【1】
夢の中のうわついた甘えだけが残っていた。
窓の外を見れば白と黒の世界。
蒸気機関の叫びと車体の喘ぎに似た不協和音に包まれる車内の最大四人が定員と区切られた客室。
――ふたりでも狭くてみすぼらしいわね――
それがリリの高慢な感想だった。
木組みが剥き出しの自由席に比べれば格段に快適なのだが、彼女は何かと比べて自分を誤魔化さない。
彼女が狭くて不快と思えばどんな豪邸も雨漏る東屋と同じく、【みすぼらしい】のだ。
そんな密閉空間でリリが行う暇潰しといえば、ベッド代わりの長ソファに丸くなる妹のルルを眺めること。
しかしながら、その姿に抱いた違和感が夢の中身を朧気ながら思い出させていた。
うわついた甘えだけが残っていた。
リリが見ていたのは小さい頃の夢。ルルがまだ幼くリリの手足も短く、屈んだ母に褒められながら頭を撫でてもらう夢。母はリリにこう云うのだ。
【よく私を殺してくれたね、リリ】
悪い夢と呼ぶには母との再会に安らいでいる自分自身が、あまりにもあたしらしいとリリは息を吐く。
あの日からリリは魔女と名乗り、呼ばれている。
山間の鉄道を滑走する車外は灯りもなく、リリの目を以ってしても闇しか見えず、内外の気温差で窓ガラスに張り付いた雪の結晶はロマンティックというには大きすぎる。
どのくらい眠っていたのか。リリは懐中時計を持っていない。普段は空を見れば時間が解るので、薬の代金にと貰った懐中時計も小さな寝息を奏でるルルに渡してしまっている。
「……もっと見苦しく寝なさいよ。それなら叩き起こして時間を訊けたのに」
少なくとも駅には着いていない。
ならば、到着が一時間後か三時間後か知らないが、リリは懐かしく凄惨な時代へ遡るべく瞼を閉じた。
「ふざけるんじゃねぇっっ!」
外から響いた下品な声に反射的に抱いた苛立ちを、リリはあくまで理性的に抑えた。
いちいち暴れたり戦うのは二十世紀を生きる魔女としてあまりにはしたない。そう自制していた。そう、していた。
それを即座に過去形にしたのは、さっきまで子猫のように安らかに寝息を立てていたルルがやはり驚いた子猫のように目を広げて起きていたことに気が付いてしまったから。
――このあたしが起こすのを我慢したルルをさっきの下品で無作法な声の主に起こされた――
リリにとってそれは、怒りに値する事実だった。
寝ぼけているルルの前をすり抜け、リリはすきま風のようにドアから飛び出していた。
慌てて追い掛けたルルは、いつものように叫ぶ。「姉さん!」と。
だが時すでに遅し。それもいつも通り。
姉の妖しく美しい指が形成した拳は、妖怪のような膂力で既に振るわれたのだろう。
視野を下に降れば、列車の狭い通路を塞ぐように倒れているふたりの男。その顔面と腹に痕跡が見てとれた。
「何をやっているんですかっ? 姉さん!」
「左フックと右バックブロー!」
「使った技を自信満々に云わないでっ!」
キリスト生誕二千年まであと七十年と迫った現代でも、ヨーロッパ圏は技術があり“魔女と名乗れば”、まだ仕事はある。
それでも一ヶ所に留まれず、客が付いても何年かで引っ越すのはこの姉の短気だと妹は確信する。
妹の咎めるような雰囲気を察した姉が、妹の更なる小言に身構えたとき、ひとりの男が声を挟んだ。
「その女を責めないで下さい! その女はその連中から私たちを庇ってくれたんです」
『えっ……?』
――あ、そういうことか。
ルルはそこで状況を飲み込んだ。
家族だろうか、揃いの毛皮のコートの三人連れ。
声を挟んだ男の、ファーを揺らして分厚いフードから覗かせている顔はユダヤ人のそれ。
そしてリリに殴られたふたり……ひとりはアゴが変形しているが……“帝国”の人間を思わせる出で立ちである。
帝国民たち――国民の総意ではないがそう見えてしまう程度の多数――によるユダヤ人への迫害が表面化しつつ有った。
ここは一等客室。ユダヤ人が居るだけで不愉快に思った帝国民が憂さ晴らしかカツアゲか、とにかく喧嘩を売ったのだろう、そうルルは解釈し、それは正鵠を射ているのだった。
「ま、そういうことね。ルル」
「姉さん。さっき私とハモってたよね? 『え?』って。ねえ、知らなかったよね?」
「ルル! 小さなことを気になんてしてはいけないわね! 志は高く持ちなさい!」
――絶対、なんとなく殴っただけだ。
大きな胸を更に大きく反らし、長い脚を更にしっかり伸ばして威張る姉に、妹は半ば呆れていたが、半ば安堵していた。
リリは自己中心的で傲慢なエゴイストだが、生来的に気高さと義憤を供え、依怙には遠い。
つまるところ、殴って良いものを反射的に見極める才能を持ち、それを彼女は“人間として”生活するに足りる最低限必要な協調性の代替え品としているのだ。
「……まあ、良いんだけどね……」
「ええ! お姉様に任せておけば間違いなしよ!」
ルルがため息ひとつ吐いたとき、合わせるように誰かが咽せこんだ。
乾いた堅物をこすったような咳。したのは分厚いフード男の連れ、揃いのフードを羽織った小柄な人物だった。
咳に反射的に動いたのはフード男、そしてルルは呼吸を数え、聞き、見て、生命を測る。
脈拍、体温、体臭……蒼白な顔色からルルは、病状を把握していた。
「気管支の喘息……薬は何を?」
「……これ……だが、あなたは? お医者様ですか?」
「似たようなものです……あなた、慌てなくて良いのよ。大丈夫だから。
ただ襲われかけて緊張して発作が起きただけ……これはハーブ。これを嗅ぐと心が落ち着くの。大丈夫」
ルルはフード男に薬を待たせたまま、自分は上着から三つの小瓶を右手指の間に挟むように取りだし、左手の甲に少しずつ振り出した。
その動きは手早く、それでいて緻密。合わさったそれらからは浮かび上がるように匂いが生まれ、発作を起こした少年の鼻腔から速すぎる過呼吸と共に吸われている。
次の呼吸はやや遅くなり、その次は更に遅く、ブランコが止まるように緩やかになっていた。
「……魔法のようだ」
「いいえ。ただの薬学です。人それぞれ効き方が違うのでこの場で調合しないといけないのですが……その薬より副作用も無いので、効いて良かったですね」
「……私たちはポーランドに居るという魔女に……会いに行く途中なんですが……まさか……?」
問いにルルが笑顔で応えようとしたとき、ドアがバンと鳴った。先ほどルルが開けっ放しにしていたドアを新たに入ってきた男が閉めたのだ。
その男は、大仰で芝居がかった所作でマントを翻し、折り目の決まった帝国軍服を纏う。
胸にはいくつもの徽章が誇らしげに光っているが、それよりも怪しく光る細い瞳が理性と獣性を等しく感じさせていた。
「おやおやおやおやおやおやおや!
なんということでしょう! 私の部下たちがご迷惑をお掛けしましたねっ?」
「――あんたは? コイツらの飼い主?」
「ええ! ええ! そうですとも! 私、シュミット独佐と申します。部下が大変失礼しました」
問いに柔和に名乗ったシュミットに対して、リリは気を許すことはなかった。
シュミットはリリとルルには敬意を込めて視線を向けているが、恫喝された被害者であるはずのユダヤ人一家には一瞥すらしない。
汚物を見るように、どころではない。視界に居るだけで自分が汚れるとばかりに平然と公然と毅然と、無視を決め込んでいる。
シュミットは会釈を――もちろんリリとルルに向けて――してから、痩身な見た目とは裏腹な筋力で殴り倒された部下たちの身体を担ぎ、前の車両へと戻っていった。
軍靴が遠退く気配を読み、リリが個室へ注意を向けている間、少年の発作は収まっていた。しかし、ルルはいつの間にか取った少年の手を離せずに居た。
――白い顔と儚げな微笑は年令より大分幼く見える――ルルと少年は互いに互いのことを同じ感想を持ち、互いの瞳を合わせていた。
「……僕はクリストフ。魔女さん、あなたの名前は?」
「ルル・ヴェイル・ジヌス、だけど……」
クリストフの発作で滲んだ汗が、きらりと光った。
『――綺麗な名前ですね』
クリストフとルルの重なった声に、リリが目を吊り上げた。
そのことにも気が付かないほど目と目を合わせた妹に、更に姉は腹立たしい思いを燃やしていた。
【鉄星帝国】
その名の通り、黒い鉄鉤のように営利な六芒星をシンボルとする国家である。
元々、第一次世界大戦で中央国側に所属して敗戦、戦後、多額の賠償金は負債となった。
敗戦から傷付いた国民にとって重々しい傷の中で、ひとりの男がとある“党”を立ち上げる。
男の演説は呪文めいて魅力的であり、最初は少数だったものの、野火のように静かに、それでいて加速的に支持者を増やした。
国民は一抹の不安を掻き消す確固たる希望を見たのかもしれない。
世界初の定時テレビ放送を実現し、テレビによる広告効果を証明した。
輸入できなくなれば合成ゴムや合成繊維を発明した。
仕事がなければ大規模な道路工事で雇用と経済を回した。
多くの資産を持つとされる特定の人々から弱い国民たちへ分配すると云った。
ファシズムとレイシズムが甘い毒のように満ちていく。
ドイツ語を公用語とするその国の名は鉄星帝国。