EP03 終わりの日-1
カァン。カァン。
非常事態を知らせる大きな鐘の音の合図が、二人をより深い恐怖へと落とし込んだ。霧がどんどん街に侵食していくのが分かる。
赤色の大きな回転灯が必死にうねり周って、高台への非難誘導を促していた。大きな爆発音と共に倒壊する建物の音が聞こえた。続けて、大勢の人間の慄き声が上がった。
鐘、倒壊、悲鳴。それらの音は全て重なり、街中の轟音となって交差するように鳴り響いていた。
先に体を震わせたのは大柄な男の方だ。途端に、大きな爆音が耳を震わせた。
破壊音と共に瓦礫が空中を舞い、二人に向かって薄っぺらい物体が飛ばされた。男は、咄嗟に少女の肩を掴んで投げ飛ばす。少女は反射的に受け身をとって、バランスよく足を着地させてみせた。
瞬く間に後ろを振り返る。目の前にはギザギザに切れた大きなトタンが突き刺さっていた。
あと少しでも遅れていたら、今頃真っ二つになっていたに違いない。無惨な自分の姿を想像し、ローレは息を呑んだ。
「大丈夫か?」
ローレは垂れた汗を拭って、落ち着いて首を縦に振った。落ち着く素振りをみせているが、表情からは一抹の不安の感情が伺える。
目の前の現実をまだ飲み込めていないようだ。不安を察したのか、二ベルは無言でローレの頭をさする。
「高台に向かおう。俺の後ろを辿ってついてくるんだ。決して逸れるなよ」
「……はい」
共に息を呑んで、高台にある一筋の赤い光の元へ向かった。この一帯は霧が深く、視界は殆ど見えない。濃霧に侵食されたエリアは、辺り一面グレートーンと化している。
ローレの目立つ赤色の髪の毛でさえ、識別するのが困難な程、無彩色に変色にしていた。
ニベルの大きな背中を目印に足を動かした。逸れないように目を凝らしながら男を追いかけ、霧を搔くように突き進んだ。
身体を引き裂かれるような鈍い音。人を貪り喰うような鋭い音。四方八方から聞こえる惨たらしい悲鳴が、二人の感情を畝らせた。
ニベルは居た堪れないこの現状に、歯を軋ませる。ローレは傍迷惑な煩いノイズを掻き消すように、静かに耳を塞いでいた。
急な斜面を登って、標高の高い地点にまで何とか辿り着いた。この場所にまで霧の侵食は見られない。霧の中から出られたという実感を露にし、二人は安堵のため息を漏らした。
ここに辿り着くまでに一体何人が犠牲になったのだろうか。考えたくもなかったが、三桁以上はとうに越えていただろう。ニベルは再び溜息をついた。
少女は来た道の方向を眺め霧の流れを確認していた。標高3000m以上あるこの場所でさえも、まだ安全ではない可能性がある。それを危惧しての行動だった。
少しずつの誤差程度ではあるが、こちらに向かって上がってきている気がした。
「先生、早く登らないと。ここにも直ぐ霧が上がっくるかも」
「俺は高台に逃げ遅れた市民の避難誘導をする」
「でも……」
「大丈夫だ。お前は他の避難者と先に一番上まで向かえ」
ローレは疑問に思った。ニベルは安心させる為なのか、穏やかに笑って見せた。それを見て、この人はお人好しな人間なのだと諦めた。
「必ず戻ってきてください」
「お前も無事でな」
ローレを背に、男が砕け落ちた瓦礫の中を抜けていく。ローレは不安だった。自殺行為に励むニベルが、居た堪れなく思ったから。
少女にも死んで欲しくない人間はいるのだ。立ち去る男の後ろ姿を目で追い続けた。やがて、男の姿は霧に包まれ見えなくなってしまった。
深い霧は止まることを知らないようだ。進み具合に拍車がかかり、あっという間に足元にまで侵食が始まっていた。周りの人間はそれに気付き、一目散で上に向かって走り出す。
ローレは震える手で胸を抑えた。ニベルという男はきっと無事に戻ってくるだろう。そう信じて、ローレも先に進み出した。
―ふと、足を止める。
この先には、下りの道がある。登りのルートは、一方通行ではなく、下る道も含め枝分かれしている。下りの道は勿論、霧に包まれて何も見えるはずがない。
霧から遠ざかるように進んでいけば、まず道を間違えることはない。何の問題もないはずだ。わざわざ濃霧の中を突き進むなんて、そんなもの自殺行為でしかない。
それなのに、不思議なことに迷っているようだ。冷たい少女が、人を助けることに考えを過らせていた。
ローレは、リーヴという男の生死が不安で仕方なかったのだ。
窮地に陥ってるなら助けに行かなくてはならない。死人に囲まれ、身動きが取れない状況にあるのなら奴らを即座に始末してしまわなければならない。
しばらく考える。ゆっくり目を閉じ、ぐっと息を呑んで決断した。あぁそうかと、ニベルが取った行動をなんとなく理解して、学校へ向かって下り始めた。
霧に包まれ、少女の姿は一切見えなくなった。
少し、熱くなってきた。全力で走ったからだろう。汗を何度も拭いながら、視界の悪い霧の中、薄っすら見える瓦礫を交わしながら突っ走った。
合間に出てきた死人を、挨拶代わりの如く仕留めていった。死人に対しての恐怖心や躊躇は、微塵もなかった。
普段から会っているせいだろうか。それらの頭部を刃物で何度突き刺そうと、ローレの心は一切ブレなかった。
パチパチという音が鳴り始めた。さらに熱くなった気がした。霧の中にもだんだんと慣れて、ぼやけた視界がクリアになっていく。
突き進むと、霧の薄い場所に出ることができた。そこは、大きな広場だという事が認識できた。
目の前には、ボロボロになって今にも焼け落ちそうな建物。地面には、黒い塊がいくつも落ちていた。気にも止めずに、そのまま学校を探し続けた。
だが、それを横切ったところで、全てを理解した。いや、理解したくなかったから見ないようにしていたのかもしれない。
一瞬見えたそれは、人間だった何かだと把握した。辺り一面には、焼け爛れた肉の塊が這いつくばるようにして力尽きていた。ローレは、学校のグラウンドの上に立っていた。
胃液が逆流し、肺の中に蛆が沸いたような気分になる。見てしまった事を後悔した。死人に耐性はあっても、人間の死体には耐性がないようだった。ローレ自身も、その事に驚いた。
あまりにもリアル過ぎる内臓物は、とても見れたものではない。汚い朱色の固形物と、そこから流れ出る赤く黒ずんだ液体が、事態の残虐さを物語っていた。
ローレは必死に堪え続けて、足を止めずに突き進んだ。
建物の中から、悲鳴が聞こえてくる。惨たらしい断末魔が、何度も少女の耳をつんざいた。
恐怖に屈している暇などない。建物からは火が立っている。入り口は崩れた瓦礫に塞がれており、窓からは死人の群れが押し寄せていた。
やがて、破られた一つの窓に死人の大群がなだれ混み始めた。室内に取り残され、逃げる道を断たれた人々の叫び声が聞こえた。
断末魔と共に音は止み、静かになった。
ローレは深く息を呑んだ。身構えて、その方向へと足を進めた。鋭いナイフを握りしめて、ゆっくりと窓の中に飛び込む。
すぐ異変に気が付いた。中にいるであろう死体の山が見当たらない。ローレの元に押し寄せてくるはずの死人の大群もいない。
人一人おらず、見えたのは死人だけ。頭部を破壊され機能停止した骸が、教室に散らばるように倒れていた。
何が起きたのだろうか。ローレは戸惑いの表情を見せる。大勢の叫び声が聞こえたはずなのに、誰もいないはずはない。
けれど、彼が生きている可能性が上がるなら、それで良いと安心した。―その瞬間だった。
「そんな……」
ローレは途切れるような声を漏らした。
骸に混ざる、顔覚えのある男がいたからだ。死骸に重なるようにして、その男は倒れ込んでいた。その男は、少女の思い人であった。
男を引きずり出し、すぐに状態を起こさせて楽な体勢に寝かせてあげた。幸い、男にはまだ息があった。
「ありがとう」
男は生気のない掠れた声で感謝の言葉を放った。額から血を流している。ひどく息を荒げている。それでも、なんとか一命は取り留めていた。
「お礼なんていいよ。それより身体は大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。この通り」
「……」
ローレは沈黙のまま、何も返せなかった。言葉を失い、愕然としていた。この悲惨な現実を、光景を、受け止めきれなかったからだ。感情を押し殺すように、ズッと顔を俯かせた。そして。
「……じゃない」
「大丈夫じゃない」
強く言い放った。ずっしりとした重い言葉が、二人の空気をさらに圧縮させる。ローレは、顔を埋めたまま唇を噛み締めた。男は、不安を募らせて少女を見つめている。
ローレはゆっくりと顔を上げた。男に合図して、躊躇いながら自分の首を指差した。男は、目を丸めて恐る恐る指された部位を触った。
「あ」
男の額から、大きな汗が滴った。首を触れた男の手には、血がベッタリと付いていた。
男は噛まれた事を悟った。絶句するしかなかった。