殺してくれ、と言われましても
「――……貴方は、お金さえ払えばどんな望みでも叶えてくれると聞きました。どうか――どうか、私を殺してはくれませんか。」
軋んだ扉を開けるなり、そう告げた娘は、豪華な装飾の鞘に収められた短剣と見るからに重そうな革袋を煤で汚れた机に置いた。
娘の声は小さく、ほとんど囁きに近い――しかし、言葉の端々には揺るぎない決意が感じられた。その視線は机の向こうの男を射抜くように真っ直ぐだが――どこか陰りがあり、まるで深淵を覗き込むかのような冷たさがあった。
――歳は18かそこらか。肌は雪のように白く、長い睫毛の影が頬に落ちている。深紫の外套を頭から爪先まで被って身なりを隠しているつもりだろうが、その所作や言葉遣いから、「良いところのお嬢さん」であることは容易に分かる。
この薄暗く陰気な部屋に、彼女のような存在は到底似合わない。湿った木と石の匂いが充満するこの場所には、まるで光を拒絶するかのような重苦しい空気が漂っていた。石の床はひんやりとして冷たく、ところどころに苔やカビが生えていた。もう既に日も暮れ始め、部屋の隅からは闇が顔を出している。本来このような場所には無縁であろう洗練された存在は、無機質で冷たい空間に溶け込むことなどない――水に一滴の油を垂らしたかのようで、異質だった。
男はその娘を一瞥し、面倒くさそうな予感を感じ取った。こういう依頼は、金では片付かない事情が絡むことが多い。彼は中途半端な長さの前髪を掻き上げ、面倒ごとを振り払うようにため息をついた。
「殺してくれ、ね……」
男は小声でその言葉を繰り返しながら、机の上に置かれた短剣と革袋に目をやった。短剣は豪華な装飾が施された見事な一品で、明らかに殺傷能力を備えていない。きっと、権力や身分を象徴する装飾品として作られたものだろう。革袋はずっしりと重く、中を覗けば――たっぷりと詰められた金が、部屋の僅かな光を受けて煌めいている。
彼は短剣の鞘を抜いて弄ぶようにその短剣を手の上で踊らせる。動きは緩慢で、どこか無造作だったが、その目だけは鋭く娘を観察していた。どうやら単純な話ではなさそうだ、と。
ここ――コンツァの町は、石畳の道が広がり、色とりどりの建物が並ぶ、小さな港町だ。小さな町ではあるが、港に面した広場には活気ある市場が広がっていて、昼夜を問わず人々が行き交う。そこから奥に一本――いや、もう一本さらに路地を入った行き止まりに、「何でも屋」とだけ書かれている小さな木製の看板が掲げられた2階建ての建物がある。
此処こそが、この国で密かに囁かれている「何でも願いを叶えてくれる店」なのだ。
その店は風変わりな場所だった。外観はコンツァの何処にでもあるただの小さな店で、内装も質素そのもの。木の机は使い古されたものだし、二つだけの椅子は擦り切れてしまってすっかり背もたれが頼りない。――だが、この店にはどこか異質な雰囲気が漂っていた。
店主の男はまだ20歳かそこらの若者で、無愛想で冷徹な印象を与える外見だ。冷たいアメシストの瞳には常に疲れの色が見えている。髪は乱れた黒髪で、何度も手でかき上げる仕草を見せるたびに、その荒れた印象が強まる。しかし、よく見れば見るほど整った顔立ちで、冷徹な印象の中に魅力を見出す者もいるらしい。
噂では、彼が密かに思いを寄せている女性がいると言われていたが、そんな噂が真実であるかは誰にも分からなかったし――彼自身、そんな噂なんてどうでも良さげだった。
彼は自らを「ベリル」と名乗っていた。それが本当の名前なのかはこの町の誰も知らない。それどころか――彼がこの町の生まれなのか、それさえも知る者はいない。それ故、彼に関する噂は尽きることがない。それ程までに、彼の過去や正体は謎に包まれていた。
しかし、町の人々にとって重要なのは、彼がどんな人物であるかではなく――その仕事ぶりだった。
ベリルに依頼をした者は皆、彼が必ずやその仕事を完璧にこなすことを知っていた。それこそが、町の人々から彼が信頼される所以だった。迷子の子犬探しや貸し衣装の修繕といった平和なものから、金銭が絡む人間関係の調停や、命が危険に晒されるような荷物の運搬まで――どんな依頼でも必ずやり遂げる彼は、「なんでも願いを叶えてくれる店の店主」としてコンツァのみならず――尾鰭だけでなく背鰭までもがついて、その噂はついに王都にまで届いていた。
時にそんな噂を聞いた貴人が王都からわざわざ訪れることもある。その多くが「誰かの命を奪え」と机の上に大金を積むのだが、ベリルがその類いの依頼を受けることは――決してない。
「あいにく、俺は殺し屋じゃないんでね。……もし、命を奪う以外で解決できるのなら、その依頼を受けよう。」
殆どの依頼人たちは、ベリルの言葉に失望し、何も言わずに店を後にする。しかし中には、怒りに駆られて思わず手を上げようとする者もいる。その時、ベリルは一切の躊躇を見せることなく、冷静に彼らを店から叩き出す。
「――手を出すのなら、お前の依頼は受けない。」
彼が冷ややかに言い放つと、相手はそれ以上抵抗することなく、怒声をあげて店を去るのが常だった。
それでも、ベリルの元へ足を運ぶ人間は絶えなかった。暗殺、金銭に執着する者から、失恋や裏切りを抱えた者まで、様々な依頼が彼の元に持ち込まれる。だが、彼の姿勢は一貫していた。命を奪う仕事は受けない――それが彼の譲れない信条だった。
ぴちゃん、ぴちゃん――
木桶に水滴が落ちる音が、静寂の中で唯一のリズムとなり、店の薄暗い空間に響き渡る。刻まれる音のひとつひとつが、時間の流れを感じさせる唯一の指標だった。この店には、正確な時を示すものは何一つない。ただ――天井から染み出した雨粒の落ちる音だけが、時の経過を教えてくれる。
どれだけの時間が経っただろうか。遂にベリルが閉ざしていた口を破る。
「……俺は人を殺めることはしない主義だ。」
彼の目の前に立つ娘の、サファイヤのように深く、冷たく光る瞳と、彼の二つのアメシストの瞳が互いに鋭く絡み合う――沈黙の中で、お互いの意志がぶつかり合っているのだ。
ベリルは一歩も引かず、娘の瞳を真正面から見据えていた。その瞳の奥に隠された何かを感じ取りながらも、彼は冷徹にその言葉を繰り返す。
「――……命を奪うような依頼は、受けない。」
娘は少し俯くと、再び顔を上げて店主に尋ねる。
「……どうしてもですか。」
ベリルは腕を組み、少しだけ視線をそらすと、一際大きなため息をついた。その音は、静かな店内に不協和音を生むかのように響く。彼は目前の机に足を乗せ、目の前にいる娘の問いかけに答えるべきかどうかを考えているようだった。
「逆にお前は、俺にどんな答えを望んでいる?」
娘はその問いに、少しだけ驚いた様子を見せたが、すぐにその表情を引き締めた。彼女の鋭い瞳は、ベリルをじっと見つめたままだった。
暫くの沈黙が続く中、娘はゆっくりと口を開いた。
「望んでいるのは、貴方が私を殺してくれること……それ以外には、もう何もいらない。」
その声は確かに震えていたが――決して弱気なわけではない。強い意志が込められていることを、彼女の白くなった指先が示している。
ベリルはその言葉を聞き、しばらく無言で娘を見つめた。彼女の決意と、そこに潜んでいるだろう深い感情に、思わず目を細める――サファイアの瞳にはどこか深い悲しみや絶望のようなものが見え隠れしているのだ。だが、すぐにその感情を押し込めるように、冷徹な店主の表情を取り戻した。
「俺は――お前のような目をする人間を二種類知っている。」
彼の言葉は重く、店の薄暗い空間に響いた。ベリルはその後の言葉をじっくりと選ぶように続けた。
「一つは、真実を背負いきれなくなった者。自分の犯した罪や、背負いきれない何かから逃げるために死を選ぼうとする者。」
ベリルは少し間をおいて、目の前の娘をじっと見つめた。彼女がどちらなのかを、見定めるように。
「もう一つは、何もかもを諦めた者。希望も未来も見失い、ただただ終わりを求める者。」
ベリルは腕を組みながら、机の上に置かれた短剣を軽く見やる。短剣は彼の手の中で動くことなく、ただ静かに存在している。
「お前は、どちらだ?」
娘はベリルの問いに口を噤んだ。先程までただ真っ直ぐを見つめていた彼女のサファイヤの瞳が揺れ、何度か口を開こうとしては、また閉じる。言葉が出てこないのは、何かを言うことが恐ろしいからではない――きっと自らが抱える複雑な感情に向かい合うのが怖いのだ。
彼女は深く息を吸い込むと、再びベリルを見つめ、少しだけ震えた声で言った。
「私は――……」
彼女は一度言葉を止め、再び深く息を吸い込んだ。そして、覚悟を決めたように、ゆっくりと続けた。
「私は、逃げることもできなかった。自分が何を望んでいるのか、どうしてこんなことになってしまったのかも分からない。ただ、もう生きる意味も、未来も感じられなくて――見知らぬ貴方に殺してほしいと願うほどには。」
彼女は少しだけ視線を逸らすが、すぐにベリルの目を再び見つめた。
「だから――お願いです、私を終わらせてください。」
彼女の声には確かに終わりを求める切実さがあったが――それ以上に、どこかで助けを求めるような微かな響きがあった。それはまるで、自分の中で言葉が形を成さず――ただ誰かに受け取ってもらうことを願っているかのように。
ベリルは静かに机の上の短剣を手に取り、光の加減で刃が鈍く光るのを見つめた。そして、机を乗り出してゆっくりと娘の喉元へとその切先を向ける。
急に切先を向けられたその娘はぎゅっと目を瞑り、小さく震えていて――思わずベリルは苦笑する。
「お前が望んでいるのは、死んで終わりにすることじゃないように聞こえる。寧ろ――お前自身がどうしたいのか、その答えをまだ探しているだけなんじゃないか?……だから、ほら。あんなにお前は死を望んでいたのに、いざその瞬間が来ると、恐怖に震えている。」
娘の瞳がかすかに揺れる。その揺れに確信を得たのか、ベリルは口元に滅多に見せない微笑みを浮かべた。
「――終わりを望む奴は、こんな風に助けを求める目をしない。俺にはそう思えるんだが、どうだ?」
その言葉は柔らかく、けれど断固とした響きを持っていた。静寂の中で木桶に落ちる水滴の音だけが変わらず、一定のリズムを刻んでいる。
娘は喉元に突きつけられた短剣を見つめながら、言葉を失っていた。鋭く光る刃が、彼女に現実を突きつけているかのようだった。死を望むと言いながら、体が本能的に震えるその矛盾に、彼女自身も気付かざるを得なかった。
「私は――……本当に……。」
震える声で言葉を紡ぎかけたが、最後まで続かなかった。代わりに、瞳からぽろりと涙が一粒こぼれ落ちる。それは彼女の中で押し殺してきた感情が、ついに溢れ出した瞬間だった。
ベリルはその様子をじっと見つめたまま、短剣をゆっくりと引き戻す。そして、再び机の上にそれを置くと、深い息をついた。
「――お前は死を望んでなんかいない。ただ、どうすればいいか分からないだけだ。」
彼はその言葉を静かに、だが確信を持って告げた。
「本当に死を望むなら、この短剣で自分で終わらせられるはずだ。でも、お前はそれをしない。理由は簡単だ――お前はまだ、生きる理由を探しているんだよ。」
もっとも、こんな短剣じゃ死ぬことも出来ないが、とベリルは軽口を飛ばしながら、短剣を鞘に収める。
娘はその言葉を聞き、嗚咽を堪えるように口を押さえた。その震えは恐怖からではなく、自分でも気づいていなかった心の奥底を引き摺り出されたからだろうか。
「俺は命を奪う依頼を受けないし――救うなんて大それたこともできない。ただ、こうして話を聞くくらいはできる。」
ベリルは椅子に深く腰をかけ直し、腕を組んで娘を見据える。
「さあ、お前の話を聞こう。お前がなぜここに来たのか、その理由を。」
彼の言葉は強制するものでも、急かすでもなく、ただ娘の心の重荷を下ろさせようとする静かな力があった。その空間に再び静寂が訪れるが、それは重苦しいものではなく、どこか暖かなものだった。
◇
ベリルは部屋の明かりを灯すと、普段あまり使うことのないコンロに火をかけた。戸棚の奥から引っ張り出して並べた二つのマグカップのうち、一つは口が少し欠けている。
「口にあうかはわからないが……少しは落ち着くだろう。砂糖もミルクもないけど、そこは我慢してくれ。」
そう言って彼は目元を赤くした娘の前に、温かい紅茶の注がれた、口の欠けていないマグカップを置いた。無機質な冷たい部屋に、紅茶の湯気が満ちていく。
「……ありがとうございます。」
彼女は両手でマグカップを包み込むように持つと、ほんのり立ち上る湯気を見つめた。その指先は微かに震えている。
「私は――……フィーリと申します。」
娘は少し間を置いてから自分の名を口にした。その声はどこか遠慮がちで、けれど確かな響きを持っていた。彼女自身、その名前を言うことに微かな迷いがあったように見えた。
彼女の名を聞いたベリルは片眉を上げた。そして、外套を脱いだ彼女を一瞥する。
「フィーリ……か。」
ベリルはその名を小さく呟きながら、記憶のどこかを探るように視線を宙に彷徨わせた。けれど、はっきりとした答えは浮かばない。どこかで聞いた覚えがあるような、ないような……けれど、それ以上を詮索することはしなかった。
「フィーリ、お前は見るからに良いところの娘だが、伴もつけずになぜこんな場所へ?」
彼は目の前の机の隅に埃が被っているのを見て、袖口で拭き取りながら彼女に尋ねた。
「……それは、その――」
フィーリは言葉に詰まり、視線を落とした。マグカップを握る指先に再び力がこもる。答えを探すかのように、彼女の瞳は揺れている。
ベリルはマグカップを軽く持ち上げ、一口すすった。安物の紅茶の香りが鼻と喉を通り抜ける――決して、答えを急かすようなことはしない。
「訳ありってわけか。別に無理して話す必要はない。」
良いとこ――おそらく上位貴族の娘が、もう日の暮れたこんな時間に一人で自分を殺してくれ、とここへ来たのだ。訳あり以外に他なかった。――貴族の娘が一人で訪ねてくるなど、これまでに一度や二度の話ではない。望まぬ結婚から逃げたい娘、婚約者がありながら他の男と関係を持っていたことが露呈した娘など、その事情はさまざまだった。
「――ありがとう、ございます。」
フィーリは小さく呟き、再び湯気の立ち上る紅茶を見つめた。その視線の奥にある不安と、どこかほっとしたような気配を、ベリルは確かに感じ取っていた。
ベリルは退屈そうに、端に避けた短剣をおもむろに手に取った。鞘には大小さまざまの宝石が散りばめられていて、この鞘の値段を想像するだけで目眩がしそうなほどだった。ふとポンメルを見ると、そこには見覚えのある印が刻まれていた。
「お前、レヴォーヌ公爵家の人間なのか……?」
ベリルの言葉に、フィーリは一際大きくその小さな身体を震わせた。彼女の顔が一瞬にして青ざめ、その目がわずかに大きく見開かれる。恐怖の色が一瞬だけ、でも確かにその瞳に浮かんだ。
(確か、レヴォーヌ家の真ん中の娘が第二王子の婚約者だったよな――……まさか?)
何処かで聞いた覚えのある「フィーリ」という名と、彼女がレヴォーヌ公爵家の人間であるという事実。それから導き出される答えは一つしかなかった。
「……ああ、成程そういう訳か。」
そして、目の前で可哀想なほど震えている彼女を見つめる。フィーリの顔は一層青ざめ、まるで目の前に現れた真実を受け入れたくないかのように、震える指で紅茶のカップを握り直していた。
――フィーリ・フォン・レヴォーヌ。数カ月前までこの国の第二王子の婚約者、だった者。――第二王子の運命の女性を傷つけた悪女。
「――お前が今国中で話題の悪女って訳か?」
ベリルの言葉に、フィーリはわずかに顔を引きつらせた。彼女の表情に浮かんだ一瞬の苦痛を、彼は見逃さなかった。けれど、すぐにその表情は元に戻り、無表情に近いものへと変わった。紅茶のカップを持つ手が少し震えているのが、彼女がその言葉にどれほど傷ついているのかを物語っていた。
「……ええ。私は確かに悪女フィーリ・フォン・レヴォーヌです。今はもう家を追い出された身ですので、ただのフィーリですが。」
そう言うと、彼女は悲しそうに、無理やりに微笑んだ。その表情に、ベリルは少し意地悪く聞いたことを後悔しながら彼女に尋ねる。
「――すまない、少し意地が悪かった。お前は本当に巷で噂されているような悪事を働いたのか?あまりにも出来た話ばかりで到底信じられることはできないが……」
第二王子が下町にお忍びで出かけた際、偶然出会った平民の娘と恋に落ち、「彼女こそが運命の相手だ、彼女を妃にする」と言い出したことが全ての始まりだった。勿論、彼にはフィーリという婚約者がいる。しかも由緒正しき公爵家の娘だ。王家としても到底王子のその主張は受け入れられるものではない。しかし、レヴォーヌ公爵家と敵対関係にある侯爵家がその平民の娘を養子にしたことで、状況は一変する。王家がフィーリを側妃とするという第二王子の主張を受け入れたのだった。
はじめはフィーリに同情する声も多かった――しかしちょうどその頃から、彼女に不名誉な噂が流れ始めた。第二王子の運命の相手――名をリーナと言うが、彼女を階段から突き落としただとか、周りの令嬢と共に茶会で笑いものにしているだとか。さらに、王宮の晩餐会でリーナのドレスにわざとワインをかけた、などという噂まで囁かれるようになった。
噂は瞬く間に広がり、真偽はどうあれ「嫉妬深い悪女」というレッテルがフィーリに貼られてしまった。これにより、彼女に寄せられていた同情は憐憫と軽蔑に変わり、彼女の名誉は急速に失墜していった。
「お前のせいでリーナ様が危険な目に遭われた!」という言葉が、令嬢たちの間では一種の決まり文句のように使われ、フィーリの居場所は徐々に狭まっていった。そしてついにはリーナが第二王子に泣きつき、彼女は糾弾され、婚約者としての地位を剥奪され――さらには実家であるレヴォーヌ公爵家にも「悪評を招いた娘」として責任を押し付けられ、フィーリは家を追い出されることとなったのだ。
フィーリはまるで女性の間で流行っている恋愛小説に出てくる「悪役令嬢」そのものだった。
「――私がしていない、と言ったら貴方は信じてくれるのですか?」
フィーリは呟くように言い、目を細めた。暗い色を帯びたその瞳は、過去の記憶を掘り返すように揺れている。
「確かに、リーナ嬢には強い言葉を使いましたが、それは殿下の婚約者として目を覆いたくなるような振る舞いを彼女がされていたからで……けれど、噂されているようなことは一切していないのです。」
彼女は一瞬言葉を切り、唇を噛む。周囲からの非難に晒され、名誉を剥ぎ取られる中で、彼女が守ろうとしたのは、真実と自身の誇りだったのだろうか。
苦しげに目を閉じ、深く息を吐いたフィーリは、やがてゆっくりと視線を上げた。その瞳は、悲しみと共に鋼のような強さを宿している。
「信じてほしいだなんて言いません。私はもう、信じてもらえる立場にありませんから――それでも、私は嘘をついていません。それだけは知っておいてほしいのです。」
その言葉には、諦めと決意が混じり合っていた。彼女は傷ついている。それでもなお、自らの矜持を手放すことはなかった。
ベリルはそんな彼女の姿を静かに見つめた。信じるか信じないかは彼の自由だと、彼女自身が言外に伝えているようだった。しかし、彼女の目に宿る真摯さに、彼は少しだけ心を動かされる。
「――それで、死のうと思った訳か?」
ベリルは呟いた。そして肩を竦めると、すっかりぬるくなった紅茶を口に運んだ。
「――はい。貴方に渡した革袋の金貨とその短剣と少しの衣服だけ持たされて家から追い出されました。とは言え、今まで温室でぬくぬく育ってきた私は行く宛もありません。シスターにでもなろうかと思い、いくつか以前ご縁のあった教会を訪ねましたが、やはり『悪女』を受け入れてくれるところは無く――」
フィーリは言葉を詰まらせながらも、静かに続けた。視線は紅茶の表面に落ちたまま、震える声が部屋の空気を揺らす。
「 思えばこの短剣も、きっと覚悟の証に渡された物なのでしょうね。でも私にはそんな勇気はなくて――もう隣国に行くしかない、と途中で立ち寄った街で貴方の事を耳にしたのです。」
彼女の自嘲気味の微笑みが、ベリルの目にはひどく痛ましく映った。その笑顔には、たった18かそこらの娘が背負うには重すぎる屈辱や孤独が刻まれているようだった。
ベリルは無言のまま彼女を見つめた。ふと、自分の目の前に座るこの少女が、いったいどれほど絶望の中で選択肢を探し続けたのかを思う。王家の婚約者、名門貴族の娘、そんな肩書きがもたらす期待と重圧――そして、それを一瞬で失った喪失感。
「――だが、俺はお前を殺すつもりなんて毛頭ない。」
その言葉に、フィーリは一瞬だけ驚いたように顔を上げた。だが、すぐに再び視線を落とし、苦笑した。
「……自分勝手な願いだとは理解していたんです。自分で死ぬ勇気が無いからって、他の人の手を汚させるなんて。――私はきっと、少しでも楽になりたかったんだと思います。」
ベリルはその言葉に少しだけ眉をひそめたが、すぐに言葉を飲み込む。自分が何か言ったところで、きっと彼女を救えるわけではないことは分かっていたのだろう。
「……フィーリ、どんな理由があろうと、死ぬことだけがお前の唯一の選択じゃない――死ぬな、フィーリ。」
その言葉は、まるで何かを引き止める糸のように、フィーリの心の中で響いたようだった。止まったはずの涙が、彼女のサファイアを湛える。
「ぁ――……。わた、しは、生きることを……赦されるのでしょうか?」
「赦すもなにも、お前はやっていないのだろう?ならば――堂々としていれば良い。」
ベリルには分かっていた――それが出来たなら、今頃彼女は此処へは来ていない。それ程までに、フィーリを取り巻く悪意は恐ろしいものだったのだろう。彼女の気高さや、誇り――信念をへし折るのに充分な程には。
「――……そう、ですよね。でも――。」
「……なら、俺が赦すよ。お前は生きていて良いんだ、フィーリ。」
ついに、彼女の眦からぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。ベリルはしばらく、涙する彼女を優しげな目で見つめていた。
どれだけの時間が経っただろうか――数分だったかもしれないし、数十分だったかもしれない。ようやく呼吸の落ち着いてきたフィーリは、顔を覆っていた手を膝の上にのせ、ベリルに向き直った。
「ありがとうございます――……、」
「ベリルだ。」
「ありがとうございます、ベリルさん。私はきっと――赦しが欲しかった。死を赦しだと思い込んでいたみたいです。」
そう言って微笑む彼女は、どこか清々しい表情だった。そこには、先程まで抱いていた死への望みは無く――確かに、生への希望があった。
「フィーリ、今のお前は――何を望む?」
ふたつのアメシストが、フィーリを捉える。
「私はただ――新しい人生を生きたい。もう、フィーリ・フォン・レヴォーヌは死にました。」
これが、本来の彼女なのだろう。背筋をピンと伸ばし、どこまでも通る声でフィーリは告げた。
「……ですから――ベリルさん、依頼をしてもいいでしょうか。」
「……ああ、勿論。此処は『何でも屋』だ。」
「隣国でも、この町でも、どこでも構いません――私が新たに生きることの出来る場所を、一緒に探してはくれませんか。」
ベリルは、その表情を柔らかくした。彼がこんな風に微笑むことは、滅多にない。そして立ち上がり、右手を差し出す。フィーリもつられるようにして立ち上がると、差し出されたその手に自分の手を重ねる。
「――契約完了だ。」
ベリルの言葉に、フィーリは満開の笑みを浮かべる。彼女の顔に広がった笑顔は、まるで長い間閉ざされていた扉が開かれたかのようだった。――その扉が開かれた瞬間、部屋の中に温かな空気が流れ込んだ。
――硬く交わされた右手は、新たな未来への誓い。
――この日、フィーリ・フォン・レヴォーヌは確かに死んだのだ。
◇
「ソフィア――!この前の依頼の書類、頼んでも良いか?」
春の陽射しと、通りから届く柔らかな喧騒が差し込む「何でも屋」に、ベリルの声が響く。「自分を殺してくれ」という突飛な願いをされたあの日から、ふたつの季節が巡っていた。
「ええ、急いだほうがいいかしら?」
あの後、彼女はしばらく「何でも屋」に身を置いていた。隣国にせよ、この町にせよ――市井で生きていくには、あまりにも彼女は世間知らずすぎた。ベリルはそんな彼女を放り出す訳にもいかず、店の手伝いを条件に、二階の住居の使っていない一室を貸し出していた。
それから――彼女は名前も変えた。コンツァは王都から遠く離れた小さな町だ。「悪女フィーリ」の名を知っている人間は居ても、その顔を知っているものはまず居ない。けれど、過去の自分に別れを告げるため、フィーリはその名を捨て、今は「ソフィア」と名乗っている。
「さっき、ヤーレンのおばさんがベリルにお礼を言っていたわ。」
「ああ、この間屋根を直したからな。」
ソフィアは、この町で生きていくことを決めた。――自分を救ってくれた、彼の隣で。新品の揃いのマグカップを机の上に置く彼女の左の薬指が、さりげなく煌めいていた。
ここには、あの時――死を願った彼女はいない。彼女の瞳に宿る光は、かつての絶望を超え、新たな物語を確かに紡ぎ出している。
「――殺してくれ、なんてもう二度と言わないでくれよ。」
「ええ、決して。」
硝子窓から差し込んだ柔らかな光は――ひとつに重なった影を床へと映し出していた。