第一章ー問いかけ・2
緑国では王都を中心に五つの街道が伸びている。
街道は要所への交通路として整備されたため街道沿いには観光の名所があり街道沿いは賑わうことになった。
三番街道の目玉となる観光と言えば言わずと知れた聖堂だ。
混迷の暗黒時代を切り拓いた8人の若者のひとり――初代国王が祀られている。
8つの国が建国されてから1600年を数えるがそれだけの月日を経てなお、初代国王への崇敬の念は色褪せない。人々にとって暗闇の時代に光を齎してくれた建国の王は心の礎だ。
土着の信仰は暗黒の時代を経てほとんど廃れてしまった。暗闇の中でこそ神という光が必要だが、希望を持つことが却って酷なこともある。それほどの絶望があったのだ。
聖堂には尼僧たちが仕えている。初代国王に国の安寧を祈り、日々の暮らしの恵みを感謝している。人々へはささやかなだが心の糧となるよう導き手の役を担っている。
尼僧たちは清貧を信条とし、中庭で薬草と作物を育てている。
聖堂は薬学に精通した尼僧たちが治療を施す場でもある。
尼僧たちは信心深く教養を身に着けた女性たちだ。なので、聖堂は貴族の令嬢を預かり女性を教育する側面もあった。聖堂で教育を受けることは誉れであり結婚する際に箔がつくため推奨されていた。いわば、花嫁修業の一環だったのだ。
けれど中にはそのまま世俗と関係を断ち、一生を聖堂で過ごす女性もいた。
彼女もそのひとりだ。
リュートが聖堂を訪れるのはそう珍しいことではなかった。信心深いわけでも聖堂の庇護を期待するわけでもなく――彼女に会うために赴くのだ。
他の尼僧たちも心得ているのでリュートの訪問を特別なこととしなかった。彼女たちはもちろんリュートの立場を知っていたが、寝食を共にする「姉妹」の家族だと認識していたので騒ぎ立てることなどしない。
「お帰りなさい、リュート君」
彼女はリュートの来訪を知ると控えめに微笑んだ。かつて彼女は華やかな色の服を身に纏い、兄の隣で幸せそうに屈託なく笑っていた。あの後、彼女が以前と同じ笑みを浮かべることは二度と、なかった。
「――ご無沙汰しております、冬衣義姉上」
リュートは昔と変わらぬ親愛を彼女に捧げ、礼を尽くした。
「……あの方は?」
お付きの三人は離れたところから主の様子を眺めていた。
ここで狼藉を働こうと言う不届き者はいないと知っているため護衛の通武羽も気楽に過ごしていた。
「あのひとは三基家のご令嬢で――リュートの兄の婚約者だ」
「えっ親王さまの婚約者が出家されたんですかっ!?」
尊い志だが女性としての栄誉を捨てる行為を実家は許さなかったのではないかと花楓が心配し始めると通武羽は手を振った。
「あぁ。正確には元、だな。――由良親王の婚約者だったんだよ」
「えっあの――由良親王の、ですか……」
花楓はそのまま絶句した。
名家のご令嬢で王子の婚約者が出家した理由が分かったからだ。
由良親王はリュートの長兄で、有能な人物だった。彼が王太子の地位に就いていることを誰も不服としないほどに。次代の王と目されていた由良だったがある日、あっけなく亡くなった。
早すぎる死を誰もが悼んだ。そして彼の死で空位となった皇太子の椅子を賭けて弟妹たちが争うことになったのだ。
結局決着がつかず国王が子供達に”試練”を出す運びになったが。
「じゃあ、あの方は……」
恋人に先立たれた冬衣を花楓は気の毒そうに見た。あんなに若く美しいのに出家したのも頷ける。
「由良親王と相思相愛の仲だった。政略結婚だったけど――馬が合ったんだな」
「気が合った、じゃなくてウマが合ったって言うところが都武羽さんらしいですね」
「チャチャを入れるなよ、詩紋。……まぁ、だから、由良親王が亡くなった後のあのひとの悲しみようは見れたもんじゃなかったよ。婚約中だったから寡婦ってわけじゃないけど気持ち的にはそうだったんだろうな。殿下に操を立てる、残りの人生は殿下が慈しんでいた民草に寄り添いたいって言って出家しちまったんだ」
「そうだったんですか……」
何と言ったものか。言葉にできない。ただただ痛ましくて花楓は顔を曇らせた。
「実家のご両親も反対したし、リュートも何回も説得しようとしたんだけどな。周りも結婚前なんだから次を探しても……って言ったんだけど冬衣さんは納得しなくてな。強行突破しちまったんだ」
「強行突破……ですか」
花楓は冬衣を一瞥した。淑やかで上品な貴族の令嬢に見える。彼女がそんな思い切ったことをするようには見えなかった。
「あれにはリュートも参ったみたいだったな。しばらく落ち込んでた」
お茶とお菓子をいただきながら聞く話の内容ではないのではないだろうかと花楓はソワソワしたが好奇心が勝った。
「リュート様が落ち込まれたんですか……」
意外だ。リュート人間関係は淡泊なものだった。生い立ちも関係しているのだろうがリュートの性質が穏やかで感情の起伏が激しい人ではないからかもしれない。
冷酷ではないが冷淡ではある。情はあるが深入りしないし、させない。それがリュートという人物だった。
「よほど思い入れがあったんですね」
「そうですね、尊敬する兄君の婚約者ですからだいぶ気に掛けていらっしゃいましたよ。由良殿下はリュート様の唯一の味方でしたし、冬衣さまとも親しくされていましたから。他のご兄姉よりも、ずっとね」
妾腹の子であるリュートが兄弟たちの中で微妙な立ち位置にいる。政治的に弱い立場にいるリュートは兄姉や父の妃たちから侮蔑されていた。兄姉たちの中で唯一、リュートに優しくしてくれた兄――それが由良だった。その重さを花楓は感じ取って神妙な顔で言った。
「……じゃあ、あの方は本当に、リュートさまにとってお姉さまのような存在なんですね」
「――そうだな」
小さく同意して都武羽は目を閉じた。言葉を封じ込めるようにして。
二人だけの席は談笑で盛り上がるというものではなかった。穏やかな時間が静かに降り積もる。
「お変わりはないですか?何かご不便はありませんか?義姉上」
自分を気遣うリュートに冬衣は小さく笑った。
「リュート君、いつもそればかりね。大丈夫よ、そんなに心配してくれなくても。みんないい人達ばかりだもの、困っていることなんてないわ」
「……そうですか」
「えぇ。それよりも、リュート君はどう?疲れていない?」
「いえ、そんなことは……」
「――いつもそうね、リュート君」
冬衣はコップに目を落として言った。
「え……」
冬衣の沈んだ様子にリュートは驚く。
「リュート君いつも、わたしのことばっかり気にして、わたしに心配もさせてくれないのね」
冬衣は寂しそうに笑った。
「義姉上……」
「リュート君は今も、そう呼んでくれるのに随分大きくなっちゃったわね」
「――――」
言葉もなく、リュートは瞳を伏せた。
「……リュート君、幾つになった?」
「16に、なりました」
「そう」
「……はじめて逢った時の兄上と同じ年になりました」
長兄とリュートは8つ違いだ。だからはじめて会った時にはもう、兄は大人の仲間入りを果たしていて。若いと言うのに大人顔負けの能力を示していた。
「でも、とても兄上には、敵いません」
あの頃の兄と同じ年になったと言うのに今の自分はその足元にも及ぼない。
兄は政務をこなし、社交をこなし、幼い弟のことも気に掛けて勉強や武術を教えてくれたというのに――リュートにその余裕はない。
「リュート君はしっかりやっているじゃない。……殿下と比べること、ないのよ」
「……ありがとう、ございます」
冬衣の言葉を慰めだと捉えたリュートは苦々しく思いながら礼を言った。
冬衣は聖堂に目をやってよく磨かれた窓の照り返しに目を細めた。
今日は秋にしては陽射しがキツい。綺麗な秋晴れで空には雲一つないが風が吹けば冷たい。もうそろそろ冬支度をしなければならない。
冬場の水仕事は辛い。凍てつくような水で窓を拭くのは大変だ。最初の年は慣れない水仕事で手を荒らしてしまってリュートにたいそう心配された。
「……綺麗な、手なのに――」
絞り出すような声は苦渋に満ちていた。かつての、貴族の娘で王太子の婚約者だった自分を知るリュートは冬衣の変わり様を嘆いた。
いつもリュートは冬衣を心配し、同情した。
それに自分は、甘えていたのだ。
かつての栄光を引き摺っていたと言われたら否定できない。
今となっては両親すら冬衣を見放した。冬衣の過去を知り、現状を嘆いてくれるのはリュートだけになった。
「ねえリュート君。もう、ココには来てはダメよ」
だからこそ冬衣はリュートを突き放す。優しく、押し返す。
あなたの居場所はここではない。こんなところにかかずらっている暇はあなたにはないのだと伝えたかった。
けどそれはできそうにないと驚いて言葉を失くすリュートを見て冬衣は察した。腹を括ってリュートの優しさを断たなければいけない。冬衣は唇を噛んで決心した。
「聞いたわ。リュート君、王太子候補の試練を受けるんでしょう?ココに来ている暇なんて本当はないでしょう?」
「それは――」
事実だ。けれどここで肯定することも、嘘をつくこともできなかったリュートは視線を滑らせて聖堂でここから一番近い部屋の窓を見た。側近たちはその部屋からこちらの様子を窺っていた。
その部屋にいるのは都武羽と花楓と詩紋だ。
都武羽はリュートの視線に気づくと右の掌をこちらに向けた。花楓は一礼し、詩紋はリュートの視線に気付かないといった様子で優雅に茶を啜っていた。
(――アイツか)
リュートは歯噛みした。
下界と隔絶されたこの聖堂で次代の王選びなんて俗な話題が冬衣の耳に入る筈がない。となればわざわざ注進した人間がいるのだ。
詩紋の思惑も見え透いていた。それを特段、咎めようとは思わないが。
(何で、よりにもよって冬衣義姉上なんだ!)
それだけは腹が立った。
表情は平静を保っているが仮面の下でリュートは詩紋を罵倒した。その有様を冬衣はつぶさに観察した。
王太子の妃にと望まれた彼女の観察眼は衰えていなかった。いずれ王になる男の后が、見目美しいだけの女に務まるはずがない。相応の教養と能力がなければならない。
その点、冬衣は合格だった。
「リュート君がわたしに言いたがらなかった理由は、解ってるつもりよ」
冷たさすら感じさせる平坦な声。多少、調子を和らげて冬衣は言った。リュートは我に返って冬衣の瞳を見た。
石楠花の君と冬衣は呼ばれていた。冬衣の瞳に似合うのは石楠花だと由良が言って手折った石楠花を髪に挿したからだ。
あの時の冬衣がいる――リュートはそう思った。
上質な絹を使った鮮やかな色の衣を身に纏うことも、生花を髪に挿すことも宝石で飾ってもいないのに。
白い繊手だったのに労働を知り、太陽の光にさらされた手は日に焼けて少し荒れていたけれど。そこに石楠花の君がいた。
「でもそれは許されないことでしょう。こんなところで油を売っているなんて――」
いいえ、と冬衣は首を振りより強い言葉でリュートを非難した。
「ここを逃げ場所にしないで。王になるかもしれないのに、わたしに甘えないで」
驚愕の色が無くなったリュートは冬衣の言に真摯に耳を傾け心の奥まで覗き込むような理知的な眼差しを冬衣に向けた。
似ているわ、と冬衣は心の中で嘆息した。
冬衣が愛した婚約者とリュートは面差しは似ていないが態度や仕草が似ていた。
父王に引き取られてから多くの時間を共に過ごしたのは由良親王だった。
リュートは自然、兄の立ち居振る舞いを模倣するようになり、褒められた。由良親王は最高の模範だったのだ。
由良をそっくりそのままなぞらえるリュートに冬衣の胸は熱くなった。
あんなことを言うのではなかった――。何度目かの後悔をした。
わたしが、こうさせてしまったんだ。
自分の罪に冬衣は慄いた。
わたしがあなたに呪いを植え付けてしまった。
わたしがあなたを縛り付けてしまった。由良殿下に。過去に――。
声が震えそうになる。けど、彼に涙を見せるわけにはいかない。そんなことをしたら自分自身を二度と許せなくなる。絶望的な予感がいかに甘美だったとしてもここで屈してはいけないと冬衣は自分に言い聞かせた。
「……もう、ココには来ないで、リュート君」
幼い子供に言い聞かせるように優しい声で――けれど否とは言わせない声の調子で、微笑みながら冬衣は喉から言葉を押し出した。
「――」
リュートが口を開いて、何か言おうとした。そこに冬衣は畳み込んだ。
「いい王さまになってね」
――あのひとの代わりにと言われた気がしてリュートは雷に打たれたような衝撃を受け、茫然自失となった後でゆっくりと首を縦に振った。
それからリュートは立ち上がって歩き始めると二度と冬衣を振り返らなかった。
遠ざかる少年の背中を冬衣は座ったまま見送った。
馬のいななきでリュートが従者を連れて聖堂から立ち去ったことを知るとそのまま机に突っ伏して誰に憚ることなく大声で泣いた。
これでもう、過去は戻って来ない。
安堵と寂寥が綯い交ぜになって苦しい。
誰一人として冬衣に何があったのかと聞いた人間はいなかった。
ただ時々誰かが隣に座ってくれたり無言で背中を撫でたりハーブティを置いて行ってくれた。
それが、ありがたかった。
三基冬衣……リュートの異母兄、由良親王の婚約者。
由良親王……リュートの異母兄。享年23歳。非の打ち所がない王子だった。多喜都の同母兄。