3.心の中の嵐
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「叔母上、説明してもらいましょうか」
しばらく天を仰いだまま固まっていたアーチボルトは不意に現実に復帰した。
ハンナは二人の女性とアーチボルトの間で視線を彷徨わせる。
身の置き所がない。
ちらりとアーチボルトを窺うと、彼もどこか困っているようだ。
「いえね。娘が職を失ったと今朝突然帰って来たんですのよ。それでアーチボルト坊ちゃまが人手が必要だと仰ったでしょう? ちょうど良いと思いまして」
年配の、亜麻色の髪をきっちりと結い上げた、アーチボルトに『叔母上』と呼ばれた女性は口元にだけ微笑みを浮かべて言った。
その隣の、明るい女性はあっけらかんと笑っているだけだ。
その女性にアーチボルトは厳しい目を向けた。
「タイタリア。どういう経緯で職を失ったんだ? 何か奉公先でやらかしたのなら、ここでは雇えんぞ。流石に」
「そうじゃないの! 聞いてよアーチボルト兄さん。酷いんだってば」
アーチボルトの従兄妹であるタイタリアは自分の置かれた状況を語りだす。
彼女は自分の身分を隠して、とある子爵家に侍女として雇われていた。
特に子爵夫人に可愛がられ、身の回りのお世話をして、結構な給金を貰っていたのだという。
しかし状況が変わった。
子爵は貿易を利用した先物取引で財を成していたのだが、その取引に失敗したのだ。
投資していた品の価値は暴落し、財政が傾くのがあっという間だった。
資産を差し押さえられてしまうほどに。
仕えていた使用人たちに新しい職場を紹介することもできず、タイタリアたちは職場を離れた。
それがちょうど昨日の、アーチボルトとハンナの結婚式の日であったらしい。
「それで、家でしばらく働いてから、紹介状を家令に貰って別の所に奉公に出ようと思っていたのよ。そしたら、アーチボルト兄さんから母さんに手紙が届いていたから、これだ! と思ったのよ」
「まあ、確かに人手は必要だが……」
アーチボルトの視線がハンナに向いた。
合わせるようにジェシカとタイタリアの目が集中し、急にハンナは居心地が悪くなる。
まるで挙動を全て監視されているような錯覚に陥ってしまう。
だって、今までの侍女はハンナをそのように見て――。
「――特に、最近の流行に詳しい女性を近々手配するつもりだった」
ハンナがぼんやりしている間に何やらアーチボルトと他の二人の間で話が進んでいたようだ。
「タイタリア。悪いが明日にでもハンナのドレスを買って来てくれないか? 装飾品も。叔母上は彼女の令嬢教育の習得状況を確認してくれませんか? 俺の予想が正しければ夫人教育は受けてないはずです。侯爵家には女主人がいなかったのですから」
「ええ、いいでしょう。それと、アーチボルト坊ちゃま。私たちはこれより使用人となるのですから、口調は改めなさいませ」
「叔母上が『坊ちゃま』呼びを止めてくれるならすぐにでも改めます」
そういえばアーチボルトが敬語を使ってるのを結婚以来初めて見たな、とハンナは彼らの会話を聞き流しながら思った。
何やらハンナについて会話しているらしいのはわかるのだが、大して興味はなかった。
教育などと言っても、面白いことは何もないだろう。
かといって苦痛というわけでもない。
これまで受けた教育も、食事と同じくハンナにとっては全て作業に過ぎない。
気がかりな事があるとすれば、タイタリアとアーチボルトの親しさだ。
そんな親しさをハンナは知らない。
家族は彼女にとって最も遠い存在だ。
あまりにも二人の親密さが眩しかったのだろう。
何故だか胸に見えない棘が刺さったかのように痛かった。
***
湯浴みを終えた後にはハンナはヘトヘトになってしまっている。
夕方からタイタリアに体中を採寸されて、質問攻めにされた。
ハンナはあまり喋ることが得意ではない。
そのせいかすっかり疲れてしまった。
何故タイタリアがあれだけたくさん喋っても平気なのかわからない。
「はぁ……」
ため息を吐いてハンナは夫婦の寝室に向かった。
こんなに疲れているのに、夫婦の営みを無事にこなせるだろうか。
考えると胸がザワザワとする。
きっとタイタリアとの会話のせいだろう。
『アーチボルト兄さんったらハンナちゃんにべた惚れじゃないの!』
ジェシカがハンナたちの傍を離れた間の事だ。
それまでは出会いの時の様子を潜めて、侍女らしくしていたタイタリアが感嘆の声を上げた。
その意味が分からず、ハンナは首を傾げる。
『べた惚れ……?』
『あら、ハンナちゃんにはまだ早かった? 私がこんなこと言ってたなんて母さんとアーチボルト兄さんには内緒ね』
底抜けに明るい声がハンナに言い含めた。
『旦那様と仲がよいのですね……』
意図せず零れた言葉は硬かったように思う。
胸の奥に刺さった棘が深く刺さったように痛む。
『アーチボルト兄さんとは家族みたいなものよ。ハンナちゃんもアーチボルト兄さんと結婚したんだから私たちとも家族みたいなものでしょ』
家族だから仲がいいなんて納得できない。
だって、ハンナにとって家族は――。
『ねえ、ハンナちゃんはアーチボルト兄さんのことどう思ってる?』
侍女としてではなく、ほんの少しの間アーチボルトの『家族』の顔をした彼女は聞いた。
ハンナは何も答えられなかった。
タイタリアはきっとアーチボルトの事を良く知っている。
そう思うと胸の中がジクジクと痛むような気がして。
寝室の前まで来ても扉を開くことができなかった。
この先にアーチボルトがいるというのに。
侯爵家の娘として、跡継ぎを作らないといけないのに。
「……ハンナ?」
扉の向こうからアーチボルトの呼ぶ声が聞こえた。
「あ……」
「……どうした?」
近づいてくる声に、反射的に体が逃げてしまう。
どうして。自分でもわからない。
「あ、あの……」
何と答えたらいいのだろう。
でもすぐに扉が開いて、部屋の中から現れた影がハンナを覆う。
温かい手がハンナの頬に触れていた。
「湯浴みを終えたんだろう? 体が冷えてしまう。早くこちらに」
今自分がどんな表情をしているかわからない。
アーチボルトに手を引かれると、先ほど一歩も動けなかったのが嘘みたいに足が動く。
「君が不安に思うことはない。今夜は何もしないから」
ベッドに辿りつく直前にアーチボルトはそんなことを言った。
ハンナは不安に駆られてアーチボルトを見上げる。
もしかして、昨夜の自分の振る舞いが悪かったのではないか。
このまま夫婦の営みはなくなり、自分は跡継ぎを産むことも出来ず――。
「違う違う。君が不安に思うことは一つもない。叔母上に叱られたんだ。昨夜君に無理をさせ過ぎたことを。今晩一回肌を重ねなかったぐらいで子の出来る出来ないは変わらないだろう」
一瞬額に落とされた唇にハンナは驚いて、アーチボルトの瞳を見つめた。
琥珀のような美しい色の瞳は優しく笑ってハンナを見下ろしている。
「たまにはこんな夜もあっていいだろう」
「そう、でしょうか……?」
「ああ、そうだ。少しだけ話をしよう。俺たちはもっとお互いの事を知った方がいい」
「ですが、私には旦那様にお話しできることなど……」
自分には何もない。
しかし、アーチボルトはハンナを軽々と抱き上げ、ベッドの上に下ろした。
「俺は君の事を知りたい」
抱きしめるようににアーチボルトがハンナの耳元に囁く。
吐息が耳にかかると肩が震えた。
「知って……どうなさるんですか……?」
「……それは、まだわからない。俺が知りたい……だが、たぶん――」
彼の声がどこか震えているように聞こえたのは気のせいだろうか。
「その件はおいおい考えるとして。ハンナ、今日はどうだった? タイタリアの相手は疲れたんじゃないか?」
肩を押されると、ハンナの体は簡単にベッドに沈みこみ、アーチボルトを見上げていた。
優しく微笑む瞳が彼女を見下ろす。
「私は、疲れているのでしょうか?」
「どうせタイタリアの事だ。叔母上のいない間にいつものペースに戻っていたんだろう。彼女のペースに付き合うのは疲れる。俺でも四六時中は勘弁願いたい。……本当なら彼女を呼ぶのはもっと先にしたかったのだが」
アーチボルトの指がハンナの頬を撫でる。
まるで彼女をいたわるように。
「どうして、ですか?」
「君は人と喋ることに慣れてないんじゃないかと思ってだな」
「そう……ですね……」
確かにアーチボルトの言う通りだ。
家では侍女や侍従との最低限の会話。
用があれば呼びつけるだけの父。
結婚と同時に寿退学となった学園でも他人と関わった記憶はない。
どう接したらいいのかわからなかったのだ。
今もそうだ。
アーチボルトとも、ジェシカとも、タイタリアとも、何を話したらいいかわからない。
「……」
何か言わないといけない気がする。
けれど、言葉は何も湧いて来ずに、胸が痛んで苦しい。
何を話せばいいのかハンナにはわからなかった。
何故なら、誰もそんなことを教えてくれなかったから。
「ハンナ、大丈夫だ」
気がつくとハンナはアーチボルトに抱き込まれていた。
密着した体は布越しでも温かく、ハンナは今更のように驚いた。
人間は温かいのだと、今知ったかのように。
「旦那様……私……」
「今日はもう休もう。君はとても疲れているようだから」
気がつくと胸の痛みが消えており、代わりに何か温かいものが込みあげる。
だけども、アーチボルトにそれ以上何も言えなかった。
アーチボルトもハンナに何かを告げる事もなく、その背を撫でるだけ。
彼の鼓動を感じながら、ハンナはゆったりとした気分になり、目を閉じた。
ハンナがそれを心地よいと知るのはもう少し先の事だ。