【5】
魔女と呼ばれていたリリは、蒼い火焔のようだった。
リリの体温は死体と同じ。冷たく深く、それでいて何者も寄せ付けない身体。
既に二時間。汗を掻くことも息を荒らげることもなく、両足に鉛入りの頭陀袋を巻いた片手倒立腕立て伏せは、途方もない回数になっていた。
蒼い火焔のようだった。
冷気を思わせる彼女は、その実、全てを焼き滅ぼすだけの力を瞳の中に据えている。
彼女の膨大な魔力を振るうに値する標的は、そうは多くない。
しかしながら、リリが永劫のときを刻むなら、必ずやどこかで出会う。出会うはずだと彼女はいつも思案する。
かつて多くの魔女が狩り尽くされたように自分にも死をもたらす者が現れる。
蒼い火焔のようなリリは自らに問う。
本当に? もしかしたら、いつの間にか自分は地上最強の怪物で、何者も滅ぼすことはできないのではないだろうか。
彼女の物理的な戦力が、個の生物が持ちうる限界を超越しようとしているのは確かだったが、それでも、彼女は更に自分の強さを磨く。
倒され眠ることを望みつつ自分以外の【眠ろうとする者】たちを眠らせるために。
ドアが開いた。
それ自体は珍しくはない。病院を兼ねているリリとルルの自宅は、どんな時間であっても急患がやって来るからだ。
だが、慌てるそぶりも無く、たったひとりの男がノックもせずに入って来ることは、珍しい事態だった。
とはいえ、リリは気にも留めない。
妹のボーイフレンドに構う時間は有るが、その時間を使うほど人間が好きでも、好奇心旺盛でもない。
「……あなたに話があるんだ。リリさん。」
「だったら帰りなさい。私には無いから」
クリストフが床に放り投げた本は、ちょうどリリが倒立腕立て伏せをする視界に滑って入る。
人肌で製本されているゼガ記には、リリといえど目を奪われた。
その狂気を感じる装丁ではなかった。その本は、この地上には存在しないと思っていた本だからだ。
なぜなら、自分が母親を殺したときに――確かに失われたはずだから。
リリはバネ仕掛けのオモチャが弾けるように倒立の体勢から起き上がり、猫のように着地する。
クリストフとすぅ、っとなぞるように瞳を細めた。
「あんた……! この本を、どこで!?」
「そんなことは関係ない。僕に関係があるのは、あなたが僕の命令を聞いてくれるだろうか、ということだけだ」
クリストフは、その本以上に異常だった。
ねじくれた老木の表面に浮かぶ樹洞めいた、狂喜の化身がそこに居た。
喘息とは違う呼吸の荒さは、背中に穴が開いてその余った肉が全て血になり、眼球に集まっているようですらある。
「あたしが、あんたの命令を、聞く? バカじゃないの? あんたは……!」
骨が折れる鈍い音がした。
クリストフがその血走った瞳をリリの瞳と無限の合わせ鏡にし、詰め寄って壁に腕を叩き付け、彼の手骨が折れた。
病弱な好青年とは全く違う、常軌を逸した彼は、自分の身体と壁でリリを挟み込み、そのまま押し潰そうとしているかのようだった。
「リリさん、俺を……あなたの『下僕』にしてくれ」