3. 渡り廊下
一緒に下校した翌日も、その翌日も、千影の日下部への想いは消えなかった。休み時間に賑やかにしている姿も、放課後まっすぐグラウンドへ向かう姿も、好意的に思える。「千影さん」と呼ばれるだけで、幸せな気分になった。
新緑の季節からしばらく経ち、梅雨。じとじとした天気が続くようになった日の放課後。
千影は部がはじまる前に、渡り廊下で、日下部と会っていた。
静かに雨が降る。雨音を破るように、紙をめくる音が、千影の耳に届く。
千影のスケッチブックは、手渡した相手によって、ゆっくりとめくられていた。
「………」
「日下部くん……もう、いい?」
「いや、すごいね。すごい上手。それに、千影さんって感じもする」
「意味がわからない」
「日付の字まで綺麗」
千影は日下部にデッサンを見られるのが、恥ずかしくなった。自分の顔が赤くなっているのが、熱でわかる。
「そろそろ返して」
「あ、うん」
日下部がスケッチブックから目を離し、物珍しそうに、千影の顔を眺めた。
「……どうしたの」
「千影さんの照れ顔、はじめて見たかもって」
「なにそれ」
千影は地面に視線を落とした。まだ顔は熱い。
「たいていクールっていうか。去年のコンクールで賞とったときも、ポーカーフェイスで表彰されていたっしょ?」
「ひ、表彰なんて。そんなものでしょう」
千影が一年生のときに受賞した賞は佳作だ。同じコンクールで銀賞に輝いた中島がいるので、そう名誉に思っていない。
「気ぃ悪くしないでよ。そういう顔もするんだなって、見とれただけ」
……意識するから「見とれた」なんて、軽く言わないでほしい。
千影の気恥ずかしさは、なかなか治まらなかった。
日下部は膝を完治させるため、体を休ませろと指導されている。県大会では控えのゴールキーパーとして登録された。
休む間は、過去試合を見るなりチームメンバーの動きを見るなりしろ。そうコーチに言い渡された――という日下部の話から、流れ流れて、千影は自分のスケッチを見せる羽目になった。
話に対して「見ることは大切だよね」「わたしもスケッチの前は、モチーフを長く観察するし……」などと語ったのが、日下部の好奇心を刺激したらしい。「スケッチ見せて」と、強くねだられた。
日下部はひとしきり中を見たあと、浅黄色のスケッチブックを、千影に返した。
「千影さん。こういう絵は、何分くらい、観察してから描くの」
「十分。ときどき、二十分以上」
湿った空気の中でスケッチブックを受け取る。日下部の手の温もりが、表紙に残っていた。
「形を正確に捉えようと思ったら、どうしても、それくらいかかっちゃって」
「見ているだけって、辛くない?」
「全然。……とはいかないけれど」
言葉を止めて考える。雨音が強く聞こえた。
「でも、わかってからのほうが手がすすむ。発見があると嬉しいし」
日下部が黙って頷いた。
「まあ、そうだよな。もうすこし、俺もおとなしくしていよう」
控えの選手で、試合を見ているだけなのは、辛いのだろうか。
「……うん。もうすこし」
雨は降りやみそうにない。
日下部は雨空を見あげ、軽く伸びをした。
「この天気だと、グラウンドでの練習は厳しいな」
千影も灰色の空を見た。
「残念だね。せっかくサッカー部、県予選を勝ち進んでいるのに……」
「知ってんの!」
日下部が晴れやかになる。
「ホームルームで、先生が言っていたから。それに、運動部が活躍していると、文化部は応援要請を受けるし」
「あー。そんなんあったね」
高校の方針で、文化部は、運動部の応援を頼まれることがある。吹奏楽部の演奏は花形だ。
「文化部は準々決勝。ほか一般生徒は、決勝まで進んだら、応援に行ってって」
「……決勝か。基準やべえなぁ……」
自校はサッカーの強豪校ではない。熱心にやっているが、大会で二勝すればいいほうの、よくある部。
「県大会ベスト8くらいで、みんなに呼びかけてほしいよ」
「応援って、嬉しい?」
「そりゃあね。でも、大勢に来てもらわなくていいや。誰だってスケジュールがあるだろうし」
スケジュール、という言葉を聞いて、千影は腕時計に目をやった。まもなく部の活動時間。
「いけない。部室の鍵、開けなきゃ」
千影は美術室へと足を向けた。
「千影さん」
後ろから声。
千影は振り返り、スケッチブックを持ったまま、彼を見つめた。
「……なに」
「ああ、いや」
日下部が言いよどみ、会話に間が開いた。
「……千影さんは、運動部の応援って、来るほう?」
「……え。うん。行くよ?」
千影は質問の意図がわからなかった。もしかして日下部は、みんながいやいや応援に行っているとでも、思っているんだろうか。
「吹奏楽も聴けるし、応援に行くの、けっこう好きだよ。『がんばって』くらいしか言えてないけれど」
言葉に嘘はなかった。日下部が「そっか」と息をつく。
「よし、次の選手権には完治して、レギュラーでめちゃくちゃ活躍できるようにしよ」
「ゴールキーパーだよね? 活躍する時間は、すくなくていいよ」
「俺もそう思う」
日下部が笑顔で手を振った。運動部の部室棟に行くようだ。
「……それじゃ、がんばってね」
渡り廊下は雨が振り込んでいたが、千影は場を離れるのをためらった。薄暗い気持ちになる。
……偶然、弱いところを見たから。部外者で話しやすいから。今はそれで特別に話せている。
……マネージャーでも運動部でもないわたしは、遠くから応援するしかないのかな。
千影は一度目をつぶった。数秒おいて、瞼をあげた。
わからないがひとまず、部室の鍵を開けに行かないと。
◇◇◇
階段を、やや早足でかけあがる。
今日は部のミーティング日なので、なおさら遅れるわけにはいかない。
部長会議で話したことを、部員に伝える日だ――。
活動開始の七分前。二階にあがると、美術室の前にはもう誰かがいた。中島だ。後ろ髪のはね方や大きな体ですぐわかる。
それに現在、部室を開け閉めする役を担っているのは、部長の自分と、副部長の彼だけ。
「中島くん。ごめん」
鍵を取り出している中島を見て、千影はつい謝った。
「なに慌ててんの。まだ皆あつまっていないのに」
中島が鍵を差して回した。
引き戸を開けると、画材と埃の匂いが部屋からあふれ出す。不思議と落ちつく匂いだが、換気はしたくなる。
千影は雨が振り込まない程度に、窓を開けた。
「珍しいね」
中島はキャンバス前の椅子に座り、ひと息ついている。
「萩原が、俺より遅いなんて」
「……すこしね」
千影はうしろめたい気持ちになった。日下部と話していなければ、もっといつもどおりに来られたから。
「クラスの子と話していたの。中島くん、日下部くんって覚えている? 同じ中学校だったんだよね」
中島の片眉が、かすかにあがった。
「日下部って名字、そうかぶらないよな。……萩原、あいつと話していたの」
「え、うん」
「それで遅くなった?」
「……ごめん。気をつけるよ」
時計の針は、部活動の開始五分前を示している。
「いいんだけど」
中島がだるそうに、はねた後ろ髪を触っていた。
千影は引っかかりを覚えたが、先にミーティングの準備を進めることにした。