第弐話 神崎美麗
一日の暑さもピークを過ぎ、だんだん陽が落ちて涼しくなり始める頃、直巳は喉の乾きを覚え、目を覚ました。
久しぶりの長時間睡眠を取れたにもかかわらず、酷い、それこそ考え得る限りで最悪の悪夢を見たせいか、寝覚めの気分は最低だ。
そんな気分を拭い去るように、直巳は己の顔を撫でた。時間帯が時間帯なのでかなり汗をかいていたが、その時直巳の手が少し濡れたのは、汗のためだけでは無かった。
大の大人が...と言う人もあるだろう。しかし、直巳は恥ずかしいことだとは思わなかった。むしろ、この想いこそ恥ずかしくて、とても人には言えないようなものだが、あいつのためなら泣ける自分がいるのだと、自分の深層心理を知れたようで、悪い気はしない。
そんな、最悪でいて悪くはないという、奇妙な気持ちになりつつ、布団を剥がし、上半身を起こす。そして、直巳はあることに気がついた。
(...あれ?俺の家って煎餅布団じゃなくね?そもそも、俺は昨日家に帰ってなくね?)
昨日は家に帰っていないので、神社でコーヒーを飲むところから夢だと思っていた直巳としては、自分がデスクに突っ伏して寝ているわけではなく、煎餅布団でまともに寝ているらしいことに困惑する。
キョロキョロとあたりを見回すと、どうやら自分が今いるのは和室であるらしいことが分かった。
和室と言っても、床の間も、書院も、違い棚もなく、押し入れのようなものしかない立方体の空間で、ただ畳が敷いてあることから、和室と勝手に判断しただけだ。
その和室は向かい合う二方が壁になっており、残る二方のうちの一方は襖で、もう一方は障子によって隣接する部屋ないし外部と区切られているため、この部屋以外の状況を窺い知ることは出来ない。
しかし、黄昏色の太陽光線が、障子によって大幅に軽減されつつもこの部屋に差し込んでいるあたり、現在時刻が夕方であるのだろうことはわかる。
(うん。...え?あれ?あれは...夢じゃなかった...?...のか?)
そう言いながらなんの躊躇いもなく胸を触る直巳。やはり胸部が膨らんでいる。股間を触ることにはなんとなく抵抗があったので、意識だけそちらに向けてみるが、本来あったはずの感触がない。
体が女になって、なにかしら精神が変化したからか、それとも自分の体だからか、少しも性的な感情は湧かない。
だが、焦りの感情だけは変わることなく湧いてくる。
これが夢じゃないということは、何故か、しかし確実に自分は女になっているという訳だ。
これが夢じゃないということは、さっき見た妖怪は本物だったという訳だ。
これが夢じゃないということは...だ。俺は、あいつに殺意をもって殺されかけたという訳だ。
「そんな、馬鹿な...。ありえるか...?いや、ありえない...?そうだ...な。...そうだ!その通り!ありえるはずがない!!」
脳の容量がオーバーし、抑えようとしても抑えきれない気持ちを、床に拳をたたきつけるとともに、声として発してしまう。だが、そんなことはどうでもいい。今の状況に比べれば、ただ一疋の微生物の死よりも、無価値なものだ。
そして、この状況を理解しようと、直巳は必死に思考をまとめようとする。だが、上手く思考をまとめることが出来ない。まるで、ある程度までは思考をまとめることができても、最後までは決して行き着くことができない。ゆえに無意味だ、と最初から悟っているかのように。
それから、直巳が大声で叫んで暫く―30秒程だろうか―経つと、騒がしい足音ともに凄まじい勢いで襖が開けられた。
襖が破壊されそうな勢いで開けた人物は、どこかで見覚えのある金髪の巫女姿の人物だった。
(こいつ、確かどこかで...。...ッ!さっきのやつか!)
凄まじい混乱で吐きそうな気分だが、直巳の記憶が正しければ、この人物は先ほど、妖怪と一緒にいたはずの金髪の巫女である。
妖怪の仲間か、そう身構える直巳に対し、金髪の巫女は少し安心したかのように直巳に近づいてくる。
「あ、起きたみたいね...よかったぁ」
本気で心配してくれていたらしい声音と共に崩れるようにし、直巳抱きついてくる金髪巫女装束の女性―美麗。
生まれてこの方、女子に抱きつかれたことのない直巳は「う...あ...わ...」と謎の奇声を上げながら、されるがままに、しばし体を委ねる。
だが
「...ち、ちょっと、苦し...い」
見た目からは想像もできない力で、美麗は抱きついてくる。
自分が男の時でも骨が折れそうな力だが、今の体では、肋骨が折れて肺や他の内臓に刺さるんじゃないかと本気で思うほどで、長く耐えられるものでは無いため、ヘルプを出す。
その声がどうやら届いたらしく、ハッとした表情を浮かべ、美麗は急いで拘束を解いた。
「ゲホッゴホッ...」
「あっ!ご、ごめんね!もしこのまま意識が戻らなかったら、どうしようかと思って...」
少し涙目になりながら謝る美麗。一瞬ドキッとしたが、妖怪の仲間かもしれないのだ。今はまだ心を許しては行けない相手、と気を引き締める。
しかし、友好的に接触したいという意味でも、身体能力的に明らかに格上の相手に喧嘩を売りたくないという意味でも、わざわざ威圧的に出たいとは思わない。ここはとりあえず、穏便な受け答えをするべきだと直巳は判断する。
「いえいえ...わざとじゃないならいいんですよ 。それで、その、ここはどこですか?あ、ちなみに私の名前は草苅直巳と言います」
混乱しているが故に、奇妙な状況でも、業務上日常的に行っている、単調な動作で直巳が名乗ると、美麗は口の中で直巳の名前を何度か繰り返す。察するに、珍しい名前なので口の中で反復しているということだろうか。
暫くそれを繰り返すと、自分の紹介がまだだったということを思い出したように、美麗は自己紹介を始めた。
「直巳、直巳かぁ...。あっ、私の名前は美麗。神崎美麗、よろしくね。あなたがどうなったのか、大体想像がついてるから、説明は任せて!」
そう言って、直巳が寝かされていた布団の傍に正座で座り込み、事の顛末をつぶさに説明してくれる美麗。
まず、自分はこの神社の巫女兼神主であること。この世界は直巳がいた世界とは全くの別であること。直巳がここに居るのは美麗が死後の世界の住人である鬼を召喚しようとしたが、死後の世界にいる誰が召喚されるかまではランダムのため、直巳が選ばれたこと。
そして、この世界は誰かを召喚することはできるが、送り返すことは出来ない。故に、今のところ直巳が元の世界ーもう死んでいるので、元の世界は死後の世界になるわけだがーに戻る方法はない事が説明された。
要するに、鬼と間違えて直巳を召喚したけど、この世界から元の世界には戻れないよ、ということらしい。
異世界に来た。普通であれば驚くべきことだが、直巳は特に驚きはしなかった。なぜなら、筋は通っているからだ。
むしろ、元の世界には妖怪がいて、臨死体験をしたから妖怪が見えるようになりました、などと言われる方が直巳は驚きいただろう。正直、そんな謎の能力を手に入れて生き辛くなるよりは、異世界に来たからだという方が幾分かマシだ。
しかし、それは直巳が殺されたことも肯定するものであり、筋は通っていても、簡単には受け入れられない。
だが、受け入れる受け入れないは別として、ここは話を信じる体で話さなければならない。そうでもしなければ、何も進展しない。
「なるほど、だいたいわかりました。えっと...いくつか質問してもいいですか?」
先程の美麗の説明で、ある程度落ち着くことのできた直巳は、まだ残る疑問を聞き出すための許可を求めた。
別に聞かなくても死にはしない訳だが、こういったことは聞ける時に聞いておきたい。
「うんうん、いいよいいよ。私の責任でこうなっちゃったんだから、いくらでも質問に答えるよ」
恐る恐る質問する直巳と堂々とした美麗。普通逆じゃないか、と直巳は思うが、善人なので口には出さない。
「えっと...まず、なんで私は女になってるんですか?」
正直なところ、これは優先度の低い質問だ。だが、幾つかある質問の中でも、単純な質問という意味では随一で、会話が苦手な直巳にとって、会話を始めるきっかけとしては最も適した質問である。というか、普通に気になる。
だが、その返答は、直巳の望むものではなかった。
「え...え?何?もしかして元々男だったの?」
直巳の質問に、すこし素っ頓狂な声を出す美麗。表情も不思議なものを見るような感じになっている。
それが意味するところは、つまり何を言っているのかわからない、ということだろうか。実際、直巳が男だったと知らなければ何を言っているのかわからないだろうが。
「いや、まあ...多分」
それに対し、少し弱々しく返事をする直巳。
多分ではなく絶対にそうだ。
しかしよく考えてみれば、あまりに現実離れした発言に、自信をなくす直巳。この状況自体現実離れしているが、それを加えても男が女になるなど、全くの意味不明だ。
「んー、わからない...かな。アハハ」
結局、直巳の質問を作り笑いで美麗は誤魔化した。
そして、少しの間が開く。どうやら、美麗はこれ以上この質問に対し答える気は無いらしい。
「わからない...?それでは困るんです。男女では勝手が違いますからね。なにか心当たりはありませんか?」
そう言ってなんとか理由を聞き出そうとする直巳。
そもそも、最初に聞いた時点でパッとでていないので、明確な理由が完全にないだろうことは既に直巳にもわかっている。
しかしそれでも、この場面で、そうですかと認めてしまえば、その程度で納得する奴だと思われ、この以後の質問もこのように躱されてしまう恐れがある。
なので、不毛なことだとは重々承知しながらも、最初の質問にはしつこく追求する姿勢を示す必要がある。そう直巳は弁護士という職務で得た経験から判断した。