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パン屋の朝は早い
朝日と共に目覚める町の住人たちの朝食に間に合うようにパンを焼くため仕込みを始める時間も自ずと早くなる
仕込みを手伝うミーシャも両親と同じように日が沈むと寝台に入り日が登る前に目を覚ます
今は改装に伴い臨時休業中のため仕込みがない分その限りではないのだが長年の習慣はすぐには変えられない
結局はいつものように早寝早起きの生活をしている
しかし昨日は家に着いた時点で日が暮れていたしその後も色々なことがあったためミーシャが寝台に入ったのは夜も更けたあとだった
加えて寝台に入ってからもその日1日を思い出しては歓喜の悲鳴を枕で押さえ思い出しては悶絶し思い出しては全身を真っ赤にさせ思い出しては客間がある方角の壁に想いを馳せていたため眠りについたのは更に後になってからだった
そんな彼女はそれでも日が出始めるのと同時にゆっくりと寝台から身を起こす
一度腕を上に伸ばし大きな欠伸をした後、手を下ろし暫しボーッとする
ミーシャは早起きではあるが覚醒するまで少し時間がかかるのだ
暫くボーッとしていると突然ハッと俯き始めていた顔をあげパチパチと瞬きを繰り返す
そして、半開きになっていた口はみるみるうちに緩んでいき少し吊り上がった目も今は見る影もないほど下がっていく
「デートだ……ッ!」
しっかり目覚めたようだ
寝台から飛び降りたミーシャは本日のデートのために衣装棚へと弾む足取りで近付いて行った
「……………」
ミーシャは凝視していた
そんなに凝視したら穴が開くんじゃないかと思うほどジッと扉を見つめていた
彼が存在したのは夢じゃないと確認したい
昨日のミーシャ史上最大最上級の奇跡が現実だったと実感したい
しかしせっかく寝ているであろう彼を起こしたくはない
そうか、彼は、今、寝ているのか…
(な、なんて、破廉恥な……!!)
彼は今、あの男の色気溢れる焦げ茶の髪を寝台に広げ
細いながらもしっかり付いた筋肉を無防備に床に預け
鋭い金の瞳をあの長い睫毛で隠して
いつかミーシャの唇を奪ってほしいと願って止まないあの唇から寝息をこぼしているというのか
それはなんて、破廉恥な、最上級の、魅力なのか
見たい
心臓が止まるかもしれないと分かっていてもこの目で見て崇めたい
そしてあわよくばその腕の中に潜り込んで目覚めの時の金の瞳がゆっくり現れる瞬間を特等席で堪能したい
だが扉を開けたりすればましてや寝台に潜り込んだりすれば彼を起こしてしまうかもしれない
まだ日は出始めたばかりだ
パン屋でもなかった彼がこんなに早く起きることは滅多にないのかもしれない
それなら寝ている彼を邪魔したくはない
グルグルと同じ葛藤を繰り返しながらやはりミーシャはライの寝ている客間の扉をジッと凝視するのだった
暫く暴走する変態思考をそのままに凝視していたミーシャだったが変わらず開かない扉を前に諦めの溜息を一つ吐きその場から離れた
狩人初の黒星である
名残惜し気に視線を残して一階に降りる
居間のある部屋を通り抜けてダイニングに顔を出せば父であるカーターは書類を読み母であるニナは紅茶を飲みながらそんなカーターをにこにこして眺めていた
この娘にしてこの母あり
ニナはカーターを愛してやまない
それはカーターにとっても言えることだが仲の良い両親はミーシャにとっても自慢であり理想であった
「おはよう」
「あら。おはよう、ミーシャ。ご飯食べる?」
「うん」
「おはよう。昨日遅かっただろ?まだ寝ててもいいんだぞ」
「目が覚めちゃって」
「ミーシャ、昨夜のケークサレ残ってるけどどう?他のにする?」
「あ、ソレがいい。あとオレンジも食べたい」
「あら、まだ残ってたかしら…」
食事を準備しに行くニナの後ろをミーシャも手伝う為に付いて行く
「お母さん達はもう食べたの?」
「えぇ。やっぱり起きる時間は身体に染みつくものね」
オレンジを探しているニナへ聞けば困ったような笑みが返ってくる
それにミーシャも苦笑で返しニナが作ってくれたであろう野菜スープを温め始める
「せっかく寝坊できるのに。それもあと少しで終わっちゃうのにあんまり寝坊できず終いだったね」
「仕方ないわ、もう20年近くこの生活だったんだもの」
クスクスと笑いながら親娘2人で調理場に立つ
こうしているともう自分はいつの間にか母と同じ背丈になったのだなとミーシャは感慨深く思う
「そうだわ、ライくんの髪」
「うん?」
「結局どうするの?デートに行く前に切るのか帰ってからにするのか」
「………やっぱり、切らなきゃ駄目?」
「カーター」
「駄目だ」
「ですって」
短い髪のライを見たくないわけではない
むしろ全力でお願いしたいほど見てみたいが一度切ってしまえば厨房に入る以上これから先ライが髪を伸ばすことはないのだ
それは惜しい、実に惜しい
あの髪の間から覗いていた金の瞳との出会いも
あの髪を掻きあげた仕草も
あの髪で顔を隠そうとする仕草も
何よりあの髪が濡れて首元に張り付いていたあの凶器並みの色香も
見られなくなるなんて泣きたくなるほど惜しい
それに、たった1日の思い出は全てあの長い髪で形成されているのだ
それがもう見られなくなるなんて…
一縷の希望を託し再度聞いてみるもカーターに一刀両断されてしまう
ミーシャは肩を落としこみ上げてくる涙を堪える
ならば、ならばせめて、
「…………切った髪、持っててもいいかな?」
「やめなさい」
「くぅ…ッ‼︎」
ミーシャは涙を一つこぼした
無念だ
「そういやぁ、昨夜は結局なんだったんだ?」
結局今日一日、最後のライの長髪を網膜に焼き付けてから家で断髪式をするという話に落ち着いた
朝食の支度を終え、ソレを持ちながらダイニングテーブルへ向かえばカーターが書類を置いてミーシャに尋ねてきた為ミーシャは席に着きながら首を傾げた
「昨夜?」
「客間の前で座り込んでたろ。あれから聞いても『うん』としか言わねえし。ライとなんかあったか?」
キョトンとした顔で聞き返す娘にカーターは笑いながら更に詳しく問う
カーターとてミーシャが昨夜呆けていた原因がライであることは勿論分かっていた
ライがミーシャを傷付けることも無体を働くこともないと分かっているからこそ安心して朝の団欒の時間として尋ねることができるのだ
カーターの問いにミーシャは寸の間黙っていたが次いでポンッと音が鳴りそうなほど見事に一瞬で顔を赤くする
そんなミーシャにカーターは微笑ましく思うも同時に切なさをも感じ(全く…本当に、男親は辛いもんだ)と娘の成長に目を細めた
「あ、あれは…。ラ、ライが」
「あいつがどーした」
「わ、わ、わたしのこと…」
「おう」
「……………………………ミィって」
「まぁ!」
最後には両手で顔を隠し小さな声で話す娘にニナは目を輝かせ感嘆の声をあげる
そしてそれを聞いたカーターは
「ブッ‼︎ぶわっはっはっはっ!!!!」
大爆笑した
突然笑い出した父にミーシャは両手を離し眉を寄せると顔を赤らめたまま父を睨みつけ「なんで笑うの!!」と怒りを飛ばす
そんな娘の怒りにもカーターは気にすることなく大きな身体を揺らしながら楽しそうに返した
「わりぃわりぃ、はははっ!いやぁ~、あいつも考えたなぁ」
「?どういう意味?」
「あら、何か知ってるの?」
腹を抱えて笑い続けるカーターを問い詰める為よく似た薄茶色の髪を揺らした母娘は自然と前のめりになる
「ははっ!あ~、これは言っていいのか?まぁいいか」
一瞬ライの顔が思い浮かんだらしいカーターだが即座に結論を出す
ライからしてみれば勝手に自分の恥を曝されるなんて堪ったものではないがその本人は未だ寝台の中、知る由もない
「あいつな、どーも人の名前を呼ぶのが苦手らしいんだ。まぁ、呼び慣れてなくて恥ずかしいんだろうな」
「へ?」
「まぁ、そうだったの」
「おぅ。だから俺のことは【師匠】って呼ばせた。多分ニナのことは【奥さん】とでも呼んでくるんじゃないか?」
「まぁぁ!」
カーターが昨日のことを思い出しながら告げればニナは薄青色の瞳を輝かせ両手を口元に当てる
「早く呼んでくれないかしら」と待ちきれない様子はとても嬉しそうだ
対するミーシャは複雑だった
なぜミーシャが知らないことを父が知っているのか
しかしそのおかげでライに愛称を呼ばれた理由もわかったが
そういえば父とショーン医師と三人になった後からライはお礼も言うようになった
ぶっきらぼうで(それでもかっこよかったが)乱暴な言葉で(それさえも魅力的ではあるが)話していた彼の新たな一面が見れて嬉しかったし恥ずかしそうに言い辛そうにしていた様子には笑みまでこみ上げとても喜んだのだが今思えばそんな一面も父に何か言われたからかもしれない
なんだか父の方がライは心を開いている気がして面白くない
自分はこんなに傲慢で嫉妬深い女だったのかとミーシャは嫌な気持ちになる
だが大好きな父と大大大好きな人が仲良くなるのは嬉しい気持ちもある
けど、でも、と脳内で繰り返し眉を顰めていればカーターがそんな娘の変化に気づいた
「なんだ、ミーシャ。不細工な顔して」
「………元々こーゆー顔ですー」
「馬鹿言え。俺たちの娘は世界一可愛い顔してるに決まってんだろ」
「………」
自分から言ってきたうえでの親バカ発言が父から飛び出すがミーシャも慣れているので溜息を一つ吐くだけでそれを流し素直に思っていたことを告げた
「お父さんの方がライと仲良しでずるい」
「あン?」
「私そんな話聞いてないもん」
憮然とした表情で口を尖らせるミーシャにカーターもニナも苦笑で返す
手元の皿の上でケークサレを細かに切り分けながら拗ねている娘へカーターは芯の通った野太い声を幾分か柔らげた
「俺だって聞いてねぇよ」
「え?」
「気付いたのは先生だ。まぁ、先生が聞いてもあいつ返事もしなかったが否定もしなかったからな、図星だったんだろ」
「そーだったんだ…」
「あとな、ミーシャ」
「うん?」
「男同士積もる話もあるってもんだ。ライは今までそういう話をする奴も居なかったんだろ。なら、これからどんどん経験してくべきだ。俺もあいつは既に可愛いからな、話す機会や過ごす時間も多くなるだろ。勿論その時ミーシャが居ないことやおまえに話せないこともでてくる。それも大事なことだ。あいつのことが好きならそういうことも分かってやれ」
父の少し厳しさが入った声音にミーシャはハッと顔を上げ直ぐにシュンと肩を下ろした
「…………はい。ごめんなさい」
真剣な瞳を向けるカーターにミーシャは瞳を伏せて謝る
確かに全てを知っていたいなど傲慢だ
ライが頼る人物は自分だけならいいのにと思うが今まで他人と接してきたことが少ないだろう彼にとってせっかく頼れる相手が居るのならばそれは多い方が良いし大切にしてほしいとも思う
ミーシャにとっては初めてできた好きな人だ
いろんなことが暴走してしまうが越えてはいけないところは勿論ある
相手を尊重できなければそれは【恋】を盾にした只の気持ちの押し売りだ
ミーシャはライにそんなことをしたいのではない
ライと、【恋愛】がしたいのだ
ミーシャは自分が大事にしている【ライが好き】という気持ち以上に【ライの気持ち】を大事にしようと心に誓った
肩を落として反省するミーシャの頭をニナは優しく撫でる
「ほら、スープが冷めちゃうわよ。ライくんが起きてくる前におめかししなくていいの?」
「はっ!そうだった!」
今のミーシャはまだ普段着のワンピースだ
朝食もまだだったし昨夜浸けておいたライの靴も乾かさなければいけないため汚れても平気な服にしていた
ライがいつ起きてくるか分からないが急がなければ
慌てて食べ始めるミーシャをカーターもニナも微笑ましく見守る
「楽しいデートになさいね」
「うん!」
笑顔で頷くミーシャの後ろの窓からはすっかり顔をだした太陽の光が降り注いでいた
今日は一日良い天気になりそうだ




