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2.一夜明けて嵐の予感

 長い夜だった。

 触れられた肌はじれったく、未知の感覚を体に埋め込んで。

 深く体を繋げると何もわからなくなって、ひたすら声を上げるしかできなかった。


 そうして、夜は明けた。


 ハンナが目を覚ました時には部屋にはもう誰もいなかった。

 まるで昨夜のなにもかもが嘘のよう。

 けれど全体的に怠い体と、下腹部の鈍い痛みが昨夜の出来事が夢ではないと告げていた。

 起き上がろうとしても、頭が重く、ハンナは苦労して起き上がる。

 太陽は既に高く昇って、昼に近いのではないかと思われた。


「あ……」


 声を出そうとして、喉がカラカラに乾いていることに気づく。

 掠れた声が吐息のように漏れて、侍女か誰かを呼ぶことも叶わない。

 そもそも呼んだところで、誰か来るとは思えなかった。


(あら、きちんと夜着が着せられているわ)


 ハンナはそのことに首を傾げた。

 ベッドのシーツも取り換えられて、真っ新になっている。

 ハンナが眠っている間に誰かが換えたのだ。

 だが、一体誰がそんなことをする?

 そんなことを考えていると、扉をノックする音が聞こえた。

 返事をしようとするも、喉は掠れた声しか出せずに返事に困る。

 けれども、すぐに扉が開き、給仕に使うワゴンを押してアーチボルトが入って来た。

 ワゴンの上には今欲してならない水をなみなみと満たした水差しと、コップ。そしてサンドイッチの並んだ皿が一つ。


「おはよう、ハンナ。体は大丈夫か?」


 柔らかな笑顔でアーチボルトはベッドの傍にまでそのワゴンを寄せる。

 彼はこんな表情をする男だったか。

 正直な所ハンナにはわからなかった。

 自分にこんな優しい顔を向けられることが初めてで。

 ハンナは姿勢を変えて、ベッドに腰掛けるように足を下ろす。

 腰が痛んだが、気にしないように視線を逸らした。

 意識を向けると昨夜のことを思い出してしまいそうだ。

 それはいけない、と無意識に抑え込む。

 何故なのか、も考えないように。


「喉が渇いただろう?」


 流れるようなしぐさで、水差しからコップに水を注ぎ、ハンナに手渡して来る。


「あ、ありが……」


「無理はするな。今日はゆっくり体を休めてほしい」


「は、い……」


 コップに口をつけて、喉を潤すと染み渡るようにコクコクと喉を鳴らして、あっという間に一杯を空にしてしまう。

 ほうっと息をつくと、アーチボルトがひょいっとコップを取り上げる。

 その時に手が触れあって、ハンナは不意に昨夜の熱を思い出して顔が熱くなるのを感じた。

 この気持ちは何だろう。


「そうそう、これからの予定だが……」


 もう一杯、水を注ぎながらアーチボルトは告げる。

 何だか真面目な話のようで、ハンナは緊張した。

 だいたい自分に告げられるのは決定事項だ。

 断ることなど考えたこともない。


「はい」


 だけど彼が告げた言葉は、ハンナの思考を停止させた。


「七日後にここから居を移すことにした」


「え?」


 住む場所を変える?

 そんなこと、生まれてこの方考えたこともなかった。

 この別棟で生涯を作業のように過ごすのだと思っていたのだから。


「まあ、詳しい話は食事の後にしよう。君の好みがわからないので適当に具材をパンで挟んでみたんだが……」


「だ、旦那様が作ったのですか……?」


 予想外の言葉にハンナは驚く。

 アーチボルトは伯爵家の子どもである。

 料理などするはずがないのに。


「アーチボルトだ。昨夜も散々教えただろう。……そこはおいおい君に呼んでもらうとして。そのサンドイッチは確かに俺が作った。何よりエルナン伯爵家は子だくさんで貧乏なものでね」


 元はアーチボルトの実家のエルナン伯爵家は豊かな農地を抱える、国の食物庫であったらしい。

 だが状況は変わる。例えば作物に不作をもたらす気候、または病、虫の害によって。

 事の起こりはハンナが生まれた頃、エルナン伯爵領で作物の根が腐るという奇病が流行り、大規模な不作となった。

 領地の主な収入源を断たれた伯爵家はこれまでの蓄えをつぎ込み、立て直しを図ったのだという。

 さらにはできる限りの出費を抑え込んだらしい。


「跡継ぎたる長子以外は分家もみんな使用人の真似事をしたり、身分を隠して他家に奉公に出たりしていたのさ。学園に通ってる間は別だがな。義父上には秘密だぞ」


「は……はあ……」


 給仕をアーチボルトが行っていることに違和感はあるものの、何となく理解はした。

 つまり、眠っている間にハンナを着替えさせたのも、シーツを換えたのもアーチボルトだったのだ。

 ハンナの常識を覆す事ばかり起きる。

 ため息をつきながら、ハンナは食事という作業に取り掛かるべく皿に手を伸ばした。


「……いただきます」


 いつものように、機械的に食べ物を口に運ぶ。

 サンドイッチを一口齧って、首を傾げた。

 いつもの食事と違う。

 味付けが違うのはもちろんだ。それとは違う何かが、ハンナに訴えかける。

 しっかりと味わって食べ物を噛みしめたのは、初めてだ。

 次の一口に移る前に、齧った部分をまじまじと観察する。

 葉物野菜とハムとチーズというシンプルな組み合わせ。

 それなのに、鮮烈な味がする。


「どうした? 口に合わなかったか?」


「いえ……初めての味だなと思いまして……」


「……そうか。ゆっくり食べるといい。俺は紅茶の準備をしてくる。何か好きな銘柄はあるか?」


 アーチボルトに何気なく訊ねられたことの意味が分からずに、思考が固まる。

 出された紅茶の産地など気にしたこともなく、味の違いなど知らなかった。


「……詳しくないので、わかりません」


 正直にハンナが告げるとアーチボルトはため息をこぼした。

 気に入らない回答だったかとハンナがひやっとすると、ハンナを安心させるかのようにアーチボルトは笑みを浮かべる。


「では俺が選んで来よう」


 アーチボルトはそう言って、退出する。

 残されたハンナは不思議に思いながら、新鮮な気持ちで食事という作業に向かい合うのだった。



 ***


 ハンナの食事が終わる頃に戻って来たアーチボルトは、手際よく彼女の前で紅茶を淹れだした。

 ハンナは無言でアーチボルトの手際を見ている。

 彼の選んだ茶葉がポットに入れられる。

 ポットにお湯を注がれていくのを、ハンナはじっと見つめた。

 無言のままだが、不思議と悪い気分ではなかった。

 いつもの侍女との生活では、奇妙な緊張感を強いられたというのに。


「とりあえず、今日の予定だが……夕方に君付きの侍女が来る」


「……それは、どういうことでしょう?」


「今朝、実家に遣いをだしてな。叔母に来てもらうことになった」


「旦那様の、叔母様……ですか?」


「ああ。叔母は家で侍女頭のようなことをしている。夫君を亡くしてからずっと家で采配を振るっていた。義父上の侍女では君の世話は行き届かんだろう。それに、七日後には住まいを移す。経験豊富な叔母がいてくれると俺も安心だ」


 時間をちらりと確認して、アーチボルトは茶器に出来上がった紅茶を注ぐ。

 立ち上る芳香は、やはり初めて感じるもので。

 ハンナはまるで夢の中にいるようなふわふわとした気持ちになり、差し出された茶器を受け取った。

 そしてアーチボルトはもう一組の茶器にも紅茶を注ぎ、ベッド脇の椅子に腰かけた。

 まるでこれから長い話をするかのように。


「君は俺が何故こんなことをするかわからないだろう?」


「はい。わかりません。どうして住む場所を移ることになったんですか? それに、いったいどこにそんな屋敷が……」


「場所については、王都内にある義父上の持つ別邸だ。義父上の許可は貰ったが、人の手配は俺の方でやるのが条件だ」


 いつの間にそんな話を取りまとめたのかわからないが、粛々と従うのはいつものことだ。

 元々ハンナの持ち物も少ないのだから、住まいを移すとしても手間はあまりない。

 婿入りしたばかりのアーチボルトなら、なおさらだろう。


「ここから移る理由だが、俺が落ち着かないからだな。何せ貧乏性の伯爵家出身なんだ。何もかも気が重い。君の食事を用意するのにも変な目で見られたわけだし」


 それはそうだろう。

 普通の貴族は食事の用意も、掃除も自分ではない誰かがやるものだ。

 本来は着替えも入浴も自分でやるものではないが、侯爵家ではハンナの世話は最低限。

 湯の用意はしてあるが、ハンナは一人で入浴したし、着替えも自分でこなせる。


「本当に、父が許可を出したんですか?」


「ああ。新婚気分を満喫したいと言うと快く許可を出してくれたよ。明日以降は叔母に君の必要な物を洗い出してもらって、買い物だな。別邸の方は実家で手の空いている者を何人か呼んで準備をする」


 紅茶を口にすると、香りと旨みとほんの微かな渋みを感じる。

 なるほど、紅茶には味があったのだと不思議なほどに納得した。


「必要な物、ですか? 私は別にこのままでも構いませんのに」


「いや、ダメだろう。君をその夜着に着替えさせたときに衣装を確認してみたが、君には似合っていない」


「そう、なんですか……?」


 アーチボルトが言うには、ドレスの型が流行から外れていること、ハンナぐらいの年頃の女性が着るには色が暗すぎるのだという。


「本当は君と歳が近い侍女を手配したいのだが、そちらは時間がかかりそうなんでな」


 ドレスも父が手配したものだけだ。

 社交界に出る予定もなく、社交的な会話術なども学んでいない。

 だから気の利いた言葉などひねり出せるはずもなく。

 アーチボルトの言葉にただひたすら頷くばかりだった。


 そしてその夕方、予告通りアーチボルトの叔母――ジェシカがやって来た。

 何故かもう一人、快活そうな女性を連れて。


「ごめん、アーチボルト兄さん! 職を失ったの! 母さんに人手がいるって聞いてお邪魔するわ! どうか雇ってちょうだい!」


「それは聞いてないぞ! どうなってるんだ!」


 アーチボルトが天を仰ぎ、心の内をぼやいた。

 それは正に嵐の予兆だった。

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