2. 帰り道
「キャプテンのタオル、届けてくれてありがとう」
「美術部って何人?」
「ここのカレー、辛くておいしかったよ」
日下部がぽん、ぽん、と話題を振ってくるので、会話には困らなかった。
「別にいいよ」
「幽霊部員を入れて六人」
「わたし、辛いもの苦手なんだ」
気の利いた返事ができないので、盛りあがりにはかけた。そんな会話のテンポも、千影にとっては好ましい。
大勢だと賑やかな日下部も、一対一だと、すこしは落ち着くようだ。
日下部とは、帰りの電車の方向まで同じだった。ホームのベンチに並んで座り、電車を待つ。
「なぁ、中島って、美術部にいるよな?」
「中島誠吾くん?」
「そそ。俺、あいつと同じ中学だったんだよ。K中」
「ふうん」
向かいのホームでは、私立校の中学生が、スマートフォンをいじっていた。二年前は自分も中学生だったのに、やけに幼く見える。
「同中か。中島くんとは、仲が良かったの?」
「わりと。あいつとはよく、乳首の話題で盛りあがったなぁ」
「……へえ」
日下部はなにか懐かしむように、夕暮れの空を見あげていた。
「やっぱり乳首は下向きがいいよなって、何度も語って」
「その話を続けるなら、わたし、向こうのベンチに行くから」
「ちょ」
「聞きたくない」
「千影さん、そんなドン引かれる話じゃないから、聞いてよ」
「いや」
蔑みの視線を投げながら、ベンチの端に逃げる。
「サッカーの試合なら、イエローカード一枚ものだよ」
「イエローか。よし、まだ試合に出られる」
日下部は「ごめん。もうしない」と、両手を合わせて謝った。
「中島くんも半分悪いから、もう謝らないで」
「あ、中島のやつ、元気にやってる?」
「元気すぎて、たまにむかつく」
「むかつくんだ。なんつーか、ぶつかりあえる関係なんだね」
「別に……」
「実は、中島とつき合っていたりする?」
「ありえないから」
「ごめんなさい」
「もう、別の話しよう」
千影は切りあげながら、駅の時計を見た。七時前だった。中島はきっと、石膏やキャンバスに囲まれる部屋で、絵を描き続けている。
ホーム内に、電車到着のメロディーが流れた。
「残念。くだりだね」
千影と日下部が乗る電車ではなかった。向かいのホームではもう、学生や会社員が、列に並んで電車を待っている。
日下部は「別の話か」とつぶやき、なぜか溜め息をついた。
「つい、あと回しにしたけれど……。単刀直入に聞くわ」
向かいのホームに、各駅停車の電車が侵入してくる。ヘッドライトがまぶしい。
千影の長い黒髪が、かすかにたなびいた。
「千影さん、キャプテンのタオルを下駄箱で拾ったって言っていたけど――あれ、嘘だよね」
電車の到着音がうるさかったが、日下部の声ははっきり聞きとれた。
「あのタオル、中庭で拾ったんだろ」
千影は乱れた髪を、肩のうしろにやりながら、日下部の表情をうかがった。
彼は口を一文字に結んでいる。……嘘をついたことを、怒っているのかもしれない。
千影はちいさく頭をさげた。
「うん。本当は、タオルは中庭で拾ったの」
「だよな」
日下部は苦笑いを浮かべた。
「俺もあのマフラータオル、放課後の中庭で見たんだよ。……茂みに隠れていたから、落としたひとが見つけやすいよう、木にひっかけといた」
『まもなく電車が発車します』というアナウンスが流れる。多くの乗客を乗せた電車は、発車のメロディーを残して去っていく。
駅に静けさが戻った。
「……ごめん。日下部くんが中庭にいたから、てっきり日下部くんの落としたタオルだと、勘違いしたの」
「やっぱり。……俺が泣いていたの、見たんだ」
日下部は消えそうな声で言った。
胸が痛んだので、千影は日下部から視線をそらし、なんでもない様子を装った。
「……なかったことにしようか?」
「そこましなくていいや。誰にも言わないでくれたら、それで」
「言わないよ。もちろん」
もともと、誰にも話すつもりはなかった。
日下部は帰りの電車が来るまで、話を続けた。
「もうすぐ、インターハイの予選なんだよ」
「県大会」
「そそ。俺、スタメンに選ばれたんだ。なのに最近、ひざが痛みやがって」
「……今も痛いの?」
「運動したら痛むくらい。コーチにも気づかれて……試合、出してもらえないだろうなって思ったから……休みがてら、中庭で沈んでいた」
日下部は長く息をはいて、うつむいた。
「さすがに笑えねえ」
「うーん。笑わなくていいよ。聞いているだけで、こっちも泣きそうになるもん」
「え、千影さん、泣いてくれるの」
「あとちょっとで」
冗談めかして言うと、日下部が顔をあげた。ちっとも泣きそうにないじゃん、と、軽口もたたかれる。
はじめて見る、穏やかな表情をしていた。
「ありがと。話したら、気が楽になったわ」
「……うん」
「ばれたのが千影さんでよかった」
日下部が膝を撫でて立ちあがる。
「やっと電車が来るし、並んどこう」
千影はぼんやりして、日下部の言葉を聞き逃した。
「千影さん、電車」
「え。うん」
「急行が来るよ」
慌てて立ちあがり、日下部のうしろに並ぶ。
千影は落ちかない様子で、時刻表に目をやった。
「日下部くん。……わたし、隣の駅に、用事があったんだった」
「そうだったの?」
「買い物」
白々しいのは覚悟の上で、言葉を続ける。
「だから、次の各停に乗るから……。また明日、学校で!」
「はいはい。じゃ、お疲れ」
日下部はいつもどおりの明るい笑顔で、電車に乗り込んでいった。
千影は各駅停車に乗り込み、扉側に立った。
今日は急ごしらえの嘘ばかりだったな、と、ひとりで反省会をした。
日下部の苦楽は、すこしはわかる。
美術部はレギュラー争いとも怪我とも縁がない。だけれど、思いどおりにならない悔しさなら、身をもって経験している。寄り添えるなら相談に乗りたいと――考えた。それなのに、体が逃げてしまった。
千影は電車に揺られながら、窓の外を見た。夜景の手前に、顔を火照らせた自分が映っている。その場逃れをした申し訳なさと、内から来る恥ずかしさで、胸がつまる。涙も出そうだった。
流れていく景色を眺めても、心が落ちつかない。こんな感情は何年ぶりかと、ただ混乱するばかり。
……新しい一面を、知っただけなのに。
最寄り駅に近づいたとき、やっぱり一緒の電車に乗るんだったと、千影は強く後悔した。
一時的な感情か、恋をしてしまったのか。
明日にならないと、わかりそうにない。