5.新たな生活と忍び寄る陰
夫に触れられると温かくなるのに、冷たい視線と言葉に心は切り裂かれた。
胸の切なさはいつまでも埋まらない。
彼女はその感情の名前さえ知らないのだから。
それを知りたいと思ったこともあった。
けれど、自覚する前にその感情は自分自身で封印した。
『お前と結婚など、したくなかった……』
正体がなくなるほどべろべろに酔った夫は言う。
妻の体を抱き、義務のように揺さぶる中で。
いつも冷たく見下ろすだけの目がくしゃりと歪んで、涙をぽたりと彼女の頬に落とした。
『俺は最低だ……こんな風に身を売った結婚など……家族にどうやって顔を出せる……!」
感情の高ぶるままに吐き出す彼の声を聞いて、彼女は自分の人生を決めてしまった。
夫婦の義務を果たして、跡継ぎが出来た後は彼を解放しよう、と。
それがたとえ、どんな形であれ。
己が命を失うのだとしても。
***
引っ越してからの全てが、ハンナには新鮮だった。
まず屋敷の門から、玄関、自室となる部屋まで自分が扉に一切触らないということが初めてだった。
屋敷には人が溢れかえっているように見える。
庭には、庭師が。廊下では侍女が控えて、頭を下げてハンナとアーチボルトに道を譲る。
「あの……旦那様……」
戸惑うようにアーチボルトを見上げると、彼の優しい視線が宥めるようにハンナを捉えて離さない。
そうなるとハンナは胸がざわりとして、落ち着かない気分になるのだった。
この屋敷はハンナのいた別邸とはまるで広さが違う。
自室も倍以上の広さで、色々棚に飾りがあってなかなか落ち着かなかった。
そしてこの屋敷には自室の他に、夫婦の寝室があった。
その気がなければ夫婦の寝室を使うことはない。
だけど、引っ越した日はそれぞれ別室で休んだものの、翌日からはアーチボルトの申し出で夫婦の寝室で共に寝る事になった。
「……悪い夢を見たんだ」
引っ越しの翌朝にとても青い顔でそう告げたアーチボルトに、ハンナは不思議に思いながらもそれを了承した。
ハンナも何かよくない夢を見たような気がしたからだ。
夢の詳細は覚えていないが、たとえば自分が今間違えた道に踏み入れてしまったかのような。
(かえしてあげなければいけなかったのに)
胸に疼くような不思議な感覚に、ハンナは青ざめたアーチボルトの提案に頷くしかなかった。
そうして始まった新たな屋敷の生活は翌日に、仕立て屋を呼ばれ、初めて見る様々な布地や刺繍見本を見て悩むことから始まったのだった。
***
ハンナがようやく人の多い屋敷慣れた頃だった。
一人の少女が訪れた。ハンナと同じ年頃の赤い髪の侍従を一人連れて。
「やっと会えましたわ。はじめまして。私、エルマン伯爵家長女イリスと申します。お義姉様におかれましてはご機嫌麗しゅう」
談話室に通されたイリスは綺麗なカーテシーをしたので、ハンナも応えるように一礼する。
イリスと名乗った少女歳の頃は十三歳、貴族の子女としては学園に今年入学したばかり。
さらさらの銀髪はアーチボルトとお揃いで、地味な茶髪のハンナは彼女が羨ましくなる。
次に侍従だと思っていた少年が、口を開いた。
「俺はエルマン伯爵家の三男、シエル。よろしく、義姉さん」
彼はアーチボルトの弟だった。
ハンナは驚いてシエルと名乗った少年を観察した。
髪は赤毛でアーチボルトとは似ていないけれど、顔は確かにアーチボルトを若くしたような感じだ。
淑女の見本のようなイリスの挨拶とはまるで真逆の挨拶だ。
イリスは憤慨したようにシエルに言う。
「もう、シエルお兄様は……。せめてエミールお兄様を見習って紳士らしくしたらどうかしら?」
「俺はいいんだよ。将来は官僚として働く予定だし、女の子と話すの苦手なんだよ。エミール兄さんはなんであんな恥ずかしいセリフが言えるんだ……」
ため息を吐くシエルにイリスはコロコロと笑う。
ハンナはおろおろと二人の会話を聞いているだけだ。
そもそも彼らの訪問理由もまだ聞いていないのだ。
「シエル坊ちゃま、イリスお嬢様。そろそろ本題にお入りください」
談話室に二人を通した後、慎ましくハンナの背後に控えていたジェシカが口を開いた。
ジェシカとタイタリアはこの屋敷に来てからは、伯爵家の血を引く人間だということを完璧に隠していた。
設定としてはアーチボルトの乳母と、その娘なのだという。
だからイリスたちにも侍女としての立場で口を挟むのだ。
「でも叔母様……」
「イリスお嬢様。設定をお忘れですか?」
「う……はい」
最初の丁寧な挨拶が嘘のように、イリスは年相応の表情でジェシカの前で神妙にうなだれている。
「早く奥様に用件をおっしゃいなさい。旦那様に呼ばれたのでしょう?」
ジェシカにハンナは首を傾げる。
アーチボルトはハンナには何も言っていない。
弟や妹が来ることも、その目的も、何一つ。
(あの人の家族が来るなんてありえないのに)
ふと思い浮かんだ考えにハンナは疑問を覚える。
実際に彼らはここに来ているのに。
どうして、こんなことを考えたのだろう。
「あのね、お義姉様。私、お義姉様の助けになりに来たんですの!」
「助け、ですか?」
「そう。この屋敷じゃタイタリアとダンスのレッスンもお茶会の練習もできないでしょう? だから私がお茶を、シエルお兄様がダンスのお相手をするの」
「はい……?」
ハンナが首を傾げている間に、談話室の扉が開き、タイタリアがティーセットを乗せたワゴンを押して入って来た。
ノックがなかったためすかさずジェシカの注意が飛ぶ。
「タイタリア。ノックを忘れていますよ」
「失礼しました~」
タイタリアはその注意もどこ吹く風で、ワゴンをテーブルの傍に寄せた。
「どうぞ、シエル君。お茶の用意を。奥様とイリス様はこちらでおかけになってお待ちください」
含みのある様子でタイタリアがシエルに言うと、シエルは反発して噛みついた。
「リア姉! 俺はもう子供じゃないんだぞ!」
しかしすぐにジェシカに制される。
「シエル坊ちゃま、タイタリアも。職務中は私語を慎みなさい」
シエルはバツの悪そうな顔でワゴンに近づき、慣れた手つきで茶葉を選びポットに入れる。
その様子がどこか見覚えがあるようで、ハンナは首を傾げた。
「シエルお兄様は紅茶を淹れるのが得意なのよ! アーチボルトお兄様に習ったから」
そうか、とハンナは納得した。
いつだったかアーチボルトに紅茶を淹れてもらったことがあった。
その時の彼の手つきに似てるのだ。
「お茶の準備が終わるまでお話しましょう、お義姉様! 私、結婚してからのお兄様のお話が聞きたいわ」
目を好奇心にキラキラと輝かせてイリスはハンナにねだる。
しかし、ハンナは自分から何かを話すのは苦手なのだ。
「旦那様のお話、ですか……。私、お話はあまり得意ではなくて、ご実家での旦那様のお話をお聞きしたいぐらいです……」
自分で言ってハンナは既視感に襲われた。
いつか、誰かにこの話をしたような気がする。
ここではないどこかで。
じゃあ、いったいどこで?
ハンナが呆然としていると、イリスとシエルのいる風景が一瞬別の背景にすり替わった気がした。
別の調度品、全く別の部屋で。
瞬きしている間に、ハンナの視界はすぐ元に戻った。
「結婚する前のアーチボルトお兄様、ですか? すごい世話焼きでしたの。それから凝り性ね。すごいんですのよ。アーチボルトお兄様ったら料理好きのあまり、学園を卒業してすぐに市井の食堂で料理人の修行をしていらしたの」
イリスは楽しそうにアーチボルトとの思い出を語る。
シエルが準備した紅茶を二人の前に置いて、脇に下がっても彼女の話は止まらない。
例えば市井の料理を伯爵家で週に一度アーチボルト自身が調理して供したり。
家族の誕生日などの記念日の際には腕を振るってケーキを作ったり。
それはハンナの全く知らない生活だ。
「きっとお義姉様もお誕生日の時にはびっくりなさるわ。だってメイン料理もデザートのケーキも全てお兄様がお作りになるんですもの。特別な日になるわ」
きっとそうだと確信しているイリスに、ハンナは素直に頷けずに首を傾げた。
ハンナには誕生日を祝ってもらった記憶はない。
自分の生誕した日だと記憶しているが、それだけだ。
ただ一つ、歳を取るだけの日。
それが本当にイリスの言うような特別な日になるのだろうか。
(そんな、祝ってもらう資格なんて私にはないのに)
囁く声がどこからか聞こえたような気がした。