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 甘い香りが鼻腔を擽る室内は、パステルカラーとぬいぐるみ、様々な形のクッションに支配されていた。ここは二号室のグレープの私室である。

 夜が降り、六畳間は暗々としている。

 包んでいた遮断布を取り除き、蝋燭の灯りの下で体温計を直視したリタルは顔を顰めて呻いた。

「……四十度越えてる」

 紅潮した頬。顔や首筋に張り付いた髪。ベットで苦しそうに息つくグレープの様子を心配そうに見下ろすトラン。

 闇に目が慣れたのか、少し離れた位置からでも苦悶の表情が見て取れる。

「さっきまであんなに元気だったのに」

「このあいだの疲れが出たのかな……」

 トランの言う「このあいだ」とは、蜘蛛の姿をした魔族に襲われた――一週間前の事だ。蜘蛛の魔族の毒に犯されたグレープは、しかし麻痺が解けるとその後、何事もなかったかのように一人元気に動き回っていた。

「それにしちゃ高温過ぎるでしょう。四十度だなんて……それこそ流行り病なのか……」

 体温計をサイドテーブルに置くと、ベットの脇でグレープの様子を見つめるリタル。熱い頬に手を添えると、思っていたよりも湿っていた。リタルは持ってきていたタオルでグレープの顔を優しく押さえる。汗を十分に吸ったタオルを洗面器の水に浸そうと視点をずらしかけたところで、ふと、未だグレープの両手で淡く光るグローブが視界に入った。

「コンロが暴発しなかった事を考えると壊れた訳じゃなさそうだけど。なんで光ってるのかは未だに謎でも、追及できる状況じゃなし……さすがに外しとかなきゃね……」

 呟き、グレープの手に触れるリタル。

 ややあって、

「…………あれ?」

 素っ頓狂な声を上げた小さな背を、その背後に居たトランが訝しげに見た。

「どうした?」

「うん……手袋がね……引っ付いて……」

「外れないのか?」

 様子を見ようと腰を屈めたトランを、リタルが呆然と振り返った。

「……皮膚の一部みたいになっちゃってる」

「…………は?」

 黒眼を丸く見開いたトラン。

 座り込んでいたリタルをやんわりとどかし、自分も手袋を外しにかかるが、柔らかい素材の布地はリタルの言葉通り、何かで接着された様にべったりと……完全に皮膚に吸い付いてしまっている。無理に外せばそれこそ、皮膚が剥がれそうだ。

「……なんでだろう。やっぱ壊れちゃってるのかな……コレ」

 トランの背後で、軽く曲げて作った拳で口元を押さえながら、呟くような声を発するリタル。

「……もしかして。この熱も、手袋のせい……?」

「馬鹿言わないで!」

 トランの呟きにリタルが激しく反応する。

「あたしの発明品ちゃんズに危険なものは何一つ無いわ!」

「発明品ちゃんズって……おまえ」

 前々から思っていた事だが、才女のネーミングセンスはどこかおかしい。

 ジト目のトランからグレープの手首を奪還すると、リタルは光る手袋をもう一度しげしげと眺めた。

「それよりも……さっきから思ってたんだけど、コレ。何かに反応して発光してるみたいじゃない……?」




「干渉? ……外部からか?」

 一号室――先程までリタル達が寛いでいたリビングにも例外なく闇が降りていた。

 ソファにどかりと腰掛けたリチウムが眉を顰めると、テーブルを挟み向かい合う状態で宙に座っていたクレープは軽く頷く。

『そ。ついさっき、二号室にグレープの身体を移動させる時に、あのコの中に入ったデショ? その時に気づいたんだケド、何だかオカシナノがグレープの身体に纏わり付いてるの』

「オカシナノ、ねぇ」

 クレープの口調を真似たリチウムが腕を組んで唸る。

「グレープの変調も、街の事態もそのせいだっつうのか?」

『……街のザマはグレープのせいよ』

 クレープは窓の外の深闇へと視線を移すと、溜息交じりに言葉を吐く。

 さらに眉根を寄せて自分を見るリチウムに気づいて、クレープは抑揚の無い声で付け加えた。

『外部からの干渉はグレープ個人に向けられたものだけど。……グレープの破壊魔っぷりはアンタだって知ってんデショ。街中の石化製品が一斉に止まってしまったのは、リタルの造ったあのグローブがグレープの影響で広大な範囲に作用し続けてるせいとしか思えない。今現在も、ね』

「この異常事態が、いつもの――グレープの引き起こした石化製品の魔力の暴走だっつうのか?」

 言葉を吐き、気だるげに後頭部を掻くリチウム。

「……確かに、グレープが無意識に石の魔力を暴走、暴発させたケースは、この三ヶ月間で嫌という程目にしてきたが……」

『リタルの話によると、グレープがはめていたあのグローブ。魔力遮断布って言って、あらゆる魔力を通しまセンっつー石化製品らしいの。ソレが干渉波の影響でパワーアップしてしまった破壊神グレープの手で見事に暴発して、現在街中の魔力が遮断されてしまっている……という有様。納得できない?』

「つってもさ。石化製品の暴走が街中に影響するケースってのは初めてじゃねぇか。本当にグレープがやってんのか? にわかに信じがたいんだが」

「…………」

 リチウムの問いに、しかしクレープは答えない。暗がりの中、中央に鎮座するテーブルの上に立った数本の蝋燭。それらの仄かな光がゆらゆらと彼らの困惑の表情を照らしている。

『……どれくらいの範囲、停石してンの?』

 室内を沈黙が支配してから数十秒後。細い脚を組み替えたクレープが静かに口を開く。

「さぁな。屋上から見た限りじゃ辺り一面真っ暗だったぜ」

『干渉波をなんとかするしかないわね。このままじゃグレープの変調も収まらないし。恐らく魔力の暴発も止まらない。即ち、生活にも支障来たすわよ』

「早速今日の飯だな」

 銀髪を掻き上げ、神妙な顔付きでリチウムが呟くと、

『さっきグレープが拵えてた生肉ハンバーグならキッチンにあるケド』

 クイっと形の良い顎をダイニングの方へ向けるクレープ。

「食ったら褒めてくれンの?」

『まさか。軽蔑するわよ思いっきり』

「だろうな」

 長い両腕をソファの背にかけ、深くもたれかかるリチウム。

「……しっかし、グレープ個人に干渉、か。……またファーレン野郎の仕業か……?」

 自分と容姿がそっくりな天使が、常日頃からグレープの事を気にかけていたのを思い出し、リチウムは独り言のように呟いた。

『裏で糸を引いてるのはそうかもしんないケド。干渉波自体は奴の魔力じゃない。もっと禍々しい感じよ』

 淡々としたメゾソプラノに黙り込んでしまったリチウム。

 と、玄関の扉の開閉音と共に二つの灯りが現れた。廊下を真っ直ぐにこちらに向かってやってくる。

「リチウム! やっぱグレープなんか変よ! ……いや、正確に言うとあたしの可愛いグローブが変! どっか他所よそに反応してる!」

「何かに反応してずっと作用し続けてるらしい。グレープちゃんの身体に大きな不可がかかって、発熱してるようなんだ」

 バタバタと、リタルとトランがリビングに顔を出した。

 真っ暗がりの中、リチウムのジト目が二人を捉える。

「情報古ぃって」

「はぁ?」

『ソリャ、街中を停石に追い込む程の魔力を暴走させ続けてるんだもの。コレで身体に不可でもなきゃあのコ、破壊魔の上に無敵よ』

 平静を保ったまま言い放つクレープに、トランが振り返った。

「街中の停石……グレープちゃんがやってるって言うのか!?」

「みてぇだな。まぁ、グレープがひっくり返ったのもグローブの暴走も、クレープの話じゃ外部からの干渉波ってやつが原因らしいが」

「……やっぱり、外から悪さしてる奴が居るのか」

 眉間に皺を寄せ、軽く握った片手で口元を抑えるリタル。彼女の癖だが、こうすると小さな顔面の半分が隠れて表情が読み取りにくくなってしまう。

『タイミングが悪かったっつうか。アンタの親切心って悉く恨めに出るわね……』

「うっさい」

 クレープの横槍を視点を落としたままぴしゃりと跳ね除け、リタルは口元を押さえたまま独り言のように呟いた。

「にしても妙ね……グレープ個人に干渉? なんだってグレープ如きにそこまでする意味がある訳……? しかもこんなタイミングよく」

「如きっておまえ」

「そら、『如き』だろうよ。相手はこっちの陣地のごっつい守備を突き破る程の魔力を堂々と送ってきてやがるんだぜ? そんなことが出来るのはさ……」

『実行犯は、そこのちびっ子が手を加えた強化バリアーの魔力すら破る程の魔力を持つ者……』

「誰がちびっ子だ!」

『……オソラク、魔族でしょうね』

「魔族が?」

 訝しげに問うトラン。

 一瞥くれて、リチウムが口を開く。

「魔族が人間――しかも個人を相手にしてくれてんだ。『如き』で合ってると思うが」

「つか! なんで魔族なんかにグレープちゃんが狙われるんだよ? ついこないだ大蜘蛛の件があったばかりなのに……」

『それかもね』

「…………え?」

 線の細い美しい顔だち。トランの黒瞳を、グレープと同じ赤の光が射抜く。

『トランちゃん覚えてる? あの大蜘蛛、後で仲間と落ち合うようなコト言ってなかった?』

「言ってたわね。しっかり」

 ソファに腰を下ろしたリタルが深々とため息をついた。

「落ち合う約束をした後、仲間とやらはどこぞでずっと大蜘蛛を待ってた。それなのに、大蜘蛛はいつまでたっても場に現れない。だとすれば、探しに来て事態を悟り復讐……ってのは、常識なのかしら? 魔族にとって。……まぁそれよりかは、大蜘蛛が倒されたと知って『死球』を狙い第二波を送り込んできた、と考える方が自然かも。それに大蜘蛛の能力は確か『魔力を吸い取る糸』だったわよね。あの時『記憶を探る石』で覗いたあたしたちの記憶――情報を、魔力で練り上げた糸に記録する事が可能なら……、ううん。それでなくても何らかの形で、得た情報を身内に伝える術が大蜘蛛にあったのだとしたら、魔族側にあたしたちの位置がバレてても全然不思議じゃない……」

「だから……どうしてグレープちゃんが狙われなきゃなんないんだよ!」

 冷静な面々にトランが声を荒げた。思考を巡らせる事に集中していたリタルがビクッと小さな肩を震わせる。

「『死球』を狙ってるんなら、直接リチウムに仕掛ければいいだろ……っ」

 見ると、トランは誰も視界に入れていなかった。

 落とした視点。硬く握り締めた両の拳は僅かに震えている。

 リタルの脳裏に、先程、グレープの様子を見つめていたトランの表情が過ぎった。

『……トランちゃん。グレープだけよ。禁術封石を持っていないの』

 一呼吸おいて。クレープは、彼女にしては柔らかく、落ち着いた声をトランの背にかけた。

「それがどうし……!」

「一理あるわね。これは推測だけど、石――魔力抵抗が無い分、狙いやすかったのかも。……ほら。石を持つ人間には多少なりとも石の魔力が身体の中に流れてるでしょ? グレープは石を持っていない。って事は、あの子の中に魔力は全く存在しない。異魔力が流れていない分、干渉しやすかったのかもしれない」

 リタルがゆっくりとした口調で補足すると、

「…………くそっ」

 悔しげな表情で、トランが荒々しく壁を叩いた。

『干渉してきたトコロに、運悪くグレープが身に着けていた魔力遮断布が暴発しちゃった、と。……つか、ひょっとして狙ってやったのかも』

「十中八九そうだと思う。大蜘蛛を倒してからこの一週間、あたし達はどこぞの魔族にずっと監視されてた――そう考える方が自然だわ。あたしが遮断布造ってるとこも魔族サンはじーっと見てらっしゃったのかも。完成した魔力遮断布がグレープの手に渡った瞬間、満を持して干渉。……有り得なくも無いわ。って事は、この事態――停石は狙ってのこと。……まんまと利用されたって訳か……」

「…………」

 再び静まり返った室内。

 深刻な面持ちのメンバーの中で一人、場ににつかわぬ不敵な笑みを浮かべていたリチウムは、顔を上げて周囲を見回した。

「……んで? 結局、俺様達はまたどこぞの魔族に喧嘩を吹っかけられてる……って事で、いいんだよな?」

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