8.市井の勉強とハンナの乳母
ハンナは次にお茶会をした時に、こっそりとイリスにアーチボルトの悪夢について相談してみた。
実家でも変な悪夢を見たことがあるのではないかとハンナは思ったのだ。
しかし、ハンナが考えたようではなかった。
「お兄様が悪夢、ですか」
イリスは首を傾げた。思いがけないことを聞いたというかのように。
「実家にいた頃にはそのようなことはなかったと思うんですの。慣れないお仕事で疲れていらっしゃるのではないかしら?」
イリスは自分でも納得していないような表情で、そんな憶測を口にした。
「お義姉様は疲れて変な夢を見たりしませんか?」
イリスは心配そうにハンナに尋ねる。
アーチボルトが魘されるほどに変な夢を見るものだから、ハンナの事が心配になったのだろう。
「ええ。私は何にも」
ハンナはアーチボルトのように魘されるほどの悪夢を見た覚えはない。
何か変な夢を見たような気もするが、きっと気のせいだろうとハンナは軽く考えていた。
「それはよかったですわ。お義姉様には心安らかに過ごされている証左ですもの」
本当にそうだろうか。
ふと心に仄暗い影が差すかのようだった。
心安らかとは、一体どういう状態の事をいうのか。
ハンナは知らない。
父に放置され、半ば遺棄されて育ったハンナには今の環境こそが未知だ。
「お義姉様……?」
「いえ、少しぼうっとしてしまったようです。ところでイリス様はタイタリア様が苦手なようですが、どうしてです?」
イリスの声掛けに頭を振って思考を追いやり、ハンナはイリスに聞いてみた。
自分から訊ねるということを、侯爵家にいた時にしたことがなかったのだとハンナは気づいていない。
確実に彼女は変わっていっている。
ハンナの認識だけを置き去りにして。
「タイタリアは……」
イリスはさっと表情を曇らせて呟く。
「タイタリアはお兄様たちの乳姉弟というわけでもないのに、お兄様達と仲が良すぎだもの」
まだ淑女としては幼いイリスは頬を膨らませるかのように不満を漏らす。
やはりアーチボルトが推測した通りだったようだ。
「伯爵家のような貧乏貴族は別として、お義姉様にも乳母や乳姉妹はいたりしたのでしょう? どのような方かしら?」
イリスの無邪気な問いかけにハンナは答えられない。
ハンナは乳母を知らない。
「えっと……多分いたと思うのですけれど……」
彼女が生まれた後すぐに母親が亡くなったので、乳母に育てられたはずだ。
だけど、物心がついた時には傍には誰もいなかった。
「物心がつく前に職を辞したみたいですの。理由は誰も教えてくれませんでしたわ」
別棟に年かさの侍女が、ハンナの身の回りの世話をするだけ。
それも、思えば数年のことだった。
年かさの侍女がいなくなると、本棟からの通いの侍女が冷えた食事を持って来るだけ、最低限の掃除をするだけになっていった。
「あら、おかしいわ。お兄様ったらお義姉様の乳母に色々と教えて貰ったと言っていましたのに」
「え?」
それは本当に予想していなかった事で、ハンナは首を傾げた。
どうやってアーチボルトはハンナの乳母を探したのだろう。
「私、何も聞いていませんわ」
「あ、お兄様……内緒にしていたのね。ごめんなさいお義姉様。今のは忘れてくださいませ」
イリスは悪戯を思いついた時のように小さく笑う。
アーチボルトはハンナに秘密にして、何かを企んでいるのだ。
「そういえばお義姉様。お兄様が市井用の衣装をいくつか私たちの分を用意してくださいましたの。一緒に選びましょう」
イリスの提案にハンナは頷く。
居を移してから、様々な衣装が屋敷に運び込まれている。
これまでにいなかったハンナ付きの侍女達に衣装を選んでもらうのも、慣れた。
慣れてしまうと衣装を選ぶのも楽しく思う時もある。
「お義姉様にはこちらの衣装がよろしいですわね」
「イリス様は髪を結わずに、こちらの帽子を被られてはどうでしょう?」
女性同士の話は盛り上がる。
屋敷の主の思惑通りに。
***
「市井での振る舞いの勉強は進んでいるか?」
晩餐の時間。早めに帰って来たアーチボルトに尋ねられると、ハンナは首を傾ける。
自分では進んでいるかどうか非常に怪しいのだ。
元から兄達から市井の話を聞いていて素養のあったイリスとはわけが違う。
「どう、なのでしょう? 市井の事を全く知らない私では、タイタリア様の言うようにはうまく振る舞えなくて」
タイタリアの教えてくれる振る舞いは、ハンナにとって馴染みがなく少々恥ずかしい。
誰かを呼ぶときに『様づけ』をしてきたハンナには呼び捨てにするのもはしたなく感じて思いきれないのだ。
「そうか。市井で流行っている読み物でも用意してみようか」
「申し訳ありません。私が世間の事に疎いばかりに……」
「いや、普通の貴族の娘は市井の事なんて知らずに育つからな。無茶な事をしている自覚はある。こちらこそ、すまない」
二人で進める晩餐は、ハンナにとっては毎回が鮮やかだ。
誰かと共に在ること。温かい食事が提供されること。
その全てが侯爵家ではなかったことだった。
「いいえ。イリス様と衣装を選ぶのも大変趣深くありました」
貴族の纏う衣装より、簡素な飾りの衣装。
装飾品も素朴で、貴族からすると何の価値もないのかもしれない。
それでも、自分で装飾品を選ぶのも、誰かの装飾品を選ぶのも楽しかった。
思わず知らず、微笑んでいることにハンナは気づかなかった。
アーチボルトはそれを見ながら、どこか物憂げに微笑んでいた。
「そうそう、明日には新しい使用人が来ることになっている。君の乳母とその息子……君の乳兄妹だね。今は亡き義母上の従姉妹であったらしい」
アーチボルトの爆弾発言にハンナは戸惑ってしまった。
イリスとの会話のことを思い出す。
今まで、ハンナに隠していたのは一体どうして?
「その、君のことを色々と教えて貰っていたのだがね。屋敷に奉公に来てくれるかは散々渋っていてね。ようやく今回頷いてもらったんだ」
「あの……私、乳母の事を全く知りませんでした。気がついた時にはそのような人が侯爵家にはいなくて……」
ハンナのような上流貴族の子女は、乳母がまだもう少し共に過ごすのを知ったのは学園に入った時だ。
同じ乳で育った者が侍女や従者として付き従うことを知ったのも。
「君の乳母は事情があって、君が物心つく前に職を辞したそうだ。俺が訊ねた時も君の事を心配していたよ」
乳母の事情が何だったのか。
翌日、ハンナは乳母に会った時に知ることになる。
乳母であるリネットに出会った時、彼女こそが自分の母ではないかと思うほど、顔がよく似ていた。
そのリネットはハンナを抱きしめて涙ながらにこぼした。
「ああ……セシリー姉様によく似ているわ……。一人にしてごめんなさい……」
抱きしめるリネットの肩越しに、自分と同じ年ぐらいの従者が呆然とハンナを見ていた。
彼は、リネットに似ている。
つまり、ハンナと彼もよく似ていたのであった。
きっとこのまま仕えていたら、侯爵は事あるごとに彼を引合いに出し、『これが逆であったなら』と責め立てただろう。
何の罪もないハンナを。
それを見越したから早々にリネットは侯爵家から逃げたのだ。
ハンナを守る為に。
それを悟ることができたのは、やはりアーチボルトのおかげだろう。
「いいえ……いいえ。私は恨んではいませんわ。お会いできて……嬉しいのだと思います」
抱きしめてハンナの頭を撫でるリネットはハンナを解放すると、彼女の目を泣き笑いの表情で覗き込んだ。
「これから、息子ともども誠心誠意お仕えいたしますわ。お嬢様――いえ、奥様」
ここまでで主要人物は出揃いました。
次回、市井お出かけ編となります。
1/5ぐらいまで年末年始の為更新をお休みします。