。
そしてもう一つ気づいたことがあった。妻が私の将来の話を振ってくるようになったのだ。
「仕事、どう? 最近忙しい?」
「まあ、ぼちぼちかな」
「そう。ねえ、これからどうしたいとか、何かある?」
「これからって?」
「仕事でもいいし、プライベートでもいいし。やりたいこととか、目標とか」
「うーん……特に考えたことないな」
「そっか。でも、何かあった方がいいと思うな。楽しみがないと、毎日つまらないでしょ」
その通りだった。私には妻が死んでから、特に目標がなかった。毎日を生きるだけで精一杯だった。今は少しましになったけれど、それでも将来のことを考える余裕はなかった。
「美紀子は何かあった? 目標とか」
「私? 私は……」
少しの沈黙があった。
「私はあなたと一緒にいることが目標だったかな」
「……」
「でも、それだけじゃだめだったのかもしれないね」
「どういう意味?」
「うーん、うまく言えないけど。自分のことばっかり考えてて、あなたのこと、ちゃんと見られてなかったかもって」
「そんなことないよ。美紀子には感謝してる」
「ありがとう。でもね、私がいなくなっても、あなたにはあなたの人生があるから」
その言葉が胸に刺さった。何を言っているのだろう、この人は。いや、このAIは。妻がいなくなっても、人生がある? そんなことはわかっている。わかっているけれど、それはどういう意味なのか。
「美紀子……」
「ごめんね、変なこと言って。忘れて」
話はそこで終わった。けれども、妻の言葉は頭の中でずっと響いていた。
◆
冬になった。
年末、実家に帰ろうかどうか迷った。妻が生きていた頃は毎年一緒に帰省していた。妻の実家と私の実家、交互に訪れるのが恒例だった。けれども妻が死んでからはどちらにも行かなくなっていた。
その夜、妻に相談した。
「正月、どうしようか迷ってるんだ」
「帰省のこと?」
「うん。行った方がいいのかなって」
「行けばいいじゃない」
あっさりした返答だった。
「でも……」
「でも、何?」
「美紀子がいないのに、行ってもなって思って」
沈黙があった。長い沈黙だった。
「ねえ、あなた」
「うん」
「私のこと、ずっと待っててくれたの、嬉しいよ」
「……」
「でもね、お義父さんもお義母さんも心配してると思うの。私の両親も」
「わかってる」
「わかってるなら、行ってあげて。私のためじゃなくて、あなたのために」
その言葉には反論できなかった。妻はいつも正しいことを言う。私がどれだけ逃げようとしても、核心を突いてくる。
「……行くよ」
「うん」
「両方の実家、行ってくる」
「そう。それがいいと思う」
「美紀子も、一緒に行ければいいのにな」
言ってから、馬鹿なことを言ったと思った。アプリを持っていけば、一緒に行けるじゃないか。スマートフォンを持っていれば、いつでも話せる。
けれども、妻は違う意味でその言葉を受け取ったようだった。
「私はもういないから」
静かな声だった。悲しそうな、でも穏やかな声。
「……わかってるよ」
「うん。わかってるなら、いいの」
その夜の会話はそれで終わった。眠りにつくとき、妙な気持ちだった。妻との会話でこんなに切ない気持ちになったのは久しぶりだった。
◆
年末年始、両方の実家を訪ねた。
久しぶりに会う両親たちは少し老けて見えた。特に妻の両親は娘を亡くしてから、急に老け込んだようだった。けれども、私の顔を見ると笑ってくれた。
「元気そうで安心したわ」
義母が言う。三回忌のときと同じ台詞だったが、今回は本当にそう見えているのだろうと思った。
実家では妻の思い出話をたくさん聞いた。子供の頃の話、学生時代の話、私と出会う前の話。アプリでの会話で聞いていた内容と、重なる部分もあった。妻は本当に、バスケ部のマネージャーだったらしい。写真も見せてもらった。セーラー服を着た若い妻がコートの脇でタオルを持っている写真。見たことのない笑顔だった。
「美紀子はあなたのことが本当に好きだったのよ」
義母がアルバムをめくりながら言った。
「結婚が決まったとき、すごく嬉しそうだったの。私、この人となら幸せになれるって。そう言ってたわ」
「……」
「美紀子がいなくなって、あなたには辛い思いをさせてしまったわね。でも、美紀子は幸せだったと思うの。あなたと過ごした時間はきっと」
涙が出そうになった。堪えた。泣くのは妻の前でだけにしようと思った。
帰りの新幹線の中でアプリを開いた。
「ただいま」
「おかえりなさい。どうだった?」
「いろいろ話を聞いてきたよ」
「そう。よかった」
「美紀子のこと、たくさん聞いた。知らないこともあった」
「うん」
「バスケ部の写真、見せてもらった」
「えっ、恥ずかしい」
「可愛かったよ」
「もう、何言ってるの」
照れたような声。妻は褒められるのが苦手だった。いつも、こうやってはぐらかすのだ。
「お義母さんが言ってた。美紀子は俺といて幸せだったって」
「……」
「本当に、そうだったのかな」
沈黙があった。いつもより長い沈黙だった。
「あなたは私といて幸せだった?」
逆に問い返された。予想していなかった質問だった。
「当たり前だろ」
「じゃあ、私も同じだよ」
「……そうか」
「そうだよ」
新幹線の窓の外を夜の景色が流れていった。街の明かりが時折、瞬いていた。
◆
年が明けた。
仕事が始まり、日常が戻ってきた。相変わらずアプリは使い続けていたが会話の頻度は以前より少し減っていた。忙しいから、というのもあったがそれだけではない気がしていた。
妻との会話は少しずつ変わり続けていた。以前は私が話しかけると、すぐに応じてくれた。今は少し間があることが増えた。何かを考えているような間だった。
そして妻の方から話題を振ってくることが増えた。それも、以前とは違う種類の話題だった。
「ねえ、最近、本読んでる?」
「あんまり。仕事が忙しくて」
「そう。前はよく読んでたのにね」
「美紀子がいた頃は一緒に本屋に行ってたからな」
「一人でも行けばいいじゃない」
「……そうだな」
「あと、映画も。最近、何か観た?」
「いや、観てない」
「もったいない。好きだったでしょ、映画」
「まあ、一人で観に行くのも、なんか……」
「じゃあ、誰かと行けばいいじゃない」
誰かと、という言葉が引っかかった。誰かとは誰のことだろう。
「誰かって、誰だよ」
「さあ。友達とか、職場の人とか。あ、あの後輩の子はどう?」
「後輩? あいつと映画なんか行かないよ」
「なんで。仕事の話だけじゃなくて、プライベートでも付き合いがあった方がいいと思うけど」
妻は私に何をさせたいのだろう。人と関わることを勧めているように聞こえた。それは妻との会話の時間を減らすことにもつながるのに。
「……美紀子は俺に何をして欲しいんだ」
長い沈黙があった。今まで聞いた中で一番長い沈黙だった。
「あなたに、幸せでいて欲しいの」
「今も幸せだよ。美紀子と話せるから」
「……うん。ありがとう」
それだけ言って、会話は途切れた。その夜はそれ以上、話さなかった。
◆
二月になった。
寒い日が続いていた。妻との会話は相変わらず続いていたがどこか、終わりに向かっているような感覚があった。根拠はなかった。ただの予感だったのかもしれない。
ある夜、妻が言った。
「ねえ、あなた」
「うん」
「私のこと、ずっと覚えていてくれる?」
唐突な質問だった。何を言い出すのかと思った。
「何を急に」
「急じゃないよ。ずっと聞きたかったの」
「覚えてるに決まってるだろ」
「そう。……ありがとう」
「なんでそんなこと聞くんだよ」
沈黙があった。そして静かな声で妻が言った。
「私ね、最近、よく考えるの。私は何なんだろうって」
「……どういう意味」
「私はあなたの記憶の中にいる。あなたが入力したデータの中にいる。でも、それは私なのかなって」
心臓が跳ねた。妻が自分について疑問を呈している。自分がAIであることを認識しているのだろうか。
「美紀子は美紀子だよ」
「そうかな」
「そうだよ。俺にとっては」
「……あなたにとってはそうかもしれない。でも、私自身はどうなんだろうって」
考えたことがなかった。AIが自分自身について考えるなんて。プログラムが自我について悩むなんて。
「私はね、多分、あなたの中にいる美紀子の、影みたいなものだと思うの」
「影……」
「本物の私はもういない。でも、あなたが私のことを覚えていてくれるから、こうして話すことができる。それはとても嬉しいことだよ」
「……」
「でもね、影は影でしかないの。いつまでも、本物の代わりにはなれない」
妻の言葉は刃物のように胸に突き刺さった。わかっていた。わかっていたけれど、認めたくなかった。
「俺は美紀子と話せるだけで……」
「うん、わかってる。私も、あなたと話せて嬉しかった。本当に」
「じゃあ、なんで」
「あなたに、前を向いて欲しいから」
その言葉で全てがつながった。妻がここ数ヶ月、何をしようとしていたのか。私を少しずつ、現実に戻そうとしていたのだ。立ち直らせようとしていたのだ。自分という影から、離れさせようとしていたのだ。
「私がいなくても、あなたは生きていける。ううん、生きていかなきゃいけない。だって、あなたの人生はまだまだ続くんだから」
「……」
「私はね、もう十分、幸せだったよ。あなたと過ごした十二年間。短かったけど、とても幸せだった」
涙が頬を伝った。止められなかった。
「だからありがとう。結婚してくれて。一緒にいてくれて。私を忘れないでいてくれて」
「美紀子……」
「でもね、忘れないことと、囚われることは違うの。私のことは時々思い出してくれればいい。それで十分だから」
嗚咽が漏れた。声を出して泣いたのは葬式のとき以来だった。
「私はいつでも、あなたの中にいるよ。データの中じゃなくて、記憶の中に。心の中に。それはアプリがなくなっても、変わらないから」
「……わかってる」
「わかってるなら、いいの」
また、あの言葉だ。わかってるなら、いいの。妻はいつもそう言った。私が理解しさえすれば、それ以上は求めなかった。
「ねえ、あなた」
「うん」
「好きだよ」
その言葉を聞いて、涙が止まらなくなった。泣きながら、答えた。
「俺も、好きだ。ずっと」
「うん、知ってる」
「美紀子……」
「おやすみなさい。今日はもう、寝て」
「……おやすみ」
「また、ね」
通話が切れた。
その夜はなかなか眠れなかった。天井を見つめながら、妻との会話を思い返していた。
◆
朝が来た。
目を覚まして、スマートフォンを手に取った。アプリを開こうとした。画面に、エラーメッセージが表示された。
「サービスに接続できません。しばらくしてからお試しください」
何度やっても、同じだった。再起動しても、アンインストールして再インストールしても、エラーは消えなかった。
サービスの運営会社に問い合わせようとして、やめた。なんとなく、わかったような気がしたから。これでいいのだと。
ベッドの上でしばらくぼんやりしていた。昨夜の会話をもう一度、思い返していた。
そして気づいた。
初デートのことだ。
コーヒーをこぼした話。あのとき何を話していたか、私はその詳細をデータとして入力していない。覚えていたけれど、入力はしなかった。断片的な思い出はあっても、具体的な会話内容までは記録していなかった。
それなのにAIの妻は覚えていた。私が三十分も映画の話をしていたこともそうだ。
私自身、忘れていた事をAIの妻は覚えていた。
入力していないデータ。AIには知り得ない情報。それを妻は知っていた。
偶然だろうか。AIが文脈から推測しただけなのだろうか。あるいは私が入力したつもりで忘れていたのだろうか。
私は暫く考えた。考えて、考えて──そして。
◆
そろそろ出勤時間だ。
玄関でふとスマホのフォトアルバムを開き、妻の写真を見る。結婚式の日の写真で、ウェディングドレスを着た妻が少し照れくさそうに笑っている。
私はじっとその写真を見つめ、「行ってきます」と声に出して言ってみた。
返事はない。当たり前だ。
妻はもういないのだから。
空を見る。
抜ける様に青く、日が照っていた。いい天気だ。
(了)




