元暗殺者、元同業者と再会する
朝食はとらず、制服を素早く着て、昨日より随分早く家を出る。
教室ではなく、第三体育館へ向かう。
第三体育館はとても古く、一言で言うならばボロい。
天井は所々剥がれ、扉は錆びつき、壁には穴が空いている。
もしも、偶然事故が起きても、「まああのぼろさじゃな」とみんなが納得できるくらいに。
偶然、屋根が落ちてきても。
偶然、扉が開かなくなり、出られなくなっても。
偶然、壁が剥がれ落ちても。
全て偶然だから、“仕方がないこと”。
こんなに暗殺に向いている場所はそうそうない。
そこに一つ、人影があった。
天井付近にぶら下がって、何かを置いていた。
やがて人影はことが済んだのか、ひらりと軽い身のこなしで跳んで、とんっと着地した。
それを見て、気配を消していた私は、わざとコツリと足音を響かせながら、人影の前に歩み出た。
「おはよう」
昨日のような演技はもう必要ない。どうせ意味がないのだから。
意識して暖かい笑みを浮かべる。慈悲すらも感じるような笑みを。
「昨日ぶりだね」
私がここに来るのも、彼は想定済みだったのだろう。周囲にいる。
「ご機嫌いかがかな?『狂愛』」
「最悪の気分だよ、『舞姫』」
そう言って、水戸千隼は、薄く笑った。
こてん、と可愛らしく首を傾げる千隼。
「ねぇ、どうしてわかったの?」
何が、とは言わない。
じっとその桃色の瞳を見つめて、唇を開く。
「私は昨日理事長室に行った。その時に、どこかで嗅いだことのある香水の匂いがしたの」
そこで一旦言葉を切る。
「神楽坂光貴からも同じ匂いがして、彼は『女に抱きつかれた』と言った。……だから私も、『香水の持ち主は女なんだ』と思った」
千隼は、微笑んだまま何も言わない。
「“敵は女だと思わせる”。それがあなたの狙いだったんだよね、狂愛」
「……あハっ」
そこで初めて千隼が――否、狂愛が声を漏らした。
「アははっ、アハハハハハハハハッ! その通りだ舞姫! やはりお前は素晴らしい!」
狂ったように笑う狂愛。口調は今までの可愛らしいそれとは違い、それが本性らしい。
彼の言葉に、拗ねたように唇を歪めて見せる。
「舞姫はやめて。暗殺者はもう引退したんだよ」
「ハハハッ、そうだったな。はー……一応聞くけど、ボクが犯人だと気づいた理由は?」
「理事長室の香水、どこかで嗅いだのは確かなんだけど、どこで嗅いだのかはわからなくてさ。ずっと考えてたんだ」
私は毎日、任務三昧。休みは家に引きこもっているから、プライベートの外出中に嗅いだっていうのはない。
任務先もない。だいたい殺し目的で近づくし、そうでなくとも何度も嗅いだってことは、それだけ近くにいた人ってこと。
となると考えられるのは、私が以前いた暗殺者育成学校だけ。
「でもよく考えたら、あそこの女子って、男勝りな子とかが多くって、正直香水とかつけないんだよね」
だから思ったんだ。
――この香水の持ち主は、女じゃないのかも、って。
そもそも暗殺者は、暗殺時に香水なんてつけない。匂いでターゲットに気付かれるだけ。
それでも香水をつけるってことは、香水を武器とする戦い方をするのだろう。例えば――籠絡、とか。
そこまで考えて思い出したんだ。
私とやり合えた、数少ない人間の一人。
自分が王だと言わんばかりの態度。老若男女問わず籠絡し手駒にできる実力を持ち、常に被ったフードから溢れる美しい金髪。
籠絡と人心掌握に長けた暗殺者――それが、コードネーム『狂愛』。
「神楽坂光貴に電話してね、聞いたんだよ。抱きついてきた女は金髪でしたか、って」
答えはYES。
「神楽坂光貴は御曹司だ。狙われる理由はそれで十分。彼を殺すよう依頼されたから、疑似惚れ薬の香水で籠絡しようとしたり、こんなボロボロの場所でのタイマンを提案したりしたんでしょう?」
「ん。せーかい。そこまでわかってんだ」
パチパチと拍手する狂愛。どうやら心から称賛しているようだった。
ラックに昨日の朝に依頼した調査は、全校生徒の暴走族の所属。
嫌な予感がして調べてもらったら、神楽坂光貴は、【Minuit】の総長だった。
そして昨日の夕方に頼んだのは、今暗殺者育成学校にいる暗殺者達のリスト。
そこに『狂愛』の名前はなかった。
金髪。
暴走族。
タイマン。
第三体育館。
香水。
「これだけヒントが揃えば、嫌でもわかるってもんでしょ」
「いちお、証拠は残さないように動いてたんだ・け・ど……キミが神楽坂学園に来てから、計算が狂っちゃった」
どうしてくれるのさ、と顔を顰めて見せる狂愛。
そんなこと言われても、というのがこちらの本音。
「わざとじゃなかったんだけどね。ごめんごめん」
「うわー、こんなに心のこもってないごめん初めて聞いた」
茶番のようにおどけて、笑って。
「んで、キミはこれからどうするの?」
その言葉に、迷わず答える。
「あなたを止める」
「うわあ即答」
ニヤリ、と今までとは違う、どこか狂気を感じる笑みを浮かべた狂愛は、言い放った。
空気がピリ、と張り詰めた、次の瞬間。
「じゃあ、敵だね」
その言葉を合図に、周囲にあったたくさんの気配とともに人影がなだれ込んできた。
白髪の混じる中年男。まだ高校生くらいの女の子。学ランを着た男子から、初老の女性まで幅広く。
おそらくみんな狂愛の手駒。籠絡で堕とした人間なのだろう。
彼らの瞳は、どこか焦点が合っていない。まるで狂信者のような、濁った光を宿していた。
狂愛は声を張り上げる。
「さあさあみんな、彼女を倒すんだ! 成功すれば、彼女は好きにしていい!」
その言葉に、男性陣の目がギラついた。
(不快極まりない)
思わず眉を寄せた。
狂愛は声高く叫び続ける。
「服を剥がし、好き勝手に扱ってもいい! そして! 彼女を仕留めた者には――イイコト、してあげる」
その言葉を皮切りに、手駒達が猛然と私に向かって走り出す。
「……あーあ」
小さく声を漏らして、床を蹴る。それだけの動作で、五メートル以上跳躍し、後ろに下がった。
手駒達と距離が空く。
数は大きけど、所詮は一般人。彼らに勝つ程度、造作もないこと。
(できることなら、穏便に終わらせたかったんだけど)
それが叶わないのであれば、全力で相手をするまで。
両腕の袖口からそれを取り出す。
シャリン、という上品な、鈴の音のような音を響かせながら開いたそれは、対の鉄扇。
銀色に赤い薔薇と炎が刻まれた、美しい扇__炎姫。
うっすらと笑みを浮かべ、鉄扇を静かに構える。
空気が張り詰める。
「――さあ、踊り狂おうか」
そして、戦いの火蓋は切られた。