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6.ハンナの悪夢

 時は日の沈みかけた頃合い。

 通された部屋は西日が差しこんで眩しかった。

 彼女を案内した赤毛の侍従は、部屋をそっと出て行った。

 ぱたりと扉が閉じられると、彼女は部屋の主と二人きりになった。

 彼に似た銀髪が西日に照らされて煌めく。


『お兄様を返して下さらない?』


 彼女より幼い少女が冷たく、挑むように睨みつける。

 分かっていた。

 二人が仲良くできる道理などない。

 だって、少女の言う『お兄様』は――。


『だっておかしいじゃない! お兄様は伯爵家わたしたちの為に犠牲になって。お兄様は私たちに申し訳ないからって手紙も受け取ってくださらないの! だから――』


 自分がこの少女から家族を奪ったのだ、と彼女が認識するには十分だった。

 自分さえいなければ。いや、自分が男であったのならば。

 こうやって壊される家族なんてなかったのだ。


『ええ、わかっています。いずれ、()()()()()()()()()()()()。必ず貴女の『お兄様』を伯爵家あなたたちの元へ帰しましょう』


 生きているだけで自分は罪深い存在だ。

 役目さえ果たしてしまえば、侯爵家にとって自分は不要な存在になる。

 そうすれば彼はきっと解放される。


『ですから、もう少しだけ猶予をください。一年はかからないでしょう。きちんと貴女の『お兄様』を解放して、()()()()()()


 それがきっと正しい事だ。

 銀髪の少女がショックを受けたように青ざめて、口元で手を覆うのも彼女は気づかなかった。



 舞台は切り替わり、衝撃と共に彼女は地面に叩きつけられた。

 灼熱の痛みが身体を苛んで、意識はすぐに焼き切れた。

 そして熱に浮かされながら、誰かの悲壮な声を聞いていた。


『――恐らく今夜が峠でしょうな』


『そんな……』


『このまま意識が戻らなければ、もはや……』


 真っ暗な闇の中で、誰かの泣いた声が聞こえて彼女はまぶたを少し開いた。

 霞む視界の中で銀色の光が揺れている。


『ごめんなさい、()()()()……私があの時……あんなことを言わなかったら……お義姉様とお兄様は……』


 彼女にとって己以外の誰が悪いわけでもなかった。

 だから、もうこれでいいのではないかと彼女は思った。

 ここで彼女が全てを諦めて目を閉じてしまえば、彼は解放されるのだから。


『待って、お義姉様……まだダメ! お兄様が……せめて()()()()()()()()……』


 そうは言っても彼女のまぶたはもう重たいのだ。

 意識が真っ白に染まっていくのに、そう時間はかからなかった。


 ***


「――ナ、ハンナ。起きるんだ」


 掛けられた声に、ハンナは意識を浮上させた。

 夢を見ていた気がする。

 そう、イリスたちとのお茶会の後にハンナは疲れて自室で眠り込んでしまったのだ。

 胸がずきりと痛むような気がして、目を開けると、目尻から雫が零れ落ちていた。


「あ……あら……」


 自分が泣いていたことに気づいて、ハンナは夢の内容を思い出そうとする。

 しかし、霧散したようにその形は掴めない。


「ハンナ……魘されていたがよくない夢を見たのか?」


 アーチボルトに顔を覗きこまれてハンナは意識をはっきりさせる。

 外はとうに陽が落ち、アーチボルトが帰宅する時間だった。

 恐らく彼は夕食も取らずに部屋で休んでいるハンナの様子を見に来たのだろう。

 見上げた夫は苦しそうに表情を歪めて、ハンナの零れる涙を拭い去った。

 その手つきが優しくてハンナはほうっと息を吐く。

 随分と緊張をしていたようだ。


「――ハンナ、君は()()()()()んじゃないのか?」


 心配そうに瞳を覗き込むアーチボルトに、ハンナは首を傾けて言葉の意味を考えた。

 覚えている? 何を?

 今この状況で問われるとしたら、答えは一つだ。


「えっと……夢のことでしたら、全然……」


 アーチボルトはハンナの頬を両手で挟んで、目元に口づける。

 掌の温もりが涙で濡れた頬には熱くて、触れられた部分からじんわりと温もりが全身に広がっていく。


「覚えてないなら、いいんだ。悪夢なんて覚えていたって仕方ないからな」


 目元の次は鼻先に。最後に唇が軽く合わさった。

 一瞬触れるだけで、アーチボルトの唇はすぐに離れる。

 彼の瞳がすぐ近くでハンナを見つめていて、くすぐったくなった。

 夢の事も忘れたように、ハンナは吐息の掛かるほど近い夫の瞳を見つめる。


「今日は妹たちに会っただろう? 疲れたんじゃないか?」


「そう、かもしれません」


 しばらく間近で見つめあっていると、いつの間にか涙も止まり、落ち着いてくる。

 この温かさにずっと浸っていたい。

 そんな気分だった。


「何を話したか、食事をしながら話してくれないか?」


 微笑んで、アーチボルトが身を起こす。

 追ってハンナも身を起こすと、彼に手を引かれた。

 繋がれた手は、食事を用意された部屋に着くまで結ばれたままだった。


 ***


 ハンナにとって食事とは作業だった。

 固形物は噛み砕いて、スープなどの液体はそのまま喉を滑り落ちていくだけの、生命を維持する作業。

 それが変わったのはアーチボルトと結婚してからだった。

 アーチボルトの作ったサンドイッチを食べた時から、食事は作業ではなくなった。


「今日の料理はどうだ? 何か好みの物は見つかったか?」


 人生に何の楽しみもなく、何の好みもなかったハンナにアーチボルトは色々な物を見せてくれる。

 知らない料理だったり、知らない作法だったり。

 好みのないハンナの好みを探しているような。


「……あまりよくわかりません」


「じゃあ、もう一度食べたい料理とかは?」


 アーチボルトに聞かれてハンナは考える。

 もう一度食べたいものを聞かれて、脳裏をよぎったのは初夜の翌朝にアーチボルトが持ってきたサンドイッチだった。

 彼が作ったと言っていた、初めて鮮烈な感情を抱いて食べた料理だった。

 だけど、とハンナは迷う。

 自分が何かをねだるのは酷く我がままではないかと思うのだ。


「何かあるんだな。教えてくれないか? 君の好む物を知りたい」


「え……でも、迷惑に……なりませんか?」


「ならない。君はもっと我がままでもいいぐらいだ」


 本当にそうだろうか、とハンナは思う。

 父には何を言っても我がままだと切り捨てられた。

 だからかもしれない。ハンナがアーチボルトの言葉を信じられないのも。


「えっと……あの……」


 何か言わないといけない。

 だけど、父と同じようにそれを否定されたら?

 そう考えると、違う話題に切り替えるしかなかった。


「……旦那様はご実家で、料理を作ってたそうですね」


 気がついたらハンナはそう口を滑らせていて。

 我に返った彼女は慌てて言い訳を募らせる。


「えっと……イリス様から、そういうお話を……窺って……その……」


 一体何を言ってるのだろうとハンナは恥ずかしくて、アーチボルトから目線を逸らして彷徨わせる。

 何か、次の言葉を探さないといけないのに。


「……イリスとは他に何を話した?」


 アーチボルトからの質問にハンナはホッとする。

 これで言い訳する必要もなくなる。


「ご実家での旦那様のお話ばかりです。市井で修業していらしたとか……」


 ハンナの言葉にアーチボルトは目を細めた。

 何だかとても楽しそうだとハンナは不思議に思う。


「そうだな。俺は自分の作った料理を誰かが美味そうに料理を食べるのを見ているのが好きだったのさ」


 今はアーチボルトが実家にいた時のように、料理をすることもない。

 ハンナはそう思うとなんだか昏い気持ちが芽生えて居心地が悪くなった。

 しかし――。


「今は、仕事でレシピを開発するのに忙しくてそれどころじゃないが、ちょっと落ち着いたら()()()()()()()()()()()()()()()()?」


「え?」


 何だかとんでもなく意外な事を聞いたようで、ハンナは思わず聞き返す。


「旦那様のお仕事……ですか?」


「ああ。義父上から侯爵家の持つ商会のうち、外国の食材を扱う部門を任されてね。基本的なレシピと共に売りだせば売り上げが見込めるだろう。その基本的なレシピを開発するのに二か月ぐらい見込んでいる」


 好きな料理の事だからなのか、アーチボルトは楽しげに仕事の事を語る。


「二か月も経てば学園も夏の休暇に入る。実家に二、三日泊まりに行ったっていいだろう? それに夏はハンナの誕生日もあるだろう? 俺の家族と()()()()()()()()パーティでもできたら、と思うんだが」


 アーチボルトの提案に驚き、ハンナは戸惑う。


『特別な日になるわ』


 イリスがお茶会の時に言った事を思いだす。

 でも、祝ってもらう資格が果たして自分にあるのかハンナには自信がない。

 もしかしたら自分は夢を見ているのかもしれない。

 初夜のあの時から、とても長い夢を。


「旦那様はそれで……よいのですか……?」


 ハンナの戸惑った問いかけに、アーチボルトは微笑んで頷いた。

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