7.アーチボルトの悪夢
誤字報告ありがとうございます。
「お義姉様、私……お義姉様とお出かけがしたいわ」
何回目かのイリスとのお茶会の時に、そう言われた。
珍しくお茶の席に同席していたアーチボルトは即座に答えた。
ハンナが口を開く前に。
「却下だ」
「どうしてですの! お兄様はお義姉様と毎晩仲良くお過ごしだと聞いています。私がお義姉様と出かけるのに何の不満があるんですの!?」
イリスが血相を変えてアーチボルトに詰め寄ると、彼は口元を手で覆い隠し目線をイリスから外して呟いた。
「俺だってまだハンナと出かけていない」
一体何の話が始まったのだろう。
ハンナを置き去りに兄妹の応酬が続く。
「あら、お兄様はデートもまだでしたの? ならちょうどいいわ! 私と一足先に街に出かけましょう?」
上目遣いにハンナにねだるイリスは可愛らしい。
だが兄のアーチボルトではなく、彼の妻にしか過ぎない自分を誘うのはどういうことなのだろう。
困惑したハンナがアーチボルトを窺うと、彼は難しい顔で考え込んでいた。
「イリスと二人でというのは駄目だ。俺も行く」
渋い顔で彼はそう言った。
本当は断りたくて仕方ないといった表情だ。
ならイリスの誘いは断った方がいいのだろうか。
ハンナがそわそわと視線を彷徨わせていると、イリスと目が合った。
彼女は綺麗な顔をにっこりと微笑ませて、ハンナに告げる。
「あら、お義姉様はお兄様の考える事なんて無視なさってもいいのよ。最初にお義姉様と二人きりで出かけられないのを拗ねていらっしゃるだけですもの」
コロコロと笑い声を上げるイリスに、アーチボルトは苦々しい表情で言った。
「もう少し仕事が落ち着いたら、誘う予定だったんだ。それをイリス、君が……」
「はいはい。お兄様がお義姉様を大好きなのは分かりましたもの。ふふっ! ねえ、お兄様。お出かけにはどんな服がいいかしら? 私、お兄様みたいに市井の娘の服を着てみたいんですの」
その時はハンナも一緒だとイリスははしゃいだ声を上げる。
彼女はすっかり一緒にお出かけするという事実に夢中のようだった。
「……旦那様、あの……外出ですが……本当によろしいのですか?」
ハンナは学園に通う目的以外で外出したことはない。
父侯爵はそんなことを娘に許可しなかったのだ。
「外出は構わない。むしろ勧めたかったんだが……市井の娘のふりをするのなら二人とも失格だ。市井の娘は君達のような言葉遣いはしない」
アーチボルトはそんな風におかしなことを、真面目な顔で述べた。
「ではお兄様がお出かけの練習を手伝ってくださる? 市井の服についても知りたいの」
「タイタリアの素の喋り方だ。二人ともタイタリアに習ってくれ。服は俺が見立てて贈るから」
アーチボルトがそう言って妹を宥めると、イリスが嫌な顔になる。
どうやら彼女はタイタリアが苦手であるらしい。
アーチボルトとタイタリアの仲は良好だというのに不思議な事だ。
ハンナはそんな疑問をその日の夜、寝室でアーチボルトに聞いたのだった。
「イリス様はタイタリア様が苦手なようですが、どうしてですか?」
ハンナとアーチボルトの同衾は続いている。
夫婦として肌を重ねることはなかった。
あと一年ぐらいは猶予を設けても、ハンナの年齢では問題ないだろうとアーチボルトは言った。
かと言って別々の部屋で寝るとアーチボルトは夢見が悪くなるらしい。
こればっかりは何度試してもダメだった。
ベッドに横になる前に、いつものように並んで腰かけて、話をする。
「イリスがタイタリアを苦手な理由か。イリスが物心ついたぐらいでタイタリアが奉公に出てしまったからな。てっきり慣れてないからだと思っていたんだが……」
アーチボルトは言葉を切って、黙り込んだ。
どうも彼が考えていた理由とは違うのではないかと思い至ったのだろう。
その理由をハンナは知らない。
「イリスはハンナには懐いているだろう。だから、これは俺の予想なんだが……一種のヤキモチではないか……と」
「ヤキモチ、ですか……」
「叔母上が未亡人になった時、俺もタイタリアもまだ子どもだった。兄妹みたいに育ったところがある。イリスは……シエルも含めて兄が好きな傾向にあるが、イリスの知らない頃の俺達の話をするから、タイタリアが苦手なんじゃないかと……」
イリスが兄想いなのは間違いないだろう。
何回目かのお茶会の時には、ハンナの手を両手で握りしめて、『くれぐれもお兄様をよろしくお願いしますわ』と囁いたのだ。
「まあ……そうなんですの……」
「だが、今回のことでタイタリアとも歩み寄るだろうさ。あの子が市井にお忍びに出るのは念願だったからな」
感慨深そうにアーチボルトはそう言った。
それから彼は市井でのこと少し語ってくれた。
ハンナの家での暮らしとはとても遠い、物語のようだ。
人々の声が絶えず響く、賑やかなところであるらしい。
街の話そのものよりも、話をするアーチボルトの横顔を振り返って見入ってしまう。
懐かしい何かを語る時に、彼は瞳は遠くを見ている。
ここではない、どこかの風景を。
ぼうっとその表情を見ていると、アーチボルトが振り返りハンナと視線が合った。
「市井の事に興味が出たか?」
瞳を覗きこまれて尋ねられると、頬が熱くなる。
興味があるのは、市井のことより、アーチボルトが市井で見た風景だというのに。
「ハンナが市井に興味を持ってくれたのなら、俺は嬉しい」
気がつくとハンナはアーチボルトに抱き寄せられていた。
優しい手が、ハンナの肩をさする。
「今日はいい夢が見れそうだ」
「……夢見がよくないのですか?」
もう休もうと切り出したアーチボルトの呟きにハンナは首を傾げた。
するとアーチボルトはなんとも言えない表情でハンナを見つめた。
「大丈夫だ。目覚めた時に君がいるから」
その時にわからなかった言葉の意味は、その夜のうちに知ることとなる。
何か息苦しくて、ハンナは目を覚ました。
ハンナは夢を何も見ていなかった。
目を覚ました理由は、ハンナが何かにぎゅうぎゅうと押しつぶされそうだったからだ。
それがアーチボルトの体だと気づくのはすぐだった。
頭の上で、呻く夫の声がする。
「旦那様……?」
囁くように声を掛けても、反応はない。
夢を見ているのだろう。
アーチボルトの悪夢がどんなものかはわからない。
けれど、彼の目を早く覚まさなければならないとハンナは思った。
「旦那様、起きてください」
両手を使ってハンナをぎゅうっと抱きしめるアーチボルトを、揺さぶってみる。
アーチボルトに対して、小さな抵抗だがすぐに反応が変わった。
ふっとハンナを圧迫していた力が緩み、ハンナの呼吸が楽になる。
「……ハンナ、起こしてしまったか」
すまない、と謝るアーチボルトはハンナの背を撫で、確かめるように彼女の肩口に顔を埋めた。
「……旦那様?」
「夢見が悪かったんだ。しばらく、落ち着くまでこうさせてくれ」
弱々しいアーチボルトの声は震えていた。
よほど恐ろしい夢を見たのだろう。
熱い吐息が肩にかかり、ハンナは体を震わせた。
「旦那様……いったい、どのような夢を見たのですか……」
大きく呼吸を繰り返していたのがだんだんと収まってきた頃に、ハンナが尋ねると彼の呼吸が一瞬止まった。
すぐに何ごともなかったようにアーチボルトは呼吸を再開したが、ハンナの問いに答えを返さなかった。
重ねてハンナが尋ねる事もなかった。
そうしてやっとアーチボルトの呼吸が穏やかになったころに、アーチボルトはぽつりと己の見た悪夢を呟く。
「夢の中で、君が死んでしまうんだ。馬車に撥ねられて」
だから、目を覚ました時にハンナがいれば夢だとすぐにわかる。
ハンナがいなければアーチボルトはそれが夢か現実かわからずに朝まで眠れなくなるのだという。
「旦那様、私はここにおります。旦那様のお傍に」
ハンナが言うと、アーチボルトは苦笑したようだった。
「そうだな。だから俺は安心して次の夢を見れる。君が生きて、この手にいるから……」
呼吸は落ち着いてもアーチボルトの声は震えていた。
ハンナはどうしても彼の震えを止めたくて、恐る恐る彼の背に手を回した。
「私はいなくなりません」
いつもアーチボルトがしてくれるように、ハンナは彼の背を撫でた。
二人が夢の中に再び旅立つにはそう長い時間はかからなかった。