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タンタンと段差を降りれば後ろからも少し重さのかかった音が追いかけてくる
見慣れたこの階段がこれからはライの日常の一部になっていくのかと思えば簡単にミーシャの頬が緩んだ
見慣れた短い通路を通り過ぎ扉をくぐれば新しくできた空間が広がる
象牙色の壁に木でできた陳列棚
大好きなパン達はこれからはそこに並べられるのだ
リンッと、今日一日で更に大好きになった鈴の音と共に胸も弾む
歩みを進めれば生まれ変わった空間が目に映る
ミーシャが大好きだったこの空間でこれからは買ったパンをお客さんが食べている姿を間近で見ることができるのだ
どんな顔で食べてくれるのか、美味しいと笑顔を浮かべてくれるだろうか、パンは焼きたてが一番美味しいからその場で食べれるとなると常連さんも喜んでくれるかもしれない
家族で作りあげたパン達をお客さん達が喜んでくれる
そんな瞬間をその場で見られるかもしれない
そう想像するだけでミーシャは楽しみで仕方がない
そして、視線をアーチ状にくり抜かれた象牙色の壁に向ければ遂にミーシャの口からは「ふふっ」と笑みが溢れてしまう
綺麗になり頼もしい味方も増えた厨房にはこれから大大大好きな人が加わるのだ
新しい厨房服を身につけミーシャが選んだバンダナをして厨房で仕事に勤しむライをすぐ近くで堪能できる…
なんて幸せなんだろう
ミーシャは期待に胸を膨らませ自分でもわかるほど浮かれていた
浮かれすぎて嬉しさを隠しきれなくなったためライにもこの気持ちをわかってもらおうとミーシャがクルリと後ろを振り向けば
とても柔らかい金色の瞳がミーシャに向けられていた
やられた
ミーシャは思わぬところで貫かれた極太の矢を抑えるように前屈みになる
ミーシャの後ろに居た大好きな人はいつもと変わらず凛々しい御尊顔に僅かに口角を上げていたのだがその表情はとても優しかった
ミーシャの弾んでいた胸は一瞬で恋愛モードに切り替わる
凛々しい御尊顔の美魔神なだけでも大変なのにそこに内なる聖人さを表情にだしてしまったらそれはもう無敵なのではないのだろうかそんな優しい表情で見てくれていたなんて反則だろうもう好きなんなの本当に大好きです
高鳴る胸の鼓動と締め付けるような苦しさにミーシャは軽く呻き声をあげた
その様子にライはケラケラと笑うがその声も美笑であるからしてやっぱりミーシャは胸が痛い
そんな胸の痛みと闘うミーシャに無情にも美声が降りかかる
「忙しい奴だな」
「うぅぅっ、大魔神…」
「ぁあ?」
「ライが楽しそうにしてるせいだ…」
「は?浮かれてんのはてめぇだろーが」
「これからライと一緒だもん、浮かれるよ…」
「は?」
「それにライが笑ってくれるだけで私、幸せすぎるから、仕方ない…」
「………なに言ってんだ、おまえ」
「ライが…好きぃぃいい」
「もういい黙れ」
溢れかえる胸の悶えをボロボロ溢すミーシャに構わずライはさっさとその悶え少女の横を通り過ぎる
スタスタ歩いて行くライに慌ててミーシャが振り向き追いかけようとすればライの耳が赤いことに気付いた
あんなに髪を切ることが悲しくて仕方なかったのにライの変化を如実に教えてくれる今では短髪万歳三唱である
ミーシャは今朝のライの言葉を思い出した
『ンなくだらねぇことで楽しめるおまえなら、これからもどーでもいいことで楽しめンだろ』
(……本当だ)
全くもってどうでもいいことではないしライが照れているという事実は何にも代え難い歴史に残る瞬間であるミーシャにとってはもうコレは成る可くして成ったと言わざるを得ない
やはり神の言葉は正しかったとミーシャが顔面を全力で緩めながらライの後に続いた
「ねぇねぇライ」
「……」
「ライーねぇライー」
「るせぇな、ンだよ」
「へへっ楽しみだね」
「あ?」
「お店っ始まるの楽しみだね!ライ」
「……そーかよ」
ー カチャン
「ここの鍵と階段前の鍵はライがこっちに移る時に渡すね」
「わかった」
「………ずっと家に居てくれてもいいよ?」
「アホか、なんでだよ」
「私が寂しいから」
「っ、馬鹿が。おまえのトチ狂った意見は聞いてねぇ」
ライは僅かに言い澱みながらも吐き捨てるように言葉を投げるとそのままさっさと家に向かい歩き始めた
その後ろ姿に続くようにミーシャも歩き始め微かに浮かんだ寂しさを吐息と共に吐き出した
この三日間のライとの生活はミーシャにとって幸せの一言どころか暴走特急に常乗車するほどだ
朝の挨拶をして一緒にご飯を作り食べ終えれば一緒に片付けをして共に過ごし夜の挨拶で一日を締め括れる
例え店が再開しライが移動して今のこの幸せの生活が変わったところで朝の仕込みは早いから仕込み後に一緒に朝食が取れるだろうし夕飯もきっと一緒に食べることになる(そもそも一家が逃がさないだろう)から一日中傍で過ごせることに変わりはない
変わりはない、が、
(……贅沢になっちゃったなぁ)
会いに行くことや話すのを許してくれるだけでも嬉しかった
それが家の従業員として側に居る時間が増えると決まってからは幸せで堪らなかった
なのに
今はそれが少し寂しい
この三日間常に一緒に居れた時間を思うとミーシャはこれからの生活に微かな寂寞感を感じてしまった
ライを用心棒にと声をかけ連れて来たのは自分なのだからとミーシャはその胸の内を掻き消すように意識を他へと向けた
するとリンッと軽やかな鈴の音が耳に入りミーシャは知らず笑みを浮かべてしまう
ライの色だと気に入って購入したこの髪紐はライ本人によってミーシャの存在を主張するものだと認められ素晴らしいものへと昇格した
本当にこの素晴らしい髪紐に出会えて良かったとミーシャが頬を緩ませればハタとあることに気付く
(ライはもう…髪紐使わないんだよね…。あの色も…)
ミーシャの瞳の色と同じ薄緑色の髪紐を思い出す
短くなってしまった髪も素晴らしいとは言えやはりあの髪紐を使ってもらえなくなるのは寂しい
今まで気にせず使用していたがライが付けてくれてからはもうアレをミーシャは自分で使おうとは思わない
アレはライに使ってもらってこそ価値のあるものなのだ
既にミーシャの色を含めたバンダナを渡しているがソレはソレ、コレはコレである
そう思えばふと手の中にある鍵に目がいく
ライに渡す鍵は店の鍵と屋根裏部屋の階段前の鍵の二つ
(バラバラより、まとまってるほうが…いいよね?)
そうミーシャが己の導き出した妙案に内心ニヤリとしようとした途端ふと視線を感じた
ミーシャがその向けられた視線のほうを見上げればライが横目でミーシャを見下ろしていた
「?どうしたの?」
「……ボケっとしてっとまたぶつかるぞ」
そう言ってライは視線を前へ向き直した
確かに今日は既に二回ライにぶつかっている
そのことを思い出したミーシャはただでさえ高くない鼻を庇うように手で覆い慌てて意識を外へと向けた
気付けば家のすぐ側まで来ていたがミーシャは気にせず少し先を歩くライの手を当然のように掴む
考えに夢中になってせっかくのライとの時間を無駄にしてしまった
しかも今まで手を繋いでいなかったなんて、なんたる失態
ミーシャは己の無能さに嘆きながら内心で自身をあらゆる言葉で罵倒した
しかしそんなことを表に出すわけにはいかない
ミーシャは失態を取り戻すようにライに視線を向けて笑みを浮かべ話かけようとするとライはミーシャを一瞥したあとに小さく舌打ちをした
ー ドクッ
心臓が嫌な音を立てた
明らかに不満を含んだライの反応にミーシャは驚きつつも流石にしつこすぎたかと反省した
ただでさえ今日は暴走しすぎてライの聞いたことのない音量の怒声も放たせてしまった
調子に乗りすぎたかもしれないとミーシャが掴んでいたライの手をそっと離そうとするとグッとライに握り返された
「え?」
「……」
驚いてライの方を見上げたミーシャだったがライは何も言わずにただ眉間に皺を寄せ苦虫を噛み潰したような顔をしているだけだった
そして何も言わずに僅かに歩を早めたライに引っ張られるようにミーシャも後を追いかける
ー ドクッドクッ
ミーシャは熱くなる頬の熱に気づくと共に
もう心臓は嫌な音を立てていないことにも気付いた




