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ー ベチッ
「ぶっ、」
「ソレ当てておまえは暫くソコに居ろ」
大股でダイニングへと向かって行ったライを追いかけたミーシャは部屋に入った瞬間に顔に湿り気のある軽い衝撃を受け視界も奪われる
続けて聞こえたライの言葉に顔から落ちかけていた物を手に取ればエイミーと話している間にもお世話になった布がまた冷やされた状態でミーシャの手の中に鎮座していた
どうやらライが改めて濡らして冷やしてくれたようだ
その優しさにまたもやミーシャは涙が滲んでしまう、が、欲を言えば顔面ではなく手の中に渡して欲しかった
「わ、ありがとう」
ミーシャが礼を言うも調理場へ消えたライからの返答はない
ライの様子が気がかりではあったが冷静になった今ではミーシャ自身も積極的に絡みに行くことはかなりの勇気がいった
赦せなかったからといってかなり大胆なことをしてしまった
先程までの己の行動を振り返り恥ずかしさを思い出したミーシャは大人しく椅子に座る
既に何度も使用した布を眺めながらミーシャは最近自分は泣きすぎではないだろうかとボンヤリと思った
元々感情的になるとすぐに涙がでてしまう方ではあったがそれにしてもここ数日泣いてばかりだ
それは辛かったり哀しかったり悔しかったりもしたが嬉しくて溢れてきたものもある
ライのことを知る度に感情が決壊して受け止めきれなくて涙が溢れてしまうのだ
(……駄目だなぁ)
こんなに毎回泣いていたらライだって困ってしまう
それどころか泣かれるのならと自分の話をしてくれなくなってしまうかもしれない
もしかしたら、考えたくもないが、…距離を置かれてしまうこともあるかもしれない
ミーシャは自分の考えに背筋が凍るような思いだった
溜息を吐いて手の中の布を目元に押し当てる
ひんやりと濡れた布は微かに熱を持っていた目元を冷やして気持ちが良い
『殴る理由があるだけマシだ』
赦せなかった
ライにそう言わせた出来事が
あんなに綺麗な顔を理不尽に殴るなんてどんな輩だ
こんなに優しく誠実なライを何故無闇に殴る必要があるのだ
完全に悪の所業ではないか
ライの顔は愛でるためのものであって理不尽に殴り付けるものではないのに
そうあの完璧な美麗さは芸術に値するものであって国宝級に守られるべきものなのだ
何を勘違いしたのかわからないがソレをライが人を信じることに躊躇うようになるほど行う人たちが居たとはどういうことだ
先程まで胸の内が絡まりあい言葉にならなかった思いが落ち着いて目を瞑り視界が暗くなったことでつらつらと言葉としてミーシャの胸の内に湧き上がる
言葉になれば沸沸と怒りも沸き上がってきた
常識外れの人たちのせいでライは暴力を振るわれる事を何でもないように思ってしまったのだ
そんなのは哀しすぎるではないか
理不尽に暴力を振るわれても良い人なんて居ない
そう思えば自分の行動はやはり間違っていなかったのではないかと思えてくる
他の人がライにキスするなんて考えただけで卒倒号泣ものだが自分だけなら正しく正しい行いだったのではないだろうか
何故ならライの御尊顔は芸術品で愛でるものなのだから
うん、間違っていない
コレをライ本人にも理解してもらわなければ
目元を布で隠しながらウンと神妙に頷くミーシャは恥はあるものの反省は全くしないのだった
ミーシャが胸の内を言葉にし尽くしていると調理場のほうでガサゴソと物を探している音が止んだ
昼食に使う野菜をライが選び終えたのかなと思ったところでミーシャはふとある疑問が浮かび上がる
「ライー」
「うっせぇ、おまえはそこで大人しくしてろ」
即答だった
まだ声をかけただけだというのにあまりのライの一刀両断の早さにミーシャは思わず感心してしまう
自分の目元を心配してくれているのだろうか、なんて優しいんだ好き
冷たく言い放たれても愛が募るお手軽ミーシャは悶えながらもう一度声をかけた
「うん、でもライ。どの野菜使うかわかる?」
「……俺が出すからおまえはそこから言え。一歩も動くな」
やはり分からなかったようだ、好き
ライは昨日まで野菜の皮剥きなどしたことはなかったのだから当然どの野菜が何の料理に使われるかも分からない
ましてや昼食に何を作るのかも言っていないのだから分かるはずもないのだ
それでも率先して仕事を熟そうとする姿勢とミーシャを気遣う優しさに当然お手軽娘の愛も募る、好き
ミーシャが布を外して調理場の方を見ればライの姿は死角になり見えなかった
それでも募る想いにミーシャの頬は緩む
「分かった。でも料理次第で野菜の切り方も変わってくるからその時は私も手伝うね?」
「………チッ」
舌打ちである
ライのそんな態度の悪さにもミーシャは恥ずかしいのだろうかと首を傾げた
ライが未だ死にそうなほど全身を赤く染めて眉間に盛大な山谷を作っていることなど知る由もないミーシャは当たらずとも遠からずな検討を携えて(あんなに大胆なことしちゃったもんね…)と先程の行動を思い出して悶える、実に前向きな娘である
前向きに恋する乙女を楽しんでいるミーシャは大好きな人の酷い相槌にも軽やかな声で答えた
「だから、それまでは私も目冷やしとくね。ありがとう。ライは先に芋だけ皮を剥いておいてくれる?」
「……わーった」
今度は舌打ちではなかった
ボソリと呟かれた肯定の返事にミーシャも笑みを浮かべて再度目元に布を当てる
未だ慣れない仕事の最中に声をかけるのは危ないだろうとミーシャはライに声をかけられるまで黙って待つことにした
ヒンヤリと当たる布の冷たさと瞼を閉じたことで訪れる暗闇の中
ライもミーシャも黙った空間は時折調理場から鳴る作業の音とミーシャが動く度に微かに鳴る鈴の音だけが響く
お互いの姿も見えず何も話さなかったけれど
傍で互いの存在を知らせる音が微かに鳴るその空間は
二人にとって、とても心地の良いものだった




