【3】
「あげるよ、やってみな」
子供たちにクリストフが手渡した端の欠けたカップには、穴の開いたスプーン型のハリガネが添えられ、洗濯糊を溶いた石鹸水が満ちていた。
当のクリストフはそれで遊べというつもりだったが、子供たちが互いに見詰めあう逡巡の後、結論としてカップを傾けて飲もうとしたので、クリストフは慌てて止めた。
そして、訝しげな子供たちの前で、手品師のような手つきで、浸していたハリガネを引き抜き、振ってみせた。
石鹸水はハリガネに巻き付けられていた毛糸から空中に踊った。
空中での石鹸水は表面張力によって球になろうとするが、微細な風や温度の影響を受け、楕円のゴムマリのように空間を跳ね、日光によってプリズム反射する。
シャボン玉。
子供たちは、初めて見るその現象を見上げ、再びクリストフからカップを託されるのを待った。
せっけんの膜は子供たちの歓呼に押されるように、空へと向かう。
第三帝国とは国交が芳しくなく、危機感に乾いた村の中、クリストフは“奇妙な書物”の中にシャボン玉に関する記述を見つけた。
子供たちが走り回り、感動に触れられる。子供たちの初めてに立ち会うたび、胸が躍る。
飛び立つシャボン玉を見守る子供たちと同じように、輝く子供たちを見守るとき、クリストフの心は重さを忘れていた。
「すっげー! クリストフの兄ちゃん、これ、どうやったんだ?」
「ん。洗濯糊と石鹸を溶かしただけ。町中や外国では割とポピュラーらしい。本に載ってたんだよ」
誰かの笑顔に接するのが好きだった。
複雑な理屈ではなく、自分が呼吸も出来ない程に苦しんだからこそ、誰かに笑っていて欲しい。
しかしながら、複雑な理屈も無くとも笑顔が脅かされようとされるのが現実というもので、クリストフは自分に平和を守る力が無いと思うと、飲み下した唾が嫌らしいほどに脂ぎり、吐き気を覚える。
できることをすれば良いとルルや家族は諭すが、それに納得できるわけではない。
五年前、この村に来た最初の日、列車の中でクリストフ一家はリリとルル姉妹に救われた。
ルルには発作を抑えて救われ、リリには食って掛かってきた第三帝国軍人の嫌がらせから。
そのとき、ルルの儚げな面差しに目を惹かれて恋に落ちたが、少年の憧憬を向けたのはリリの方だった。
生来の喘息で走ることもままならない自身を責めるクリストフにとって、家族を守る強さを尊ぶのも、無理からぬことではあったのだが。
近く遠い姉妹への尽きない憧れに追いつくことはできないだろう。
だが、その切っ掛けのようなもの、それが人の皮膚のような“奇妙な本”だった。
シャボン玉の作り方や生活の知恵のような物まで載っているが、古めかしいアルファベットでリリやルルのことも記されている。
共通点が分からないままでも、クリストフはこの本を引き続けた。
役立つのだ。何気なく引いているだけで、ふと視線が止まる。目を惹かれて止まってしまう。
子供たちを笑顔にする手段を探しているとき、はしゃぐ子供の挿絵と共にシャボン玉の作り方が描かれている。
ルルを慕い、リリのことを考えれば、ふたりの挿絵が有った。
まるで自分のために描かれた魔法の本。科学隆盛の時代では馬鹿々々しいと思う反面、魔女であるルルの治療を受けてもなお完治しない自分の身への恨めしさが、呪文めいた本にクリストフを引き込むのだ。
「こういう本を魔導書、と呼ぶのかな」
発作こそ起きないが、呼吸の度に引っかかるようなものを覚えるような違和感が、この本には付いて回っていた。
瑞々しい皮膚のような表紙に、彫り込まれたような文字。
爪のように硬質で――爪そのもののように臭う文字を黒髪で縫い付けたような文字で記されたタイトルは――ゼガ記。
宇宙の果てにで球のような身体をくねらせる、地獄そのもののような神の名だった。