挿話・イリス
『イリス、貴女にとっておきの魔法を教えて上げるわ。お兄様にもお父様にも内緒にできる?』
それはイリスが十歳になった時、母である伯爵夫人に言われた言葉だった。
イリスはその時まで魔法なんて信じていなかった。
『私の家は母系で繋がる魔法使いの家系なのよ。最初の一人は異世界から落ちてきたとも伝わっているの』
だけどイリスの母は真剣な表情でイリスに伝える。
これから話す事が真実であると。
『イリス、実は貴女……一度死んでいるの。私のたった一つの魔法で今はこうして生きているけれど』
悲しみに満ちた母の瞳は嘘を言っているようには見えない。
そしてイリスの母は語った。
母方の血筋が受け継いできた力の事を。
時戻しの魔法。
一度だけやり直しができる魔法だった。
母と娘だけが魔法を受け継ぎ、他の家族に知られてはならない。
そうじゃなければ、魔法の効力が発揮されないのだ。
『どうしてお母様は時を戻したの? 私が死んだから?』
イリスが問うと力なく母は首を振った。
『貴女だけではないの。エミールもアーチボルトもシエルも旦那様もその時に死んでしまったわ。だけど、私が時を戻したから何も起こらなかった』
ただ時間を戻すだけならば、時が過ぎればまた同じことが起きる。
だから時を戻した時には、少しずつ関係する人に一度目の時の夢を見せることがある。
悔いが残った者に、悔いの残らない行動をさせる為に。
術者は時が戻った瞬間を何かの形で知るのだという。
母もそれで時戻しされたことに気づき、夢で知ったことをさりげなく夫に伝えて未来を変えた。
『貴女もいつかこの魔法を使うかもしれないわ。だけど、良く考えて。この魔法での時戻しは一回しか使えないの。その魔法が発動する条件は貴女の後悔と、家族の犠牲。本当に大切な人にだけ使いなさい』
教え諭すような母の言葉に、イリスは約束するようにしっかりと頷いた。
***
十三歳になったイリスは、父が病気で倒れたと聞いて顔を青ざめさせた。
高価な薬を使わなければ命も危ない。
もし、父が亡くなった時――。
時戻しの魔法を使うか悩んでいると、母はイリスと二人きりになった時に優しく言ったのだ。
「旦那様の事は大丈夫。貴女は未来の家族を守る時に使いなさい」
そう言われてもイリスは不安だった。
減っていく部屋の調度品。兄たちは資金繰りに駆けずり回り、薬代を稼いでいた。
その中でアーチボルトの縁談が決まった。
いくつもの商会を持ち、商業面で権勢を誇っているアークス侯爵家。
伯爵家への莫大な援助と引き換えに、その一人娘への婿入りだった。
未成年のシエルとイリスが事態を知った時には、もう結婚式の日取りまで決まっていた。
アーチボルトは婿入りの事をイリスたちに告げた後、家族の誰とも目を合わせなくなった。
それがイリスには許せなかった。
「イリス、まだ怒ってるのか」
それはアーチボルトが婿入りする前夜の事だった。
すぐ上の兄シエルの前でイリスはむすりとした。
諭されても聞けるはずもない。
アーチボルトはこれから伯爵家の犠牲になるのだ。
まだ若いイリスの運命を過酷にしないために。
そんなことは誰だってわかる。
財政の傾いた家を建て直すには、資産を多く持つ家との婚姻が一番早い。
このままだとイリスが望まぬ婚約を強いられる。
だからアーチボルトは望まぬ婿入りを受け入れた。
イリスはそれが我慢ならなかったのだ。
「だって、おかしいじゃない。アーチボルトお兄様が私の為に犠牲になるなんて」
言ってしまってから、イリスは衝撃を受けたように固まった。
『お兄様を返して下さらない?』
イリスは己の脳裏に響いた声に、何が起きたのか悟ってしまった。
それは覚えのない、自分の冷たい声。
この先、イリスは遠くない未来に誰か家族を失ってしまう。
『――一年はかからないでしょう。きちんと貴女の『お兄様』を解放して、私は消えます』
全く知らない誰かの声が響いて、イリスはくしゃりと表情を歪めた。
涙がじんわりと湧き出て、頬を濡らす。
「イリス、兄貴が結婚するのそんなに泣くほど嫌なのかよ……」
泣き出したイリスを見て、どこか呆れたようにシエルはぼやく。
話してもわかってもらえないだろう。
わかってもらえたとしても、イリスは母との約束で話すつもりはない。
『――恐らく今夜が峠でしょうな』
誰かが死んでしまう。
イリスはそれを回避しなくてはならない。
だけど、あの時聞こえた声はイリスの知らない誰かだ。
可能性があるとしたら、兄アーチボルトが結婚する相手だ。
「おい、イリス?」
シエルの声なんて聞こえなかった。
イリスは泣きながら部屋を飛び出して、アーチボルトの部屋に向かっていた。
シエルは急に泣き出して、部屋を飛び出したイリスを追いかける。
「お兄様……! アーチボルトお兄様……!」
部屋の扉を叩いて呼びかけると、すぐに扉が開いた。
兄の顔を見て、ボロボロと涙をこぼすイリスに目線を合わせるように身をかがめる。
「イリス、俺が出て行くのはやはり寂しいか?」
「お兄様……?」
アーチボルトの様子が少しおかしい。
婿入りする事を告げてから、合わなかった目線がぴったりと合う。
何か覚悟を決めたような兄の表情に、兄は覚えているのだと悟った。
時が戻る前の事を。
きっと、それが必要だったから。
「お兄様……私、お兄様が落ち着いたら……お兄様の奥様になる方にお会いしたいわ……」
「……ああ、その方がいいかもしれないな。結婚してから考えてみるよ」
アーチボルトは妹に優しい。
イリスは涙が止まらなくて、兄にしがみつく。
「さっきからイリスがずっと泣いてるんだ。兄貴のせいだからな」
イリスに追いついたシエルはぶっきらぼうにアーチボルトに言った。
アーチボルトは泣きじゃくるイリスの背を撫でて、苦笑したようだった。
「結婚する彼女にも会わせる。お前たちの夏季休暇には二人で泊まりに来てもいいから、泣くな……イリス。二度と会えないわけではないのだから」
アーチボルトの言葉にイリスは何度も頷いた。
必ず手紙をくれるように約束して、アーチボルトは翌日に侯爵家に婿入りして行った。
しかし、さらに翌日には伯爵家へ、アーチボルトの手紙が届けられた。
思ったより早い手紙にイリスは驚いたのだった。
***
「ねえ、シエルお兄様。この手紙おかしくない?」
アーチボルトが妻を伴い同じ王都内の別邸に引っ越ししてしばらく経った頃だった。
長兄エミールは事細かに手紙のやり取りをしているらしいが、イリスに手紙が来たのは初めてだった。
イリスに頼みたいことが書き連ねてあるが、その中に不思議な事が書いてあった。
「何がおかしいんだよ。イリスに話し相手になってほしいってだけだろ」
シエルは手紙をざっと見て判断する。
違う。頼みごとではなくて。
「夏季休暇にアーチボルトお兄様が奥様――お義姉様と一緒に一度お帰りになるって書いてあるでしょう?」
「ああ。それがどうかしたのか?」
何の違和感もなく読み切ったシエルにイリスはもう一度手紙を突きつけた。
「お義姉様は結婚可能な十六になったからお兄様と結婚したのよ。シエルお兄様と同じ学年だったでしょう!」
しかし、手紙にはこう書いてある。
夏季休暇に妻ハンナの誕生日に合わせて泊まる。
誕生日のお祝いをする、と。
「この間十六になったはずのお義姉様の誕生日を夏季休暇の間にお祝いするなんておかしいじゃない!」
「そう言われてみると……そうだな。何でだろ」
「お兄様に聞いて、教えてくれるかしら」
「どうだろ。深い事情がありそうだけどな」
何かあるのかもしれない。
アーチボルトに問い詰めたい気持ちが強い。
イリスが時を戻したことを悟られてはいけない。
だが、この手紙のおかげでイリスが直接ハンナと出会うことができる。
彼女を失わないように立ち回れるかもしれない。
きっと一度目のイリスにとっても彼女は大切な人になったのだろう。
たった一度の魔法を使うぐらいに。
「私、お義姉様と仲良くなりたいわ。……できるかしら?」
「イリスならできるだろ」
シエルはイリスの不安をすぐに拭い去った。
イリスはその言葉にこくりと頷いたのだった。