4.自由への逃亡
(ずっと王家の為、家の為、相応しい婚約者となるべく経験を積んできました。厳しい妃教育だって乗り越えてきたのに……婚約破棄されてしまった今、それらの努力も水の泡。さらには謂れのない罪を着せられて、修道院に押し込められるなんて……誰が受け入れるのでしょうか)
ああ、なんて都合が良い。これは飛び出してしまってもいいと、天に言われているかのようだ。
(そう、だから、私がここから消えたって誰も文句は言わないでしょ)
罪人が逃げ出すのはどうかと少し思うが、そもそも罪人ではないのだから。
今から王宮に乗り込んで直接抗議をしてやってもいいが、正直もう王家には関わりたくない。
家には迷惑をかけるかもしれないが、なんとか対処してくれるはず。
……エステルは途中から婚約破棄に乗ってこうなったのだから、その迷惑の半分は……いやちょっとは責任を感じてはいるが。まぁ、きっと大丈夫だろう。うん。
元より、こうなることは想定済みどころか望んでいた。投獄でもなんでもドンと来いという気概でいた。
どんな処罰でも対処していただろうし、今のように逃げ出していたことだろう。
普通の令嬢ならそんなことは出来なかっただろう。だが、エステルは普通の令嬢ではなかった。
きっと誰もエステルを殺せないし、エステルを捕まえることなんて不可能だ。
何せエステルには他でもない、《女神の寵愛》があるのだから。
(とにかく! 私は……エステルはいなくなりますが、許して! 私はとにかく自由が欲しいのです!)
自由とは何かをもうすでに知ってしまっているから、思わず飛び出してしまった。
(窮屈なドレスに身を包んで、人々を欺けたまま、利用されるのはもう、うんざりです!!)
エステルは再びフードを目深く被ると、前を見据えた。今から王都まで全力で走ればきっと日暮れまでには着くだろう。
(……〈身体強化〉)
心の中で念じれば、神々の奇跡たる魔法は発動した。本来必要とする口頭での呪文を省いた魔法の行使。
ありありと身体に力が湧いてくる。馬車で揺られた疲れなどなかったかのようだ。
再び彼女は地を蹴り、残像も残さない疾風となって駆けた。
光の魔法の強化魔法系に分類される〈身体強化〉。
この魔法、本来なら人間の身体能力を少し底上げする程度のものだ。
間違っても、今の彼女のように残像も残さずに早く動くなど出来ない。
なぜこうなっているかというと、エステルが使うと通常の効果の十倍あるだけだ。
そう、十倍だ。握力が強くなって硬い岩を握り潰せる程度から、鋼鉄を粉砕する程の大きな差。
エステルが〈身体強化〉を他者に掛けても同じ効果は生まれない。
精々筋肉痛が取れるくらいの効果にしかならない。しかしエステルが、自身に掛けると効果は十倍になる。
夜会の会場では治せなかった治癒魔法も、エステル自身に掛ければ千切れた腕でも再生する。
そう、これこそが、エステルが授かった《女神の寵愛》の力の本当の正体だったのだ。
(正しく、寵愛。寵愛されている私にしか効果が発揮されなかった)
その寵愛ぶりはエステルに対して他人からの治癒魔法を拒むほどだ。同じ愛と光の女神ラヴィーユ由来の力だというのに。
人々を平等に愛しているのが、女神ラヴィーユではなかっただろうか? たった一人をこんなに寵愛をして大丈夫なのだろうか?
まぁ神の考えなど人間には分からないわけで。そもそも平等云々も人間が勝手に解釈して広めたものだ。
幅広く知られている教典の神々の解釈など、神々の一面に過ぎず、人間に取って都合の良い、綺麗な部分だらけだ。本来の神々はもっと独善的で、自分勝手で、人間を粗末に扱うような側面もある。
それを知っているのは公爵家に代々伝わる教典に書いてあったからだ。王家や上位貴族なら知っていることだ。
(国王陛下もリナルドも、そして家族すら知らない……《女神の寵愛》の本当の力)
しかし、この力のことを知っているのはエステルだけだ。
下手に教えてしまえば、今度こそ本当に祭り上げられ、利用されることが目に見えていた。
だから、今まで誰にも言わずに黙っていた。これからも言うつもりはない。婚約破棄したのに、それを戻されても困る。
しかしせっかく授かったこの力、腐らせるには惜しい。そう考えた彼女は秘密裏にあることをしていた。
(婚約破棄で自由になったのですから……あちらの顔で本格的に活動してもいいですね!)
婚約破棄された後とは思えないほどに、清々しい気分でエステルは地平を駆けていった。
……ちょっと調子に乗って転びかけたのは秘密だ。