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【6】

「ルルちゃん……今日は嫌なことが起きるよ、気を付けて……ヒッヒッヒ……」


 部屋の暗がり、老婆はしわがれた声で囁いた。まるで呪文のようだった。

 大仰で思念のようなものの圧を感じる言葉で、それを聞いたルルは……ふう、とため息を吐いた。


「……メリッサさん、今日って云っても……もう夜の一〇時ですケド……」

「あと二時間、頑張ってね! ルルちゃん!」


 それは占い師をしていたメリッサ婆さんがルルに会う度に云う口癖のようになっている。

 メリッサ婆さんは三年前に急に倒れて――今の言葉で云うなら、くも膜下出血――。

 今はほがらかな老婦人という風だが、脳出血の後遺症で夜になると混乱して物を投げたりすることがあり、こうしてルルが往診に回っている。

 ただ、なんというか、そういった症状は医者が来る日は落ち着いているのが常だったりする。

 いつもは興奮しだす時間にも落ち着いており、メリッサ婆さんはルルの瞳を覗き込み、今日の運勢を占ってくれる。

 いつも同じ、ルルに今日一日は気を抜いてはいけないという占い。


「今日が終わるまで、気を抜いちゃいけない。私は手伝えないけど……頑張るんだよ。最近は第三帝国の情勢も不思議だし……ラジオ、聞いて行く?」

「お気持ちだけで嬉しいです。メリッサさん」

「私も手伝ってあげたいけど……齢は取りたくないね。身体が付いてかない……本当に気を付けてね」


 ここまでがメリッサ婆さんの占い。基本形。

 婆さんの家族もそれを見てスイマセンと頭を下げるが、ルルの方もお気になさらず、と和やかに帰路に着いた。

 会うたびに同じことを云われても、ルルとしては一晩、ご家族が楽しく休めるならそれで良い。


 今日も一日、頑張った。

 そんな思いでルルは歩く。馬車が踏みしめて重なったわだちが作った道を、ランタンが照らす。

 悪いことなんて起きようがない、あとは帰って眠るだけ。

 ルルの目は、“純血”のリリに比べれば夜目が利かないが、今晩のように満月が出ているときならば、ランタンが無くとも問題なく歩くことが出来る。

 怖いほど美しく、怖いほど赤い満月に導かれた帰路は、実際の時間よりずっと近く感じた。


「……あら、クリストフのバイク……?」


 ルルはまたクリストフの酷い発作が起きたかと思ったが、思い直した。

 発作が起きたならば自分でバイクを運転することはできないだろう。父親の馬車か何かに乗せられてくるはずだ。

 ならば、なぜか? ルルは回答を保留して、跳ねた襟足を手櫛で梳かす。

 いつも仕事中しか会わないので洒落た格好をしていることの方が少ないが、それでも無意識に、梳かした。

 クリストフに会えるということに疲れを忘れたが、疲れが抜けた先には衝撃が待っていた。



 ドアを開け、玄関に差し掛かったまま、時が止まった。



 クリストフはひざまづき、リリの素足に沿わせるように、キスをしていた。

 意味を理解したとき、ルルはただ震えた。それが情事であるならばまだ良い、それは色恋沙汰ですらない、生き死にの沙汰なのだ。

 それが愛撫だとしたら男と女の話。だがそれは盟約、下僕と主人の話だ。


「……どういう、こと……!? これ……!?」

「ああ、ルル……お帰り……リリを責めないでくれ……全ては俺が決めたことだから……」


 リリのすねから唇を離したクリストフは、赤い目をルルに向けた。

 血走っているという段階ではない。宝石のようにではない、太陽のようにでもない。血のように白目が赤に染まり、黒目はそれ以上に鮮烈な赤を湛えている。

 クリストフは、リリやルルの“眷属”になったのだ。


「どうして、どうしてなの、どうして、クリストフが……!?」

「“俺がなぜこんな選択をしたか”かな、それとも“俺がどうして眷属のことを知っていたか”かな。

 前者を答えるなら、これだな」


 クリストフが以前より白い指で懐から取り出したのは一枚の、とても薄っぺらい紙切れ。

 小難しい文言が記されたそれは、国旗と、そして軍隊のマークが付いていた。


「入隊許可が下りた。喘息持ちでも軍隊に入れるほどに戦場が差し迫ってるってことだ」


 冷徹なまでのクリストフの肩越しに、ルルはリリを睨んだ。

 敵意とも憎悪とも、本人にもわからない赤黒い感情を纏わせた視線で。

 しかしながらリリも怯む様子もなく、やはり冷徹に、言葉を選んだ。


「……あたしは訊いたわよ? ルルを泣かせる気か、って。そしたら」

「第三帝国に踏みにじられるくらいなら、俺がルルを不幸に出来る方がいいって頼み込んだんだ。

 これで俺は戦える。もう苦しくないんだ! 呼吸をしても引っ掛からないし、呼吸をしなくても苦しくない!」


 クリストフは赤い瞳を剥き、熱い語調とは裏腹な、冷たい、凍てるような息を吐いていた。

 そしてルルにはもうひとつの疑問が残っていた。どうして眷属になったかではない、どうして自分たち姉妹のことをしっていたか、だ。

 そのことについては、リリが答えた、というより、リリが持っている本がルルの視界に入ったことで回答になった。

 嫌悪感だけを撫でさせるような人肌に似た表紙、正にゼガ記。

 忌々しく、心の繊細な部分をヤスリのようにこする存在。かつて母親の死因を作ることとなった魔導書だった。


「……どうして、それが、あるの……!? あのとき、その本は燃やしたはずよ!」

「――あれとは別物よ。書いて有ることが全然違うわ。あのときは母さんが自殺する方法が書いて有ったけど……これには、シャボン玉の作り方とか、私たちが()()()だってことが書いて有るわ。魔女じゃなくて、ね」


「その本がなんなのか、俺にはどうでもよかった。

 俺にとって重要だったのは吸血鬼になりさえすれば……原種のヴァンパイアであるリリに受け入れてもらえさえすれば、俺も国のために戦える戦士になれる、それだけだった」

「そんな理由で……なんで、相談してくれなかったの……!?」

「――相談は何回もしただろ? どうすれば戦えるか、ちょっと走っただけで死に掛ける干乾びた身体でどうにかしたいって。

 国を守りたい、君を……ルルを守れる、リリみたいに強い男になりたい、って、気付かなかったかい?」


 時計の音だけが妙に煩かった。

 壁に掛けの鳩時計、そしてルルのポケットに入った懐中時計の歯車が噛みあう感触、どちらも、とても、煩かった。

 屠畜とちくのような死に抗うことすらないような、冷たく血走った目。クリストフは人間ではなかった。

 もし人間だとしたら、戦争という狂気を受容しようとするこの時代に過剰適応した、姿だった。


「俺は、今も変わらず俺だよ、ルル」

「……分かってる」

「君の美しさ、気高さ、あとちょっと天然入ってるところ、全部忘れてない」

「……うん」

「ああ、寒いんだ。熱がないみたいだ」

「寒くて、辛い?」

「……辛いとも思えないんだ。

 今まで君を思うだけで熱くなっていた胸が寒いんだ。

 まるで身体の中が空っぽで、マトリョーシカみたいなんだ。自分の中の自分が居なくなったんだ」

「……うん」


 人間は不完全な死体として生まれ、死ぬことによって完全な死体となる。

 そして、吸血鬼は不完全な生き物である人間が、完全な死体となった先に現れる。


 リリとルルは魔女と名乗り、その力を振るう姉妹。

 しかし、違うのだ。もしも聖人と名乗って奇跡を起こせば調査もされる。しかし、魔女と名乗り奇跡を起こせば、それは以上言及されることはない。

 誰しもが、魔女とは思えない光輝なるものとして扱う。その実は魔女以上に深淵に住まう存在だとしても。


 真祖であり竜神であった吸血鬼の母を殺害し、その無限に等しい生命を引き継いだ姉、リリ・ヴェイル・ジヌス。

 愛ゆえの過ちか、打算の末の交合か、最期まで母が明かさなかったことで人間の男を父として持つ半吸血姫ダンピーラ、ルル・ヴェイル・ジヌス。


 ふたりの永すぎる旅、魔女を名乗って続けていた平穏な生活は崩れ去った。

 ゼガ記とひとりの善良すぎる青年の死という小さな揺れが、彼女たちの運命の激流を地割れのように逸らした。

 護国の吸血鬼、クリストフという怪物が現出していた。



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