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ライに抱きしめられれば揃いの石鹸の香りがミーシャの鼻腔をくすぐった
同じ匂いなのに自分とは違うライ自身の匂い
野生的で、でもどこか透き通るその香りにミーシャの昂っていた感情が次第に落ち着いていく
ミーシャの嗚咽が小さくなったことでライも軽い安堵の息を漏らす
互いに想い合い支え合っていた二人の様子になんとか思考と言語が繋がった招かれざる坊ちゃんは自慢の野太い声を擦れさせた
「な、なんで…ミーシャ。そんな奴を…」
「ぁあ?」
「おまえっ!一体、彼女に何をしたんだ!?」
「何もしてねぇよ。最初っからこいつはこうだ」
忘れていた
今こうなっている事の元凶は坊ちゃんである筈なのにミーシャは桃源郷の居心地の良さにすっかりその根源を忘れていた
咄嗟に返事ができなかったミーシャの代わりかライが反応してくれたのでそのまま甘えることにする
いや、これは甘えているだけではなくてまた坊ちゃんへの鬱積を募らせてしまえば次も手が出かねないからだ
いくら坊ちゃんが赦せなくても手をあげるのはいけなかった
とてつもなく赦せなくても坊ちゃんは事情を知らなかったからこそ押し付けがましくも勘違いでもミーシャを守ろうとしていたのだ
その守るべき対象の言葉さえ聞かなかったとは言え善意なのだ
にもかかわらず手を出してしまった自分は悪い
ミーシャは己の衝動的な行いをちょっぴり反省して大人しくライの腕の中にいることにした、決して鳥翼回避のためにライに癒してもらいたいとか桃源郷の居心地の良さにウットリしていてソコから出たくないという理由ではない決して、そう決して
そうしてミーシャが一人誰ともなく言い訳を並べながら大好きな人の腕の中を堪能していれば激昂したような野太い声が響き渡った
「馬鹿な!!ふざけるのも大概にしろっ!おまえみたいな奴がッ「おい」
坊ちゃんの怒声を止めたのはとても静かな低く通る声
ミーシャが愛してやまない美声でライは低く言い放つ
「学ばねえ奴だな。まぁ俺も、ソレについちゃあ同感だが…、それでもこいつはキレるし泣くんだよ。わかったらこれ以上泣かせんな。ったく、また目ぇ腫れんぞ」
「っな!?僕はっそんなつもりはっ」
「言いてえことはわかるがな、てめえにはこいつは無理だ。用件済ませてとっとと出てけ」
かっこよすぎじゃないだろうか
ライの腕の中という天にも勝る至福の地に居ることだけでも幸せだというのに
坊ちゃん誤訳に辟易していたミーシャにとって大魔神の猛追言語は気を失いそうなほどの恋情を湧き上がらせた
坊ちゃんだけではなくライ以外は全員無理なのでライには大手を振るって迎え入れていただきたい
そうしてミーシャがライに逆上せていることなど気付く筈もない坊ちゃんは小さな瞳をこれでもかと吊り上げ顔を真っ赤にさせ横に広い肩を更に怒らせライに掴みかからん勢いで怒号を上げた
「なぜっ!貴様にそんなことを言われなければならないんだ!!我が物顔で彼女を騙し込んで!!!大体勝手にこの家にあがっているのは貴様だろう!?貴様こそ出ていけ!!!」
「てめえに指図されることじゃねえ」
「ッ!っふ、ざけるのも、大概に…っ!」
激昂した坊ちゃんの様子にライがひどくめんどくさそうに冷めた目で対応するのをミーシャはライの腕の中から恍惚な表情で見つめていた、最早ミーシャの目と耳と感触は全てライしか認識していない
そんな混沌な状況の中
微かな隙間を開けていた玄関扉の隙間にガッと赤い靴の先端が押し込まれた
その靴は器用に玄関扉の隙間を広くさせていく
ギィッと音と共に開かれた玄関扉へ唯一周囲が見えていたライだけが視線を送るとその広くなった隙間から逆光を浴びた女が両腕に箱を抱えて立っていた
「…………何事?」




