EP02 少女の花占い-2
ドゴォォォン。
大きな開閉音が教室に響き渡る。いつも通りの脈絡のない授業が終わった合図だった。
この音を聞くや否や、周囲の歳の違う少年少女達が立て続けに席を立った。十代半ばの目つきの悪い女が、一人の男に駆け寄った。
「ねぇリーブ。あんなやつに関わるのやめなって」
「どうして?」
リーヴと呼ばれた男は、裏表ない眼差しで女に言葉を返した。いつも一人で座っている少女の席は、今日はひっそりと空いていたのだった。
「……周りの目。っていうかあいつ、いっつも席で1人座ってるし、何考えてるか分からんなくて気味悪いし」
「それで?」
男は緩んだ表情を崩さずに言葉を問い返す。いつも通りの冷静沈黙な態度を変えない。
目つきの悪い女は、リーヴという男が赤髪の少女に話しかける事を良く思っていないようだった。
「リーヴは優しいやつだから、誰にでも気さくに話しかけてるけど、あいつは危ないんだよ。私見たんだ。訓練でのあいつの顔」
そのまま、女は騒然とした態度で言い放つ。
「人殺しの目をしてた」
「やめとけミノ、そんな根拠もない話。みんなが聞いてる」
気付けば、周りの子供達が二人を中心に一目していた。彼ら同志で交わしていた会話を止めて、唖然とこちらの方を見つめていた。
一瞬、会話が止まってしまう。ミノと呼ばれた目つきの悪い女は、リーヴの放つ低い声と冷たい表情に思わずたじろいだ。
重い空気感と視線に圧倒され、悔しそうに俯いた。ミノは、自分の感情がリーヴに伝わらないことが気に入らないらしい。
それでも、何かを決心したミノは、顔を上げ直して堰を切ったように机を叩いて冷たい言葉を言い放った。
「みんな言ってんのよ!?私の家族も友達も、あいつの目は霧の中にいる化け物共と同じ色だって!」
ミノの昂った声に、辺りは静まり返る。誰も、言葉を返さなかった。
やがて、授業のチャイムが、会話の幕を下ろすこととなる。
再び、教室中の重い空気が凍り付いたのだった。
かつて、赤い髪の男がこの都市を統治していた過去があった。男は、無慈悲な統制による大量虐殺を行い、市民の反感を買うことになる。
やがて、市民が一体となって起こしたクーデターの末に追い詰められ、挙げ句自らの命を橋の上から捨てたそうな。
今でも、橋の下に眠る忌まわしいその男の存在は、赤髪の少女の祖父にあたるその男は、少女にとって拭えることのない呪いそのものであった。
自身の父親は知らず、母親は何かの間違いで少女を産んだ後、物心のつかない時にどこかに消え去った。
その行く末、裕福な人間の養子として預けられたのだが、少女への扱いは極めて差別的であった。
それは血縁上の理由ではない。
ただ少女が、化け物と同じような生気のない焼けこげた緋色の目をしていたからだった。
―
瓦礫の散らばった人気のない廃屋。そこには独りの少女が佇んでいる。
少女は、血のついたナイフを枯れた葉っぱで雑に拭き取り、懐にしまった。血の滴る死者なんて気にも止めず、片手に花を持ち直す。
彼との会話の想像に浸ることにした。そうすることが、少しでも、ひと時でもこの辛い現実から離れられると思ったからだ。
これが現実にになればどれだけ幸せだろうかと思いに耽る。自分の手を、そっと胸に当てて考える。
この胸の高鳴りはいつになれば止んでくれるのだろう。もしかしたらなんて理想論に勘違いして、やっぱり自分ではダメなんだと不安と焦燥の念に駆られて落ち込んで……。
そうやって、一喜一憂を繰り返す毎日がとても辛い。もう終わったものだと分かっていても、今ある感情は紛れもなく本物の愛だ。報われない現実を、認めたくなかった。
また雲行きが怪しくなった気がした。遠くから砂利が転げるような音がした。
その石の破片が、溝湖に落ちたような音がした。誰かが来たことに気づいた。
彷徨う死人が来たのだろうと、少女は懐に手を伸ばす。
「ここは危ないぞ。七番」
灰色の煙幕に隠れ、はっきりと視認できない。やがて霧を抜けてこちらに来るその声の正体は、黒い隊服を着た見知らぬ大男だった。
体付きはがっちりしていて、肉付きもある。血管の浮き出る様子から察するに、相当筋力があることがわかる。
「二ベル先生?」
「出席番号………。七番だろ。すまないな、お嬢さんの名前を忘れてしまったものでな」
少女は目を丸くした。この男は、少女のクラスを受け持つ教師だったからだ。普段から人と顔を合わせない少女にとって、覚えている人間がいる事なんてほとんどなかった。
だが、男の屈強さを彷彿とさせる野太い声、チョークが何度も折れるほどの筋肉量。それらのピースが、少女の知っている人物の面影を脳裏に巡らせる。
「あの、なんで……」
「一人で危険区域に出た生徒がいると聞いたもんでな」
そして、いつも教室の扉を力強く締めていた男性教員でもある。黒髪で大きな口が特徴のこの男は、声量が大きすぎることでよく周りの生徒に小馬鹿にされていたのを聞いたことがある。
煩いスピーカーだとか、壊れたレトロコンポなどど言われていた覚えがある。
それでも、ニベルという教員の実力は筋金入りとも、座ってノートを暗唱している時に噂で一度聞いたことがあった。
そんな男が何故ここにいるのか、自分に声をかけたのか。少女は疑問を浮かべた。
朽ち果てた瓦礫を尻に敷いて座り込む少女の隣に、何も言わず大男のニベルが腰を下ろす。
「死人と遊ぶのは、楽しいか?」
男の言葉は人を小馬鹿にした様なものでも、いつもの馬鹿デカい声量でもない。
全く悪意の感じない、とても清廉で平静とした声だった。
「楽しい……かな。この子達は喋らないから」
この男は変な奴だなと思った。同時に、その言葉の重みが自分に向けられた。自身が他の人と違うということを、身に染みて経験していたからだ。
考える度に言葉の重みが増して、胃液が逆流してくるのがわかる。とっさに口を押さえた。
ニベルは、少女の慌てる様子を見ても、微動だにしない。自然に落ち着くまで、何も言わなかった。
「大変だったんだろ」
沈黙が続いた後、男が正面を向いたままさりげなく呟いた。
少女はとっさに眉に力を入れた。虚な目を隠すように、顔を下へ向ける。
堪え続けてきた、溜まった感情が、爆発してしまいそうになったからだ。
「俺で良ければ話し相手になってやる。遠慮はいらん」
男の言葉に感情が揺れたのか、少女は大きく目を見開き、涙ぐんで勢いよく男の方へと視線を向けた。
大きな声を発しそうになったが、直前で堪えた。視界が、だんだんと黒ずんでいくのが見えたからだ。
霧が濃くなっている証、死人が来る予兆。このままここに居続けるのは危険すぎる。
「あの……」
「問題ない。邪魔なエキストラ共は俺がなんとかしておく。お前は好きなだけ言いたい事を吐けば良い」
少女の言葉を遮って、男が少女の方を向いた。一瞬だけ目が合った気がした。少女は、直ぐに下へ向き直した。
いつ死人が襲ってくるかわからない状況にいるのに、不思議と恐怖心はなかった。
生死の不安よりも、少しでも早くこの感情を吐き出したいという一心と、守られているのだという絶対的な安心感が大いに勝った。
―
少女は洗いざらい吐き出した。人間関係の悩み。家族間での重い不安。失恋という戯言の話。
心の中にあるフラストレーションを、思うままに全て吐き尽くした。
途中で何かを付き刺す鈍い音が何度も聞こえたが、気にも止めず会話を続けた。男もまた、血の付いた刃物を片手に親身になって頷いてくれた。
かれこれ1時間が経って、よくやく霧が晴れてきて、スカイブルーの青空が姿を現した。
眩しい太陽光が二人の変わり者を煌びやかに照らしていた。
「ローレ・レーヴライン。私の名前です」
「教えてくれてありがとな。覚えやすくていい名前だ」
少女は「ありがとうございます」と頭を下げる。男は眉を緩めて優しく頷いた。
人に自分の名前を名乗ったのはいつぶりだろうか。学校に初めて来た時以来だろう。
それは、本人にも思い出せないくらい昔の話で、思い出したくもない記憶だった。初めて教室の壇上に立った時、周りの人々はローレという人間を見て恐れていたのだ。
少女は改めて、この男は変わっているなと思った。この言葉の重みが再び自分に返ってきたが、いつにも増して軽い気がした。
「ニベル先生、普通ってなんだと思いますか?」
ニベルは「普通か……」と言わんばかりに目を瞑って両腕を組み、顎に手を当ててしばらく考え混んでいた。ローレは何も言わず、静かに返事を待っていた。
納得のできる答えが出たのか、ニベルは小さく口を開けて頷いた。
「俺が思うに、普通ってのは世間での一般常識を指すのだろうが、それは住む世界や時代によって大きく変わっていくものだ。おいて、人それぞれが違う価値観を持っている」
男は続ける。
「要するにだ、ローレ。普通かどうかなんて、考えるだけ無謀な話だと思う。世間体になんて拘らなくたって、お前自身のありのままで生きていれば、それはお前自身にとっての普通だ」
「そうだといいな」
「少なくとも、俺はそう信じてる。それに、余計なことを考えて苦しむくらいなら、間違ってたとしてもそう思う方が楽にきまってる」
「何があろうと、お前はお前だ。くよくよしたって、泣いたって赤っ恥かいたって関係ない。ローレ・レーヴラインはお前にしか務まらないんだ」
「はい」
ローレは嬉しかった。
「どうだ?俺の演説うるっときたか?」
「はい、うるっとしました。ありがとうございます。二ベル先生」
「それはよかった。あと恋愛についてだが、すまんが俺も知らん!」
「はい、それは期待してませんでした」
「ハハハ」
初めて自分の心を打ち明けることができて。
「それになローレ、聞いて驚け。お前は戦闘訓練においては群を抜いている。学問においては問題あるがな!」
「そうなんですか、嬉しいです。学問はその、また頑張ります」
初めて信用できる人間に出会えて。
ローレは雲が晴れたようなスッキリした顔で、頷き続けた。
「ローレ、お前良い顔して笑えるじゃないか」
「え……そうでしょうか?」
その時、ローレは笑っていた。控えめに、遠慮するように微笑んでいた。
赤髪の少女と男は立ち上がり、生気に満ちた表情で空を見上げた。
目に映るのは青い快晴。雲ひとつないスカイブルーの空。
爽快な気分になる景色を見て、少女の心にあるわだかまりは、綺麗さっぱり流れ落ちた気がした。
そして2人は帰路を辿る。このまま進めば街に着くだろう。
その光景は、父親を追いかける娘のような、はたまた頼りになる兄の後を追う妹のような。
家族のような一面であったと、誰が見ても思うだろう。
二人を囲むように、これから起こる事を祝福するように、大きな半透明の虹が浮き出ていた。
2人は楽しく日常会話を交えながら、街へ向かった。
しばらく歩いて、時々笑い合って、平地を抜けたら急な斜面をのぼって、街の景色が見えてきたところで違和感に気が付いた。
足を進めるごとに、視界の霧が濃くなっていくのがわかった。
「おかしいね。いくら進んでも霧が消えない。それより、街に近付くに連れて濃くなってる……」
「まずいな、これは異常だ。異常すぎる。この標高まで来て霧が出てるって事はそれはつまり……」
二ベルの言いたいことは察するまでもない。目の前に映る景色が、2人の不安を確信の渦へと放り込んだ。
それは、決して喜ばしくない話。
その光景を前にした2人は、目を見開いたまま、お互いを見合わせた。
男は驚愕した顔付きで少女を見下ろしている。少女は男を、ひどく狼狽した顔付きで見上げている。
街が、真っ黒に染まっていた。