5. 80分の光景
運動公園のゆるやかな坂をのぼったとき、目的のグラウンドを眼下に見つけた。
人工芝が植えられたフィールド上では、自校の選手と他校の選手が、ウォーミングアップにいそしんでいる。日下部は芝の外にいて、監督と話し込んでいた。
間に合ってよかった。千影は胸をなでおろし、第三試合会場となるグラウンドへと近づいた。
インターハイ県予選。自校が出場する三回戦は、午後一時からの試合だった。
千影は午前中を美術部室で過ごした。そして帰りの電車を途中下車して、試合会場となる運動公園へ来た。応援をしに。
グラウンドの奥には三列のスタンド席がある。プロリーグや国際試合で使われる競技場に比べると、ささやかな観客席だ。席にはサッカー部の部員やマネージャー、保護者、スーツ姿の関係者などが座っている。
千影がいるフェンス前には、通りがかりの小学生や親子連れの姿があった。それから、しっかりと日よけ対策をした女性グループ。「ここのミッドフィルターの子が……」といった会話が聞こえてくるから、おそらく高校サッカーのファンだろう。
日差しはまばゆく、夏用の制服を着ていても、汗が浮かぶ。
グラウンドを見ていると、サッカー部の主将がこちらに気づいた。千影が会釈すると、フェンスのほうへ小走りで来る。網目越しに向かい合う。
「……たしか、美術部の」
「はい」
「このあいだはどうも」
主将の彼には、落としもののタオルを届けたほか、部長会議でも顔を合わせている。
「先輩、第三試合進出、おめでとうございます」
「ありがとう。応援? なら、スタンド席に行けば」
「せっかくですけれど」
千影はすこし考えて、こう言った。
「ひとりで来ていますし、ここで十分です」
「遠慮しないで……。ああ、まあ、いいか」
主将が、フィールドの奥とスタンド席に、目をやった。そして千影に笑いかける。三十人強のリーダー格らしい、頼もしい笑みだった。
「そこにいるなら、ベンチやスタンド席も見てやって。うちは試合に出ないメンバーもがんばっているんだ」
「……はい」
「日下部もね。今大会も、よくやっているよ。それじゃ」
彼はウォーミングアップへと戻っていった。
千影はフェンス前で、言葉の意味を考え続けた。
……試合に出ないメンバー。控えや、控えにも入れなかった部員のことだ。それはわかる。
……日下部くんは控えの登録選手らしいけれど。どうがんばっているんだろう。
思い悩んでいると、いよいよ試合開始となった。
両校の選手たちが並び、一礼をする。観客席から拍手が起きる。
千影もエール代わりの拍手を送った。拍手をしながら日下部を探すと、彼は芝の外で、スパイクを結び直していた。その横顔は緊張感に満ちている。
日下部を見ているうちに、千影の拍手は止まった。
今日、応援に来ることは、日下部に知らせておいた。
ベスト8に合わせて、応援幕を用意する手筈でいること。
雰囲気を知りたいから、応援もかねて、会場が近い第三試合を見に行くこと。
ただ日下部が気になるから、という気持ちは隠したが、応援に行くと伝えた。日下部は「応援が増えるなら、チームが勝つ気がする」と、嬉しそうだった。
そう話していたのに、日下部とは目も合わない。
日下部はスパイクを直すと、スタンド席下のベンチに座った。キックオフの時間が近づくと、フィールド上の選手と同じような表情になる。気迫のある眼差しで、センターサークルを見据えている。
……今日も知らない顔をしている。わたしのほうなんて見ていない。
……こんなに、真向に取り組んでいたんだ。
ホイッスル。ボン、と音を立てて、ボールが飛ぶ。影が芝生を走る。陰影が目まぐるしく動く。
ベンチから日下部の声援が飛んだ。続いて、ほかの部員の声も。
千影はスタンド席へは行かず、試合と日下部を見守った。
開始二十分後、こぼれ球を拾う形で、自校に先制点が入る。
日下部が声をあげて喜んだ。千影も「よし」と、拳をにぎった。
試合は一対ゼロと、自校がリードする形で進んだ。
千影はときに声援を送り、ときに試合の様子を写真に撮って、時間を過ごした。
試合に熱中する一方で、ふと別の考えがよぎる。選手たちのしなやかな動き、空の広がり、芝の青さといったものに感動し――心の底で、強い衝動にかられた。
早く描きたい。
わたしも、わたしが熱中するものに向かいたい。
自然な陰影を、目の前の色を。明るい感情も暗い感情も込めたような一枚を。
できる限り精密に、今すぐ描きたい。
千影は目の前の光景を、焼きつけるように見つめた。
十分間のハーフタイムでは、日下部と目があった。そっと手を振ると、彼の顔がほころんだ。
後半に入り、各選手に疲れが生じてきた。全員の動きが緩慢になってきたところで、相手校の交代選手が意地を見せる。突き刺さるような一点が入り、同点となった。
千影は残り時間を確認した。あと十五分もある。向こうがシュートを決めたら、きっと逆転は厳しい。PK戦も避けたい。なら、残り時間で点を入れてもらうしかない。
フィールドに声援を送る。肌と喉が痛くなってきた。スタンド席では、マネージャーらしき女生徒が、祈るような姿勢を取っている。のんびり観戦していた保護者たちも、食い入るように試合を見つめている。ボールは競り合い、宙に浮いた。相手校が取る。背番号1のキーパーの顔に、焦りが見えた。
千影はフィールドの奥で、交代の準備をしている選手がいると気づいた。弾かれるようにフェンスから離れ、スタンド席へと急ぐ。残り時間十分強。
日向から建物へ入る。ローファーが響く。物影の涼しさが心地いい。
急がないと。日下部を見ておかないと。
……どうして好きになったか、今日ならよくわかる。
自分にない明るさ、ふたりきりのときの穏やかさ、それも魅力的だ。
だけれど、木陰で泣いていたのを見て、気になりはじめた。
泣くほど打ち込んでいるものがある。その姿に、どうしようもなく惹かれたのだ。
薄暗い通路をとおってスタンド席に出ると、太陽がよりまぶしく感じられた。
出入口から左側が自校の応援席。前列は席が埋まっている。千影が後方へあがると、ちょうど選手交代が行われていた。
一番と十二番の交代。……ゴールキーパーの交代は、PK戦を見越しての采配かもと、前列で囁かれている。
ひざは、短時間、試合に出られるほどによくなったのか。交代した今、どんなプレッシャーを抱えているのだろうか。
「……がんばれ」
日下部の背中に向かって、ひとしれず呟いた。
一秒一秒が長く感じられた。ボールは相手校の選手によって、センターラインを越えてくる。泥のついた守備陣が食い止める。競り合いの末、近距離でシュートを打たれたが、日下部が止めた。スタンド席から声援。千影は息をのんだ。
声援の中、日下部は受け止めたボールを落とし、低く蹴りあげた。ボールは長く伸びて、フリーの味方へと届く。正確なパス。……このパスはきっと、彼が仲間の練習を見続けた成果だ。
残り時間わずか。自校のシュートが入り、試合は二対一で終了した。
敬意を込めた礼のあと、サッカー部員たちはフィールドから去る体で、はしゃぎはじめた。
日下部は背番号一番のゴールキーパーと、肩を叩きあっている。
「勝った」
「三勝目だ! すげえ!」
屈託のない笑顔だった。
千影は目の端の涙をぬぐってから、席を立った。スタンド席には顔見知りの教師や友達もいたので、他愛のない挨拶を交わす。おつかれさま。萩原も応援バスに乗ればよかったのに。次からはそうします……。
「千影さん」
優しい声で呼ばれ、千影はフィールドのほうを見た。
試合の緊張がとけた日下部が、手を振っていた。
「ありがと。勝てた!」
千影は日下部をまっすぐに見つめた。笑顔で返す。
「うん。最高だったよ」
芝と土の香りが、スタンド席まで届いていた。
……応援の帰り、もしくは中庭で、そろそろ気持ちを伝えよう。夏の作品展に本腰を入れたら、暇がなくなるのだから。ああ、応援幕の制作もやらないと……。
広い空の下で描く未来は明るく、鮮やかなものだった。
(終)