愛を操る暗殺者は、元最強がわからない
『狂愛』のコードネームを持つ彼は、困惑した。
「……鳳凰虚です。よろしくお願いします」
そう言ったのは、人外の領域の美貌を宿した、美しい少女。
サラサラと流れる美しい漆黒の髪。
雪より白く、陶器より滑らかな肌。
百五十センチ程の小柄で華奢な体格は、触れれば壊れてしまうのではないかと思わせる。
ぷっくりとした小さな紅い唇は花弁のように可憐で、しかし妖艶で、噛みつきたくなるほどぷるぷるしている。
そして何より、長い睫毛に縁取られた、その鮮血色の瞳。
覗き込まれれば、どんな人間でも思うがままにできるであろう宝石。
美しく、可愛らしく、儚く、強く、危うく、妖しい存在。
まさに、極上の美少女。
世界最強の暗殺者だった『舞姫』がこの学園に来たとき、心の隅で任務の失敗を予感した。
『舞姫』を知らない人間は、暗殺界にいない。
彼女は、世界最強と呼ばれるに相応しい実力を持つ。
美しく、どこかか弱い印象を与える容姿。しかしその本性は、どんな猛獣よりも危険だ。
対の美しい扇を使い、まるで舞いように、ターゲットを仕留めるから、『舞姫』。
その戦闘力は教官をも凌ぐ。
狂愛も、何度も彼女に敗北している。
どんなに大人数で挑んでも無駄。籠絡も無駄。苦し紛れの攻撃も計算した攻撃も全部無駄。
一流の暗殺者二百人で挑んでも、かすり傷一つつけられなかったらしい。
誰も彼女から勝利を奪えない。
戦闘だけではない。その他の技術も、恐ろしく高い。
彼女に開けぬ鍵はなく、彼女に堕とせぬ人間はおらず、彼女に盗めない情報はない。
しかし高い暗殺能力を持ちながら、彼女は冷たかった。
常に無表情、無感情。笑ったことなんて一度もない。
誰が話しかけても、何をしても無関心。
ただ淡々と、任務を遂行するだけの、人形のような少女。
『高い暗殺能力を有する、人形のように無感情な暗殺者』
それが、コードネーム『舞姫』の評価だった。
彼女が引退すると告げられたときは、日本どころか世界中が驚愕したものだ。
無論、狂愛も。
彼には――いや、誰にも、彼女のことがわからなかった。
「ん〜?なんかね、“普通”の人間になりたいんだって」
己の口に放り込んだ棒付きキャンディ(ぶどう味)をポンっと音を立てながら口から出した男は、呑気にそう告げた。
黒髪に混じるオレンジのメッシュ。輝く黄色い瞳に、端正な顔立ち。
情報屋『lack』。
暗殺界随一の情報収集能力を持つ男で、『舞姫』の相棒だった男だ。
夜のフードコートの一角で、狂愛はラックの言葉を聞いた瞬間、しばらく言葉が出なかった。心臓が激しく鼓動し、目の前が霞むような感覚に襲われる。
「なんだよ、それ……」
狂愛は自分でも驚くほど、声が震えていた。
「アイツがそんなこと言うわけないだろ……最強の暗殺者なんだぞ!?」
ラックは冷静に答える。
「“だった”をつけ忘れてるよ、狂愛。彼女は確かにそう言ったしー」
あと声大きい、と付け足すラックに、誰もいないからいいだろ、と返す。
「それより、本当のことを教えろ」
「本当のことだよー」
「だからッ、ありえないんだよ! アイツが、アイツが引退なんて、」
「――はぁ」
ラックはボクの言葉に、一つため息をついた。そして、下に向いた首を上げて、目を合わせた。
ぞっとした。
いつもは嫌になる程明るいその目が、驚くほど冷めていたから。
「君は、君たちは、彼女のことを何もわかっていない」
「……は、何を言って、」
「彼女の願いが何なのか、彼女の幸せが何なのか、彼女の本当に欲していたものは何なのか――考えてからもう一度同じこと言ってみろよクズ」
わからないよ、そんなの。
「これからよろしくお願いしますね、皆さん」
(なんで)
何でそんなに、嬉しそうなんだ。
笑っていた、彼女は。心の底から嬉しそうに。
どこまでも甘い色を浮かべる瞳。
桜色に染まった頬は緩んでいて、とても可愛らしい。
マシュマロよりも柔らかそうな唇はゆぅるりと弧を描く。
彼女の瞳が、頬が、唇が、全身が「うれしい」と言っている。
まるで、砂糖と蜂蜜をどろどろに煮込んだよう。
最強だった彼女が願っていたのは、何なんだろう。
「んー! とっても美味しいです……っ!」
(いちごミルク、好きなんだ)
最強だった彼女の幸せは、何なんだろう。
「千隼、早く理科室に行きましょう!」
(たかが授業で、何でそんなに幸せそうなの)
最強だった彼女の本当に欲していたものは、何だったんだろう。
「あなたを止める」
(何もメリットなんてないのに)
対の扇を取り出して美しく舞う舞姫。
「……もうどうでもいいや」
きっと彼女には勝てない。けど、これで、少しでも彼女のことがわかれたら。
「――ほら、愛して壊して」
ほんと、何がしたいんだろう。
ボクも、君も。