106・
ライが熱を出した
それはミーシャを上を下への大騒ぎとさせるほどの事態だったが当の病人からしてみればそんなこと知る由もない
カーターに言われて重い身体を引き摺って降りた階段を今度は気合を入れて上らなくてはならなくなった
普段よりも自身にかかる重さに辟易しながら上ろうとすると階段を下りている時には背後にいたミーシャがライの前へと進み出てライの腕を掴み先に階段を上り始めた
何してんだと働かない頭で疑問に思うもののそれを口に出すのも億劫でされるがままに足を動かす
そんなライに向けてミーシャは何度も振り返りながら「大丈夫?」と眉尻を下げて聞いてくるのでライもやっとミーシャの行動の意味を理解した
理解して動かすのも億劫な顔の筋肉が緩んだ
少し力を入れただけで折れそうな身体をしているくせにミーシャは自分よりもデカい男を支えるつもりでいるらしい
(…ばーか)
内心でそう悪態吐きながらライは自然と上がる口角にのせて「前向け、転ぶぞ」と言葉を発するのも億劫だったことを忘れてミーシャに声をかけた
寝泊りしている部屋に戻るとライの周りをうろつきだしたミーシャが何かしてほしいことはあるかと聞いてくるのでライは「水」と単語だけを声に出した
慌てて部屋を出て行く後ろ姿を横目で見送り寝台に横たわるとライはミーシャの戻りを待てずに意識を手放してしまった
次に意識が浮上したのは身の内から発する熱に煩わしさを覚えた時だった
横になっているだけのくせに身体中に走る鈍痛に舌を打ちたくなったがそれすらも面倒で只々耐えることしかできない
重い瞼を上げることもできず殴られた時とは違う痛みを伝えてくる頭を不快に思っていると自分の近くに誰かがいることに気付いた
熱い身体に時折り触れる金属のような冷たさが心地良い
膜が張っているかのように聞こえにくい耳では誰の声かもわからないが低い男の声音に混ざって聞こえる耳に残る透き通った声の持ち主にはすぐに見当がついた
(戻って来たのか…)
耳慣れた声に自然と身体の強張りが抜けた
次に目を開けたのは寝ている自分の身体に誰かが触れていると気付いたからだった
ライは反射でその相手を殴り倒そうとしたが動かない身体と鈍い伝達指令では瞼を上げることで精一杯だった
霞む視界の中でガタイの良い身体が麦のような色味を揺らしている姿が映る
「……に、して…だ」
「お、起きたか。どうだ具合は」
芯の通った野太い声は膜が張っているライの耳にもよく聞こえた
その理由を考えるより先にライは今自分がどんな体勢なのかを知る
自分の身体のくせに全く言うことを聞かず只々鈍痛と煩わしさと怠さを訴えてくる動きの鈍い身体は今カーターに支えられる形で身を起こしていた
カーターは太い腕をライの背にまわし反対の手で濡れた布を使いながらライの身体を拭いている
そう、何故か自分は服を着ていない
意味がわからなかった
ライはとりあえず自力で身体を支えようとしたが鉛が詰まっているかのような身体では指先を動かすだけでもごっそりと活力が削られる
それでも雇用主に寄りかかっている現状を打破しようと重い手足を動かせばすぐに動かした箇所から鈍痛が伝わってきた
儘ならない身体にライの苛立ちも募る
「最…悪、だ…。さわ…な、よ」
「おー、生意気な口きけんなら心配ねぇな。おら、ちとじっとしとけ」
擦れる声と何かが刺さっているかのような喉の痛みに耐えて訴えるもののカーターには手を動かしながら軽く受け流される
募る苛立ちにのせて無理矢理身体を動かそうとしたライの行動は口元に運ばれた水が入ったグラスによって静止した
反抗する気力も失せたがせめてもの意地でカーターの手からグラスを受け取る
渇ききった喉が幾分マシになる反面、飲み込もうと動かす度に喉が痛んだ
思わず息を吐くと浮上していた意識がまた朦朧とし始める
(っ、ざけんな…)
こんな状態で気を失えるかと口腔を噛み締めるもマシになった喉の渇きと身の内に籠る熱に当てられる濡れた布の冷たさが心地いい
自然と抜ける力に汗が拭われていく爽快感も加わりライはまた知らず識らずの内に意識を手放していた
次に目を開けたのは食べ物の匂いがしたからだった
ここ最近になって嗅ぐことが増えた【料理】の匂いに意識が浮上してライは脳が働く前に瞼を上げた
霞む視界は薄茶色が揺れる姿を映し出す
(ミィ…?)
見慣れた色を揺らす後ろ姿を眺めているとその持ち主が振り返りライの顔を覗き込んだ
薄茶色と同時に映り込む薄青色に相手がミーシャではないことに気付く
瞳以外はミーシャとよく似ている顔で覗き込みながら奥さんであるニナは小さな声でライに話しかけた
「具合はどう?食欲はあるかしら」
「ぃら、ね…」
起き上がるのも怠いが自分に食べる気が全く起きないことにライは内心で驚いた
今までどんなに怠くても飢えが失くなることはなかった
飢えを凌ぐためだけに生きてきたというのに
その飢えさえも感じなくなるとは
いよいよ自分は死ぬのかと胸の内で自嘲したものの
視界に映る薄茶色に別の人物を思い浮かべて
今じゃなくても良かっただろうと
己の末路に拳を振り上げたい気分だった
瞼を上げ続ける気にもならなくて抵抗せずに瞼の裏の暗闇を受け入れればミーシャの声よりも微かに低い声が再度ライの鼓膜を揺らした
「それでも、少しは食べないと」
「…身体起こすの、ダリィんだよ」
先ほどよりも出しやすくなった声の代わりのように頭の中の痛みが増し始めライの意識は更に途切れ始める
既に瞼を上げることも億劫になったライの横でニナは「そう…」と呟いた
「スープだと零れてしまいそうね…。なら、すり下ろした果物なら食べられるかしら」
「私がやるっ」
ニナの声に続いて聞こえてきた言葉にライの上下接着していたかのような瞼が少し開いた
(居たのか…)
声の聞こえた方に視線を向けようとしたが膜が張った耳ではその方向もわからない
加えて重い瞼は上がりきらず視界は狭まるばかり
ライは瞼を上げるための活力をあっさり捨てて代わりに膜が張った耳に意識を集中させることにした
朦朧とした意識の中で耳に残る透き通った声と小さな鈴の音だけを追う
パタパタと鳴る足音に合わせるかのように奏でられる鈴の音に思わず息が漏れた
その音が近寄ってくる頃には既にライの思考する力は残っていなかった
ただ口元に当たるモノを口を開けることで迎え入れ嚥下することだけを作業のように繰り返す
そして口の中に強烈な苦味が広がったのは口を開くのにも疲れ始めた時だった
あまりの苦さにライは朦朧とした意識のまま口元に運ばれた吸飲みを自ら進んで咥えて水を飲む
痛む喉に纏わり付く粉っぽさに軽く咳き込みながらライは「にげぇ…」と忌々しそうに吐き捨てた
「お薬だよ。コレですぐに良くなるからね」
咳き込んだ時に横向きになったライの背を摩りながら落とされるその言葉にライは何も言わずに瞼を下ろした
いつもは拒みたくなるその掌の温度が心地良かった
キィっと小さな音が聞こえた
僅かに意識が浮上するも靄がかかったような頭の中は明確な意識の代わりに鈍い痛みだけが響く
茹だるような暑さに上から押し潰されているのかと疑いたくなるほど自由の効かない身体
吐きそうなほど気分は悪いのに息をするのも面倒くさい
(ここで、くたばんのか…)
患ったことのない身体の不具合の数々にライが内心でそう吐き捨てると額の上が軽くなった
かと思えばすぐに冷たいモノが額に乗せられる
燃えているんじゃないかと思っていた身体にその冷たさはひどく心地よかった
髪を数回触られたかと思えば顔や首に貼り付いていたものが剥がれたようで息苦しさが薄まり微かに吐息も漏れた
そして、指先さえ動かす気にならない掌に何かが触れた
細く滑らかで小さなソレは嫌になる程覚えがあって
熱を持った肌に浸透する冷たさだけがこの心地よさの理由ではなかった
朦朧とした意識の中
重い瞼の裏ではこの数日で見慣れた色が浮かんでは消えた
麦色の短髪に薄緑色の瞳
薄茶色の髪に薄青色の瞳
そして、
重い瞼を僅かに上げれば薄茶色の髪に薄緑色の瞳を持つ女が霞む視界に映る
「ライ…?」
透き通る声は聞き取りにくいほど小さな声でも耳に残る
膜が張っているような耳の中に残ったその声を聞き取って
動かすのも億劫な手で掌の中の物を握った
霞んでいた視界は次第に滲み出したので瞼を上げ続けることはやめた
重さを伴って瞼を閉じれば顳顬に水が流れたような気もしたがソレが汗なのか水なのか他の何かなのかはわからない
痛みしか伝えてこない働かない頭では燃えているような身体とは別に目の裏が熱くなっていることも気付かない
ただ、閉じた瞼に浮かび上がる見慣れた色の数々に知らず識らず握る手の力だけは強くなった