101・
ー カリ、カリ、
自分の名よりも字数が多いためか辿々しい筆跡の音を鳴らしながらライは文字を綴っていく
綴られているのはトチ狂った狂言を放ち終え且つ奇行し終えて満足したらしいミーシャが教えた彼女の名前だ
その文字を、【ミーシャ】という字を
ただひたすら書き綴る
自分の名を書くよりも自然と丁寧に
そして、多く書き綴っていることに
ライは気付かない
只々、真っ直ぐとペン先を見つめて
一つ一つ刻み込むように綴っていく
ー リンッ
「はぁ…、かっこいい」
「は?」
手先に集中していたライの耳に小さな鈴の音と耳に残る透き通った声が入った
入ったがその唐突な言葉の意味までは頭に入ってこず顔を音の発生源者に向ければ予想以上に近い距離に一瞬ライの息が止まる
「っ、」
「しかも、私の名前書きながらその表情とか…。もう、何、私をどうしたいのライ…」
「は、はぁ!?つか、ちけぇよ!」
微かに日に焼けていても白さが残る肌を淡く染めて「ほぅっ…」と溜息を吐くミーシャはその吐息がライの腕にかかるほど近くに居た
サラッと揺れる薄茶色の髪にリンッと軽やかな音
鼻先を掠める甘い匂いに気付けばライの心臓は途端に力強く脈を打つ
(くっそ…!!)
折角何かに集中していれば通常通りに戻ると気付いた胸の音がまた勝手に暴れ出したことにライは盛大に舌を打った
距離を取るために背を仰け反らせ空いている手でミーシャの頭を掴み力任せに押す
「ぶふっ」とミーシャが間抜けな声をあげたがそれを気にするよりも指通りの良い髪質の感触にまた大きく脈を打った心臓のほうがライにとっては問題だった
ー ドクドクドクドクドク
馬鹿みたいな強さで早鐘を打つ心音にライはまた舌を打つ
慌てて手を引っ込め今度は自分の頭に手を当てると羽ペンを持っていた手も使って豪快に頭を掻き毟った
「え、え!?どうしたのライ⁉︎」
「っるせえ…。少し、黙ってろ」
慌てたように声をかけるミーシャにライは唸りながら答えるもそれどころではない
ドクドクと脈打つ心臓は気を抜けばすぐにライの平常心を刈り取っていく
ミーシャと出会ってからこんなことばかりだが今日は一段と酷い
具体的にいえば昼の仕込みを始める前から殊更酷い
ミーシャが隣に居ることが落ち着かない
ミーシャの容貌が整っていることは初めて会った時から分かっていた
だからこそイカれた発言の多さに驚きもしたし疑いもした
そうだ、初めから自分は分かっていた筈だ
なのに、
少し身動ぐとリンッと軽やかな音と共に華奢な身体に沿って揺れる薄茶色の髪
近寄ってくる度に香る微かに甘い香り
自分に手を伸ばしてくる白く細い指先
コロコロと色を替えるのに全てが耳に残るような透き通った声
真っ直ぐと見つめてくる少し吊り上がった薄緑色の瞳
そんな事に一つ一つ気付いてしまえば
ただ、息をするということさえ
できなくなってしまう
コレがなんなのか、ライにはわからない
分からないが、
このままでは酷く情けない気がして必死に平静を装った
深く深く息を吐き
意識して呼吸をした
煩い胸の音は舌を打つことで誤魔化して
熱を上げる体温は拳を強く握ることで誤魔化して
耳に残る声や頭に残る言葉の数々を誤魔化すように
必死に何かに集中した
なのに、
なのに、
(なんッッッで!!あんなコトできんだ!!!!!!!)
ミーシャの肌の温度が蘇る
ミーシャの涙に濡れた薄緑色が蘇る
ミーシャの震えた小さな声が蘇る
ミーシャの眉を下げた笑みが蘇る
ミーシャの唇の感触が、
(~~~っっ、)
思い出して、また、身の内を焦がすような熱が湧き上がって
息が、できない
(クッッッソが!!!!どこまでイカれてやがんだ!!!!!!!!!)
そう内心で悪辣非道に罵らなければライはもう立っていることさえできなかった
そう、もう一度具体的にいえば昼の仕込みを始める前からだ
ライはミーシャに近付くことができないでいた
そんなライに気付かないミーシャは初めて会った時から変わらない勢いで隙あらばライにひっついてくる
いや、日が経つ毎にその接触内容は過剰になっていて
ただでさえ受け止めきれていない“ライに対する【許容】”は初日の接触程度でさえ慣れないものだったのに
それさえ数日経った今になって漸く平常心を装えるようになってきていたばかりだというのに
なのにミーシャはそれを更に加速させて言動に移してくるからライは唸りをあげることしかできない
そんなミーシャだけでも手に余るというのに
ライはそれ以上に身体がイカれたように不調をきたした後
無意識でとる自分の行動に死にたくなっていた
沸騰する脳内やグルグルまわる視界は内心で罵詈雑言をこれでもかと並び立てることで必死に平常時に戻そうとする
同じ罵倒の繰り返しが両手足の指で数えきれなくなった辺りでライの頭に集まっていた熱は少しずつ落ち着いていった
ソレを見計らいライは意識して深く息を吐く
吸って、吐いて、吸って、吐いて
数回呼吸を繰り返せばやっとライの煩いほどの鼓動も静かになっていった
耳の奥で響いていた自分の鼓動が収まると今度は自分の意識した呼吸の音がライの耳に入る
しかし入ってくるのはその音だけで後は何も聞こえない
落ち着いたことで狭くなっていた視野も元に戻ったライは項垂れていた顔を上げた
(…?いやに静かだな)
不思議に思ったライは上げた顔を横へと向けた
文字を書いているにしてはペン先の音もしないし何をしているのかと疑問を与えたミーシャは
眉尻を下げながら口元を手で覆いジッとライを見つめていた
「あ?」
何をしているのかとライが訝しげに眉を寄せればミーシャは困ったような表情で口元を覆いながら首を傾げた
首を傾げたいのは自分の方だとライは益々眉間に皺を寄せる
いつもならライの予想斜め上よりも角度を飛び越えて奇行に走るかトチ狂ったことばかり言うミーシャが静かにジッとしている
そんないつもと違う様子の彼女を怪訝に思っていたがライはふと己の少し前の発言を思い出した
『っるせえ…。少し、黙ってろ』
(……俺が、言ったからか?)
そんなライ自身すぐに忘れていた投げやりな言葉を忠実に守っていた様子のミーシャの姿にライは初めて会った時のことを思い出した
あの時も己の姿を見られたくなくて投げやりに放った言葉を忠実に守って背を向けて黙って待っていたミーシャ
その姿と重なった
(……グイグイ来やがるくせに、こういう時は素直かよ)
思わず息が抜けるように笑みを零してしまう
そんなライの表情にミーシャもホッとしたように安堵の息を吐くと口元を覆っていた手をはずし
ふわりと、笑った
その笑みに、また、ライの息が止まる
少し吊り上がった目尻を垂らしてふっくらとした唇で綺麗な弧を描くその表情に寸の間目が釘付けになる
だが、すぐにライの視線はその弧を描く唇へと移り
ふと、
ミーシャの顔が間近に近付いた時のことを思い出す
ふっくらとしたミーシャの唇は見た目通りだったなと
(…クソ柔かったな)
「ライ…?」
「っ!!」
ライが茫然と惚けて動かなかったことに不安を抱いたミーシャはそっと声をかけた
声をかけられたことで我に返ったライは一瞬で全身を茹らせて過剰なまでに身体全体が上下すると勢いよく机に自分の額を押し付けた
ー ガンッッッ!!!!
「ライ!?」
すごい音がした
(今、俺は何考えやがった、なんだこれクソ俺は変態じゃねえ!!!!!!!)
突然のライの暴挙にミーシャが慌てて声をかけその額を覗き込もうと肩に手を置いたがその感触でさえ今のライにとっては凶器でしかなく
過剰ともいえるほど身体を上下させて「なんっでもねぇぇよっっっ!!!!!!」と吠えることしかできない
顔も上げずにまたもやグルグルと身の内に湧き上がる未知の不調に必死に抵抗するライ
そんなライの死闘に気付くことができないミーシャは「でもっ、凄い音が」とオロオロと声をかけることしかできないがそれでも死闘中の獣はそんな声に反応を返す余裕はない
額を打ち付けたまま変わらない体勢で身動ぎひとつしなくなってしまったライにミーシャは困ったようにライの肩を摩る、その行為が凶器だとも気付かずに
そして何かを探すように視線を机の上に走らせると下げていた眉尻を上げパッと表情を明るくした
そして未だ「クソが…っ」と呟き続ける獣に「ねぇねぇライ!」と声をかけた
「私、ライに私の名前書いてもらいたい!練習じゃなくてお守りにする用に!書いてくれないかな?」
心配している気持ちに己の欲望をちゃっかり混ぜ込んだミーシャはその発言もライの言う“トチ狂った発言”だということに気付かず明るく言い放つ
そんな弾んでいる声はやっぱりライの耳に残って
そして、死闘を繰り広げているライにとっては追い討ちにしかならなかった
(ッンなもん!持とうとしてんじゃねぇ!!!!!)
声にならない主張は内心で吠えるだけでも精一杯で
不調をきたした身体を平常時に戻すには
まだ当分かかりそうだった
*注*
ほっぺちゅーはライにとって一話で落ち着くことなどできないほどの大事件




