3.失くしたものと多分手に入れたもの
その日は外から帰った母親が獲物を持っていなかった。そしてそれだけではなく後ろ右脚に怪我をしている。今までそんなことは一度もなかった。
(あんだけデカくて強そうなのに)
タクミの中で最強の存在だった母親が怪我をした。
そのことに動揺する間もなく、急かされて兄弟揃って洞窟を出る。母親は辺りをかなり警戒しながら移動を促している。
(なにかが、追ってきているのか)
背筋をゾワリと寒気が駆け抜けた。
外は雨が降っていてとてもじゃないが引越し日和とは言えなかった。地面もぬかるんでいて冷たいし鼻も利かない。
周囲を探ろうと鼻をひくつかせても感じるのは濡れた土と雨の匂い、それと草の匂いだけ。それらが強すぎてうっかりすると母親の匂いさえ見失ってしまいそうだ。
ビクビクしながら進むタクミを安心させるようにモフ太郎とモフ次郎が両隣に並ぶ。
(大丈夫。大丈夫だ。追ってきてる奴も匂いがわからなくなってるだろうし)
何度もそう言い聞かせながら必死に脚を動かした。
冷たい雨の中、どれだけ歩いたのか。
前方で母親がようやく立ち止まったのが見えた。その横には岩壁に縦長の亀裂。あそこが新しい家か。
「ギャウン!」
ほっとしてそちらへ向かおうとした時、モフ次郎に思いっきり体当たりされて吹っ飛ばされた。無意識に口から甲高い悲鳴が出る。
(なに。なにが……)
自分がいた方に視線を向けると母親よりずっと大きな、ハリネズミと熊を足したような化け物。その口の端から血が滴っている。
(…………え?モフ次郎、は?)
自分を守るように両隣にいてくれた兄弟の片割れがいない。モフ太郎がすぐにタクミの前に飛んできて化け物相手に唸り声を上げた。
「ギュアァァ!」
母親が異常を察知して戻ってきたらしく化け物の喉笛に噛み付いた。化け物は母親を振り落とそうと暴れ彼女の背中に爪を立てる。
(あんなに簡単に……嘘だろ?)
夢でも見ているんだろうか。それなら早く覚めろと念じるが現状は変わらず兄弟はひとり足りない。
しばらく粘っていた母親が遂に地面に叩きつけられた。地面から再度攻撃を仕掛けるが大きな前脚で防がれ逆に爪で攻撃されている。
段々と母親が血だらけになっていき、それを見ていたモフ太郎が焦ったようにタクミを後ろにグイグイ押す。
(あ、あぁそうか。逃げなきゃ)
ようやくそのことに思い当たり自分の足で一歩踏み出した。
当然一緒に来ると思っていたモフ太郎はそれを見届けると「キャウ」と鳴き化け物の前に飛び出していく。
(ダメだ。ダメ。行っちゃダメ!)
「キュウゥン!キャウ!キャウゥ!」
必死に呼びかけるが止まらない。普段おっとりしてるくせになんでこんな時だけ。
「バウッ」
モフ太郎が聞いたこともない低い声で吠えると周囲で石が大量に浮き上がり化け物の顔面に次々とぶつかった。化け物が怯んだ一瞬の隙に母親が再度首を狙う。
(やった!いける!)
そう思った時。
「ガアアアァァ!!」
化け物が母親を吹っ飛ばしモフ太郎を大口で飲み込んだ。
有り得ない程あっけなく。
(…………は?)
それから僅かな時間でその場には動かなくなった母親と化け物、自分だけになった。
(……なんで。なんでだよ。昨日まで皆一緒で)
徐々に麻痺していた感情が動き出す。溢れ出てくるのは全て燃えるような怒り。
「ギュゥゥ」
目の前が真っ赤だ。これ程の怒りを感じたことなど前世を含めて一度もない。
いつの間にか自分の人生が終わっていたことも、なんでか子犬になってしまったことも、ハードモードっぽいことも、全部全部受け入れられたのは兄弟2匹がいてくれたからだ。
こいつはそれを奪った。
(絶対。絶対に許さねぇ)
食うなら食えばいい。この先の生などもう要らない。生きたい理由が消えてしまった。
ただ呆然と見ていた自分にも心底腹が立つ。
けど、こいつに食われる前に絶対に報いを受けさせる。兄弟2匹の痛みを少しでも返してやらなければ気が済まない。
余裕の態度でゆっくりと自分に近付いてくる化け物を待ち受ける。逃げることも出来ない仔犬だと油断してるのだろう。
(喰らおうと顔を寄せたら目ん玉抉ってやる)
前足にギュッと力を込めた。
ドン!!という大きな破裂音とその後に連続して続くドドドドという爆音。「ギャオォォォ」と化け物の悲鳴が響く。
なにが起きたのか。化け物は吹っ飛ばされひっくり返っていてその体から煙と共に真っ赤な炎が次々上がる。
意味の分からない状況に固まっていると横からおっさんが飛び出してきてデカい斧を振り回し化け物に斬りつけた。爆音はまだ続いている。
「〜〜〜〜〜!」
おっさんがなにかを叫ぶと爆音が止まった。化け物はあちこちから血を流し動かない。
(まさか)
風が吹いて煙が流され、はっきりと首を中ほどまで切断された化け物が見えた。
(死んでる)
最強だと思っていた母親が簡単に化け物に殺され、兄弟達が食われ、その化け物があっさりおっさんに殺された。
目まぐるしく変わる状況についていけない。
もう嬉しいのか悲しいのか悔しいのか苦しいのか。何も分からない。
(おっさん、強すぎんだろ)
頭の隅でここは地球じゃないんだ、とぼんやり思った。
「〜〜〜〜〜……〜〜〜〜〜〜」
おっさんが振り向いてなにかを話しながらタクミのところへ歩いてくる。手には血まみれの大斧。
ここが地球じゃないなら常識なんてまるで分からない。でも多分、人にとってあの化け物も自分達家族も変わらない存在なんだろうなと思う。
(おっさんありがと)
「キャウ」
自分はこれから殺される。でも構わない。
目玉抉って死ぬはずだったのが、あいつの死体を眺めて死ねるのだ。満足だ。
(出来れば自分でやりたかったけど。まあいいや。あの世でおっさんの活躍、兄弟達に話しとくよ)
「キュウ、キャウキャウ」
目の前まで来たおっさんに通じないと知りながら感謝の言葉を伝え体を伏せて目を瞑った。
(来世はまた、あいつらと兄弟がいいなぁ)
その時はいつまで待ってもやって来なかった。
いい加減に痺れを切らしたタクミがパチリと目を開けると眉を下げたおっさんが自分を見下ろしている。
(おい、早くしてくれよ)
「キュウ」
兄弟達が待ってるから早くしてほしい。置いていかれたら来世ではぐれてしまうかもしれない。
「……〜〜〜〜。〜〜〜〜〜〜〜」
おっさんがため息を吐いてなにか話しかけてくる。
(わかんねぇって)
「キュウゥ」
ため息を吐きたいのはこちらだ。いいから早くしろと再び目を瞑って斬りやすいように首を伸ばして伏せた。
そんなタクミに降ってきたのは刃ではなくゴツゴツした手。
腹に手を入れられヒョイと持ち上げられる。その手つきは随分と優しい。
(おいやめろ。殺せ。あいつらのとこに連れてけよ)
「キャウ、キュウ、キュウ」
ジタバタ暴れるが腹を持たれているので効果はない。
「〜〜〜〜。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
穏やかな声で話しかけられ、頭をグリグリ撫でられて服の胸元にポイと入れられた。そのままどこかに歩き出す。
(なんだよ。なんで)
意味がわからない。
ただ、おっさんの服の中はとても暖かかった。タクミを安心させるように時折ポンポンと優しく叩かれる。
(汗くせぇよアホ)
「キュウゥ」
どうするのが正しいのかもう全然分からない。兄弟達のところに行きたい。だけど。
何もかも失くしたのに。
多分、何かを手に入れたんだと思う。