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 頬、胸、腹、腕、脚。

 ぽたぽたと、均整のとれた肢体を伝って落ちる血と汗は今や彼の足元に大きな水溜りを形成していた。

 少し前まで彼は、袋叩きにでもあった浮浪者のような格好だった。幾度も無残に裂かれ酷い状態の衣類。辛うじて肩に引っ掛っていた上着は、お気に入りの漆赤のマントと共に脱ぎ捨てた。今の彼は上半身裸である。

 細身ながらもバランス良く筋肉の付いた肉体には抉られて出来た深い傷が無数に刻まれており、夥しい量の出血は至る所から噴き出していた。

 満身創痍のその姿は、思わず視界に入れる事を拒んでしまう程に痛々しい。

 が、介する事無く彼――リチウムは今、総ての意識を、前方へ突き出した左掌に集中させていた。嵌めている白皮のグローブの、手の甲の部分に付いている黒い魔石『死球』が、数分前からリチウムの意思に応じて発光を続けている。 

「…………」

 元々しかめっ面をする事の多い彼だが、今は普段以上に眉根を寄せている。

 未だ大きく上下する胸。滲む汗で身体に張り付く銀糸。平行して走る四本の深い傷。溢れ出た鮮血が体中を、左頬をなぞる。そんな状態でもリチウムの青い双眼の光は衰えてはいなかった。

 しかし現在、その視界は隙間無く「黒」に覆われている。

 前方に突き出されたリチウムの左手は今、大きな黒い球体を従えていた。

 否、それは決して球体ではない。確かにそれは球の形をしていたが、厳密に言えば球の部分には「何も無い」のだ。

 黒は「無」そのものであった。

 故に形など無い。言うなれば、宙にぽっかりと開いた立体的な空洞――あなだ。宙に存在する様々な成分が、その球状に抉られた黒の部分だけ存在しない。

 醸し出す異質な感じは「無」が放っているものではなかった。「無」というモノに「有」である人体が本質的に抱く恐れ……拒否反応のようなものではないだろうか。

 この球状の黒い孔こそが、リチウムが普段から多用している魔力『死球』だった。

 リチウムは体中に走る痛みをねじ伏せた状態で「無」――『死球』を支配していた。拡散を抑えると同時に練り、さらに『死球』を成長させていく。並みの集中力で成せる技ではない。宙に漂う黒の範囲が大きくなるのに比例して、彼の眉根に刻まれた皺がより深くなっていく。

「~こン……くらいで満足かぁ……?」

 ようやくリチウムが一言を発したのは、『死球』の範囲が直径二ートルを越えた頃だった。


 訊かれて、片足で黒い塊――総ての脚を失くし上胴のみとなった魔族を踏みつけていたリタルはそちらを振り返った。

 魔族を踏みつけているのは、相手が転位して逃げ出さないよう彼女の属性『空間操作』の魔力を用いてこの場に固定する為……といえば聞こえはいいが、固定はなにも、対象を踏みつけていなくたって可能だ。この行動は単純に彼女のストレス解消を担っているのだろう。

 リタルは今、リチウムの真正面に位置していた。『死球』に阻まれリチウムの姿を見る事は出来ないが、聞こえてきたその声からリタルは彼の状態を察する。……限界が近そうだ。

「ええ、上出来よ。リチウム」

 冷静な面持ちを崩さずにそう返すと、リタルは魔族を踏みつけたまま移動する。『魔眼』で魔族の心臓が未だ動いている事を確認しながら、リチウムから見て魔族の後方に廻り込むと、『死球』に向き直り、

「それじゃ。コイツにぶっ放して。それ」

 短く切った言葉を、淡々と口にした。

「…………は?」

 巨大な『死球』を制御したまま、リチウムが間の抜けた声を上げる。

「時間が無いって言ったでしょ。早く」

「つか……おまえ今、魔族の近くに居るんだろ?」

「奴の真後ろに立ってる」

 間髪入れずに答えるリタルに、リチウムは益々困惑した表情になる。

「何する気だ」

「説明してる時間無い」

 リタルは先程からこのセリフを淡々と繰り返している。まさに取り付く島も無い状態だ。

 しかし、この数年間リタルを相棒として側に置き、共に行動してきたリチウムには、その淡々とした言動が彼女の焦りから来ているものだと即座に判断する。

 彼女は、焦っている時程短い言葉を連発するのだ。

 これまでの経験上この状態は、まぁ……相当、焦っている。レベル8~9位だろうか。どうやら「今」は本当に僅かな時間しか残されていない、とても切羽詰った状況なのだろう。

 「ふむ……」とリチウムは視線を泳がせた。

 リタルがやりたがっている事が、なんとなくリチウムには読めていた。

 もし想像通りであれば、失敗した時のリスクは高い。

 この状況下でそれを成し遂げる為には、先程リタルが告げたようになるべく大きな『死球』を彼女に向けて(正確には魔族に向けて、だが)ぶっ放すしかないだろう。

 失敗すれば――もし、寸前で魔族が事切れるような事があれば、リタルの死は否めない。

 だが、それを理解していても実行しなければならない――その必要性がある。恐らく、事態を好転させる術はこの方法以外、無いのだろう。

 いや、もしかしたら探せばまだ他にも方法があるのかもしれない、が、今はそれを検討する時間も残されてはいないらしかった。

 リチウムは改めて『死球』の向こうにある少女の気配を見据えた。

「失敗したらゲンコツな」

 放った一言に、彼女は即答した。

「やったら倍返す」

 リチウムの口角が僅かに上がる。

「ンじゃまぁ、いくか。俺様も早いトコ治療したい」

「……いつでもどうぞ」

 軽い口調にリタルが身構えた。

 リタルとの距離は二メートル弱。しかしリチウムは、肌で彼女の集中力の高まりを感じ取る事が出来た。

 この場は、辺りに漂う『魔力の流れを止める石』の魔力をリタルがせき止めている状態にある。故に『死球』の発動が可能な訳なのだが。

 今、自分達を取り囲んでいる魔力の流れが、リタルの意思に応じて微妙に変化していた。

 彼女の居る辺りだけ、より濃密になったと言うか。吸い寄せられている感じを受ける。

 ピンと張り詰める緊張感は、数年に渡って夜な夜な二人で繰り広げてきたストーンハント時のそれにも似た空気だ。

 頬を流れる一筋の汗。

 慣れ親しんだ感覚を十二分に味わいながら。

 リチウムは、リタルに向けて、濃密な闇をぶっ放した。

 直径が二倍近くある「無」が、息着く間も無くリタルに迫る。




「…………っ」

 リタルは自身の背後に『魔力の流れを止める石』の魔力を収集していた。

 そして、彼女の右手の甲で碧色に発光しているのは、『魔眼』だ。

 迫る異様。

 津波のように押し寄せる、濃厚な死の気配。

 唇を引き結んで。その脅威的な忍耐力で彼女は『死球』の接近を許容する。

 その間、数秒。「無」が目前に迫った。

 鼻の先の空間が飲み込まれて無と化し、さらに膨れ上がった「無」が、リタルの小さな肢体を呑む――寸前。

 展開していた『魔眼』が、自分と「無」との僅かな間に生じた、空間の大きな歪みを感知する……!

「~この……っ!!」

 ――果たして、巨大な「無」は異質な気配と共に、あっけなく、この世界から消失した。

 目を見開いていたリチウムの視界には、先程と同じようにリタルと、彼女が踏みつけている黒い魔物が存在している。

 変化した箇所といえば、リタルが必死の形相で両腕を前に突き出している点と、彼女の正面の空間の一部が、陽炎のようにゆらゆらと揺らいでいるところか。

 自らが放った『死球』とほぼ同スピードでリタルの側に立っていたリチウム。

 間近の気配にようやく気づいたリタルは、汗濁の表情で彼を見上げて…………ようやく。溜息を一つ漏らした。

「……とりあえず、ゲンコツは間逃れたようね」

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