さくら
広瀬春子という少女のことが僕は大好きでした。
春子は可愛らしい少女でした。美人というのとは少し違いますが、くるくるとした大きな瞳を持つ愛らしい顔立ちは可愛い部類に入っていると僕は思っていました。
彼女とは幼い頃からいつも一緒に居ました。いわゆる幼馴染みという奴です。気がつけば幼稚園から高校という10年以上の月日を彼女とともに過ごしていました。
僕は、ずっと彼女のことが好きでした。人の事を思いやることが出来る優しい所も、ふんわりと花が咲くような笑顔も、透き通るように綺麗な声も・・・全部大好きでした。
いつから彼女が特別な存在に思えるようになったのか、それは定かではないんです。だけど、気がつくと彼女のことばかり気になって、何も自分の事が手につかなかった。彼女が視界に入るだけで胸の鼓動が激しくなった。それがすべてでした。
彼女に自分の思いを告げたのは春の終わりのことでした。なんでその頃に自分の思いを告げたのか定かではありませんが、もうこのどんどん膨らむ彼女への思慕を胸にしまっておくことに耐えられなくなったに違いありません。
春子と僕は同じ弓道部に入っていました。僕たちの家の方面の人間は誰も居なかったので、部活が終わると必然的に一緒に帰るという、僕にとってはラッキーな習慣が続いていました。
僕らの帰り道には桜並木があります。その中を僕らは歩いていました。
・・・地理ゆく桜は僕たち二人の間をするりと滑りぬけて飛んでいきます。まるで隣り合う僕たちに存在する近くて遠い距離を強調する動きのように思えました。
隣を歩く彼女とはその数分前まで昨日見たテレビの話をしていました。その話が終わった後の沈黙・・・その沈黙を破ったのは僕でした。・・・そして彼これまでの「ただの幼馴染み」という関係を破ったのも僕からでした。
―「好き」という言葉がこれほど重い言葉なんて始めて知りました。
彼女は少しの間の後、はにかんだ笑顔を浮かべて「私も好きだよ」と言ってくれました。
その日から僕たちの関係は変化を遂げました。幼馴染みから恋人へと。その変化は僕にとってとても嬉しいものでした。恋人として彼女の傍に居られたのは彼女の人生にとってほんの一時のことだったかもしれないけど、それでも僕にとってはたまらない幸せでした。
彼女へ思いを告げた一年後、僕は彼女の元を離れました。
自分の目の前に車が迫ってきたことを見たその次の瞬間から、僕はこの世からも彼女の元からも離れてしまう自分のさだめを悟りました。
僕は死者達が住まう場所に行った後も彼女に会いたくて泣いて暮らしました。男が泣くなんてかっこ悪いという人も居るかもしれないけど、そんなことは言っていられなかった。
親よりも友達よりも誰よりも・・・僕が一番会いたいのは彼女でした。
神様はそんな僕を気の毒に思ったのか、僕をあの道に咲いていた桜の花びらに変えてくれました。
人間に生まれ変わりたかったけれど、いまではこの姿に満足しています。
だって彼女の歩く傍をそよいで一緒に進むことが出来るし、彼女の体にそっと一瞬だけでも触れることだって出来る・・・それだけで僕は幸せでした。
一年のうちに一度しか彼女に会えないけれど、僕はそれだけで救われました。年月が過ぎ、彼女が自分以外の恋人を持ち、結婚をし、子どもが出来、老い、この桜並木に通らなくなるまでの時を、僕は見ることが出来ました。
僕のことをたとえ彼女が忘れてしまっても、僕は彼女の傍であり続けられたことを誇りに思っています。それにほら・・・・。
「ここの桜は本当に綺麗ね。」
「うん。おばあちゃんもここの桜大好きだったもんね。」
小さい女の子と、母親らしき女性が、僕が咲く木を見上げている。
彼女が残した彼女が生きていた証をまた、ここで見ることが出来る。それだけで、僕は満足だから。
僕はこれからも毎年、この場所で咲き続けるよ。君が好きだった桜として、君の証を見守るために。