【9】
“楽しい村”は、“楽しかった村だった廃墟”、になった。
戦争だから仕方ないと云える日が来るのだろうか。それまで生きていられるのだろうか。
死んで良い人間とは誰で、死ぬべきだった人間とは誰なのか。その区別は誰がするのか。
「……ひょっとして、待っていてくださったのですか?」
「ええ、あんたはここに来る、そこまでは予想できていたからね」
炭化した教会を椅子代わり――かつてゼガ記が放置されていた教会だ――に、リリはシュミットと相対していた。
思い出を燃料にして燃え上がったような村へ、シュミット独佐は荘厳なまでにキッチリとプレスされた軍服で現れていた。
腰のホルスターには拳銃が入っているが、部下も連れずに現れた男は吸血鬼相手に、ただ、美しい少女を口説くだけといった気安さで声を掛けていた。
「確か、リリ・ヴェイル・ジヌス、さんですね?」
「――ええ。それもゼガ記で“読んだ”のね」
「正に。あなたがご存じなのは吸血鬼の超感覚というヤツですか。答え合わせをしましょう。お互いのために……生き残った方には、やることが有りますから」
クリストフはパパっと煤を払ってリリの隣に座ろうとしたが、当人は腰を浮かして距離を取った。
リリの方は汚れた瓦礫の上にそのまま腰を下ろす。お前の隣に座るよりマシだと云わんばかりに。
「そうね。まずクリストフが持っていた本。人肌の本……あれは……ゼガ記ね」
「別名をアブラハムの書、ネクロノミコン、クラヴィクラ・レメゲトン……様々な伝承として伝えられるものですね。ギガス写本やヴィオニッチ手稿のようにこれのコピーも多く見受けられますからね」
「いくつかはその通りだけど、それ以外はただの伝説よ」
「だとしても素晴らしいでしょう。その書物は全てが同じ内容であり、異なる本である。ゼガ記! 最高の魔道書にして最高の学術書にして最高に下らない一冊の小説」
「ゼガ記は読み手の願いをページ数の許す限り、正確に表記する。欲の本。クズが欲しがりそうなものね」
「本にでもなる、正に! どんな本にでも、なりますね!」
哄笑めいたシュミットの言葉に、リリはクリストフが多くの遊びを知っていたことを思い出していた。
単純なカード遊びから、中にはシャボン玉のように見知っていなければ教えることもできないようなものもあった。
彼の両親も知らないような遊びであり、クリストフは限られたページ数、限られた望みの中で子供たちを笑顔にする方法を求めた。だからページ数の多くを子供の遊びに割いていた。
持病のせいかもしれないが、自分の弱さを知っているからこそ誰かに優しくできる男だった。人の笑顔のために、頑張れる男だった。
そのクリストフは死んだ。リリが吸血鬼という不完全な死体にしてみせ、このシュミットによって完全なる死体へと変えられた。
「ゼガ記はひとりの求める知識をページに刻み、その役割を終える! では一人しか知りたいことを知ることはできないのか! 違う! そう! 私は知っている!」
「ゼガ記で知りたい知識を得ると、呪いが掛かるわ」
「呪い!? 祝福でしょう! ゼガ記を読んだ死骸を新たなる白紙のゼガ記へと変える! ゼガ記によって知識を得た人間は代償として次なるゼガ記に身を窶す! 連綿として受け継がれる真理の扉! 次なる権利は私が! 得た!」
吸血鬼であるリリと、その下僕であるクリストフ。血の眷属、文字通りの血族である以上、彼の身に起きたことは、どれだけの距離があろうと理解できる。
意識が切れた途端、クリストフの骨と肉は紙のように絡み合い、縮んだ白い皮膚は装丁として纏まった。
クリストフが手に入れたゼガ記は振れると人肌の暖かみが有ったが、シュミットの得たものは冷たく死体のようだった。
それがクリストフが体温のない吸血鬼として死んだからか、それとも冷血漢のシュミットが手に入れたことによるのか、誰にも分からない。
「……ねえ、聞いて良い?」
「どうぞ。なんなりと」
「クリストフは……あんたのゼガ記はどこにあるの? 一応、墓に入れてやりたいんだけど」
「それは私を殺してから私が変わったゼガ記を読めば分かるのでは? あなたの知りたいことは全て書いて有りますよ。私の知りたいことも、全て書いて有りましたからね」
「あれを読む気はないわ。あの本は……“本当の目的”を質問できそうにないしね」
「書いて有りましたね。それも。ゼガ記は“本当の目的”を知りたい人間が手にすれば、それを叶えられる。だが……それ以上に叶えたい願いが少しでも有れば、その願いでページが埋まってしまう。未だかつて、本当の目的を読んだ人間は居ない……と」
シュミットだけでなく、多くの人間はゼガ記とは一体何なのかと疑問を持ち、その疑問の答えを数ページを使って求める。
誰もがゼガ記の“本当の目的”を知っているが、それ以上の欲望が有る限り、人間はゼガ記の本当の文章を読むことはない。
その“本当の目的”は、ゼガ記の全てのページ数を必要とするため、それを知れば他の願いは叶えられない。
「あたしは、あんたの皮で装丁された本なんて触りたくも無いわ」
「あー……なるほど。合点が行きますね。それでクリストフさんが変身したゼガ記を手に入れるには私が喋らないといけない、と……なるほど……」
突然、暗くなった。分厚い雲が流れてきたようだった。
闇で生きるリリにとってはどんな暗がりも明るく見えるが、風も無いのに起きたその変化に、リリは空を振り仰いだ。
鏡のように空の青さと、リリの驚愕の表情を写す鉄の塊。
空に浮いているのに翼を持たず、クラゲのように漂う、丸い円盤。
どのように離着陸するのかは分からないが、その底が抜け、いくつかの影が飛び降りてきた。
「ゼガ記には! 我が鉄星帝国が! 最も合理的に! 世界を征服できる方法が記されていましたよ!
無音で飛ぶ無翼円盤! 不老不死の人間の造り方! そう! 我らが総統を時間なんぞという下らない枷から解き放つ方法!」
円盤からは、五つの人影が落下した。
その内のひとつは翼を持ち空に浮かび、残る四つもことごとく人間とは思えない容貌をしていた。
「紹介しましょう! 彼らはゼガ記クリストフがもたらした技術によって改造された、我が鉄の五人!
クリストフくんには感謝しなければなりません! 戦う術を求め! 吸血鬼になるなんぞという下策を選択し! 我が鉄星帝国の元にゼガ記をその命と共に捧げてくれたのですから!
死してなお! 我が鉄星帝国のために生きる! 敵国民ではありますが、名誉勲章のひとつでも与えたいほどです!」
平和を望んだクリストフ、そのために人間であることを捨てたクリストフ。
その彼の死を、更なる大量の殺戮の礎たらしめんとするシュミットの言葉に、リリは怒りと殺意を示し――それ以上の激情を現したのが、妹のルルだった。
「……殺すッ!」
教会のがれきに隠れて機を伺うというリリとの打ち合わせを無視し、ルルは怒りのままに修羅のような怒りで立ち上がっている。
その怒りに応え、何も無い空間に突如として彫像が現れた。
騎士のようだが、その手には馬上槍と盾ではなく機関砲を抱え、他にも多くの重火器を肩や腰、はてはスネにまで備え付けている。
彫像は、重厚に、それでいてなめらかに銃口をシュミットとその仲間たちに向けていた。
「なるほど、吸血鬼の妹君、その超能力、というわけですか……!」
「弾丸よ踊れ、我が歌のように」
ルルのつぶやきに、彫像の全身に備え付けられた火器が火を噴いた。
――吸血鬼姉妹と、鉄星帝国に戦いの幕は、こうして切って落とされた。
リリとルルの巻き起こす超常は、多くの鉄星帝国軍人を血祭りにあげていったが、その物語は、暗く、深い闇へと通じていた。
人類がかつて経験したことのない最大の戦争、二度目の世界大戦の戦火は烈々と広がっていく。
その裏で、吸血鬼姉妹と鉄星帝国との戦いは、こうして始まった。
鉄星帝国に関しては、別作品・虚海西遊記をご覧ください。
構成の関係で別作品になっていますが、リリ・ルルもこちらで登場します。
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