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「なんだと……!?」
眩い光球の放つ赤い閃光に、付近のビルの屋上に転位した黒獣の一体が脅威の声を漏らす。
暗闇に突如鎮座した凶暴な光輝。闇に慣れた目では直視できない。それでもなんとか凝視すると、赤い光が男の左手と胸から生じているのが辛うじて確認できた。それは炎の色のようで、決して炎ではない。もっと柔らかい――包み込むような感じの赤だ。
光は落ちゆく二人の身体を抱いて、ゆっくりと、ゆっくりと降下していく。
瞳に赤を灯した男は少女の身体を抱えると体勢を立て直し、近づく地にそっと足をつける。
徐々に、少女の重みが男の腕にかかった。
やがて総ての重力が戻ると、身を包んでいた赤い光が音も無く弾け飛ぶ。
瞬きの後、男の瞳は普段の黒色に戻っていた。
「…………なんだかよくわからんが…………助かった、のか……?」
闇に包まれた街並み。
少女を抱えたまま、狐に抓まれたような表情でトランが呟いた。
自分達が相当高い位置から落下した。そこまでは覚えている。
どう楽観的に見ても助かる可能性はゼロに等しかった。そう感じた事も覚えている。
意識が途切れがちだったのか。トランの記憶は落下直後から今の今まで、とても曖昧だった。
気がつけば、この場に立っていた。そんな感じだ。
あの状況下に置かれて今、自分達がどうして無傷なのか、そもそも何故生きているのかさっぱりだった。事と事が繋がらない。あの間隙に何が起これば今この状態になるのか。見当もつかない。
……誰かの声を聞いた気がするが――よく覚えていない。
「……なんだ?」
ふと、左手の中指に嵌めている指輪――『炎帝』が僅かに光っている事に気づいた。
己の体内の魔力の流れはやはり滞ってしまったままだ。『炎帝』の灯している……どこか暖かな光。それが何を意味しているのかも、トランは解らなかった。
目を丸くしたまま辺りを見渡す。ここは、オフィス街のようだ。照明等が機能していない為か、そもそも今日が休日だったからか。普段なら帰宅路につくサラリーマンの姿でごった返してるこの場所も、現在は人の気配は全くない。ちなみにトランもその大勢いるサラリーマンの一人だ。彼は毎日この路を通ってホームに帰っている。
ビルの隙間から容赦なく吹き付けてくる強風だけは普段のままであった。刺すような冷たさ。だが、先程の全身を殴りつけるような暴力的なそれでは断じてない。
絶望的な状況の中、理由は判らないが見知った場所に無事帰って来られた――その事実に、トランはようやく安堵する。
改めて感じる地の感触。安定感。
彼女の、心地よい重み。
胸を撫で下ろすと、同時に、膝が震えた。慌てて腕の中で弱い呼吸を繰り返している少女の体をそっと地に下ろす。
そこで初めて。トランは自分の抱いていた少女の変化に気づいた。
少女の髪が短くなって……というか、蒼色に変化している。
一体いつの間に、戻っていたんだろうか。
「グレープちゃん……」
未だ赤光を灯す指輪に照らされた、傷だらけの痛々しい肢体。衰弱の表情。その頬にそっと触れる。
ぬるっとした感触。
見れば、グレープの頬に血糊がべっとりと付いていた。
「…………なんだ、これ……」
――いや、自分の右手が血で濡れている。
ギクっとする。
断じて己の血ではない。
細背を支え続けていた自身の右腕を見てみる。右手、手首、コートの手腕部の生地。その総てが、驚く程真っ赤に染まっていた。
「…………グレープちゃん……?」
曖昧な記憶の断片が徐々に鮮明になってゆく。
宙で受けた幾多の攻撃。
直に伝わる衝撃と、クレープの声無き悲鳴。
自分の頬に滴り落ちた、血。
そう。
グレープは背中に裂傷を負っていた。
大きく裂かれた細背から夥しい量の出血が見られる。
後頭部をガンと殴られたような衝撃がトランを襲った。
「グレープちゃん……っ」
搾り出すように声を上げるも、反応はない。
「グレープちゃん、しっかりしろ……! グレープ……」
身体を、生き物のように這い上がってくる寒気。
反して、ドッと汗が噴き出てくる。
押し寄せる恐怖を振り払うように、トランは虚空を仰いだ。
「クレープ!! 居るのか!?」
大声が無人のビル街に響く。
だが、返答は無い。
「……クレープ!!」
幾度呼びかけても……どれだけ待っても、クレープの声は返ってこなかった。
たとえ、近くに倒れていたとしても……『魔眼』の所持者リタルが居ないこの状況ではその姿を見つける事も出来ない。
「……そんな」
愕然とする。
思考が霞み、頭が働かない。
いや、固まってしまっていた。身体も、……心も。
――折角、助かったというのに。これではなんの意味も無いではないか――
どれ位の間、そうしていたのだろう。
気がつけば、腕の中の少女の細身をこれでもかという程強く抱きしめていた。
少し、解放してやる。
温かさが、じんわりと寒空に溶けていった。
……そうだ。
まだ、こんなにも温かいじゃないか。
「…………、……病院」
呟く。
段々と、意識が覚醒してきた。
……そうだ、病院だ。
怪我人が出たら病院に運ぶ。どうしてこんな簡単な事を、一番大事な時に思いつかないんだろう。
頭の中で己を殴りつけながら、再びグレープを抱き上げようとして――思い止まり、急いで着ていたコートを脱ぐと細い体を包んだ。
と、何か硬い物が手の甲に触れる。
脱いだコートのポケットの中に何か入っているようだった。
「光ってる?」
淡い赤の光に導かれるように中に手をやると、奥に入っていたそれを取り出してみる。
赤く光っていたのは――リタルから預かった銀の筒だった。
「……つか、これ」
全身を赤に染めたそれは、トランが左手で持つと、瞬時に反応を示した。
筒の一方――上を向いていた穴から突如、炎が噴出したのである。
「!? ~うわわああああ!?」
前髪を焦がしそうになって慌てて仰け反ったトランは赤筒を取りこぼしそうになった。
「…………?」
今度はしっかりと筒を握ってみて――まるで先程の金属バットを握っているかのような、やけに手に馴染むそれをマジマジと眺める。
「な、なんだこりゃ……!?」
「それはこちらのセリフだ」
響く声に顔を上げれば……一体いつからそこにいたのだろう。周囲に満ちた常闇に幾つかの気配を感じ取ることが出来た。
四体の魔物が自分達を取り囲んでいる。
「この空間で『炎帝』を発動させるだと……? 協力者が居るのかと思い様子を見ていたが……空間干渉しているのはその媒体か」
四体の魔物はトランと炎を噴出し続けている筒状の何かを凝視する。
「いや、何がなんだか……」
訊かれたトランは再び黒眼をぱちくりとさせた。
先程から、理解できない事ばかりだ。
もしもリタルが居れば、細々した状況説明を嬉々として語り出すだろうに。
こんな状況下で自分に出来る事といえばただ、この訳の判らない状況をそのまま受け止める事しかない。
燃え盛る炎に再び視線を落とした。
未だ体内に魔力の流れを感じる事は出来ない。が、どういう訳か。空に居た時にはどれだけ望んでも得られなかった炎が今、目の前に存在している。
この炎は、自身が出している訳ではない。それでもこの熱が――やけに懐かしく、頼もしい。
「……聞きたいのはこっちの方なんだが」
判明している事といえば、赤く光る銀筒が、リタルが作った試作品二号だという事と、
「これは……」
形勢は逆転した、という事。
「……使えそうだぜリタル!!」
トランが叫んだ。
その意に応えるように、赤く染まった筒から出る炎の勢いが増す。
地に膝を付けグレープの背を支えたままの状態で、筒を頭上に掲げる。瞬間、筒口から炎を纏った大きな竜が飛び出し、真っ直ぐに天を目指して上昇した。
その、圧倒的なまでの力。恐るべきスピード。見せ付けられた黒獣達は一瞬怯んだ様子を見せたが、次の瞬間には一斉にトランに飛び掛ってきた。
トランは驚異的な忍耐力で黒獣達を限界まで己に引き付ける。意識を働きかけると――掲げた巨大な炎竜の身が突如、四方に裂けた。
四匹となった炎竜はそれぞれ目標目掛けて真っ直ぐに進む。その速度たるや、転位する間も与えない。四体の内回避の間に合わなかった二体があっさりと炎竜に飲み込まれ、火達磨となり地に転がる。
辺りを漂う異臭。生き物が焼ける匂いに顔を顰めたトランが掲げていた筒を下ろすと四匹の炎竜は一瞬で銀筒へ還る。後に残ったのは激しく燃え上がる二つの炎塊と、自身と炎塊とを真っ直ぐに繋ぐ、アスファルト上の太い焦痕だけだった。
再びバット状となった炎柱を見つめ、トランは改めて確信する。この炎は『炎帝』のそれだ。
ではこの筒は、リタルが持っていた銃のバーナー型みたいなものなのだろうか。カラクリは解らないが恐らく、空から落下した時に自分達を助けたのも、この筒なのだろう。
「……頼んだぞ」
トランは改めて左手の筒を握り直すと、右腕でグレープの身体を抱き、立ち上がった。
そこへ、残る二体の黒獣が次々に飛び掛る。
「邪魔をするな……!!」
吼えるトランと、再び上がる炎竜。
夜空を真っ直ぐに昇る火柱。目を焼く程の赤は照明の消えたこの街を、ビルの内部を、まるで昼間のように明るく照らす。
巨大な火柱を巧みに操り、トランは迫っていた黒獣一体を横殴りに打ち払った。
ビルにたたきつけられた火達磨。魔族だったモノは壁に張り付いたまま激しく燃え続ける。横目で確認すると、トランは素早く辺りに視線を巡らせた。
――残りは一体。
転位した魔族は、トランの真後ろに迫っていた。
気配を察知したトランは、身体を捻ると振り向き様に一閃。
激しい火柱の軌跡。しかし黒獣は再び転位してこれを避けると、今度はトランの目前に現れる。
「な……っ」
トランが視界いっぱいの黒獣の肢体を認識した時には既に、黒獣はトランの左肩に太爪を下ろしていた。
「…………!!」
飛び散る鮮血。
咄嗟に背中から後ろへ倒れる事でなんとか左腕を失う事を避けたトラン。魔族の太爪は肩の表面を抉っただけに留まった。
が、まともな受身もとれず。グレープを庇いつつ、背中をアスファルトに強かに打ち付ける。
「~ぐぅ……!!」
あがる苦悶の声。息が出来ない。
細身の筒は、弾みでトランの左手から零れ落ちると同時に炎と光を失くし、力なくアスファルトに転がった。
程なくして銀筒の転がる音が止み、訪れた静寂。――瞬間。はっとしてトランが目を見開いた。
上空から、黒い獣がスローモーションのようにやけにゆっくりと迫る。
その爪は今にも、己目掛けて振り下ろされようとしていた。
ほとんど反射的に、トランは負傷していた左手を黒獣に突き出していた。
……と。
体内に現存する、今まで微動だにしなかった魔力が――いや。それだけではない。その瞬間、嵌めている指輪の石――『炎帝』の膨大な魔力が爆発的に体内に流れ込んだ。
一瞬にして全身を巡ったそれらは、再び左手に集束すべくものすごい勢いで体内を駆け抜ける。
身体全体が……いや、左腕が、熱い。
疑問が生じるよりも早く、掌から暴力的な白――いや、赤い光が飛び出した。
「な……っ」
目を焼かれる瞬間、黒獣が僅かに声を上げる。だがその声すら轟音に飲み込まれてしまった。
トランの掌から生まれ出でた巨大な炎龍が今、黒い獣の全身を――総ての闇を掻き消した。
驚きに見開いたトランの黒瞳。
その視界で、街の路に添うように立っていた総ての外灯が二、三回瞬くと、間も無く光を宿した。
視点を巡らすと、遠方にも大小さまざまな光が見える。
街に光が……平常が戻ったのだ。
「…………、……なん、で…………」
未だ左手を突き出したまま、トランは呆然と困惑に満ちた呟きを漏らした。
今、体内を流動している魔力は、先程まで無かったものだ。
噴出した炎だって、魔力の流れが止まっているこの場では、自分だけでは成し得ない力だったはずだ。
だというのにいきなり、当たり前のようにそれは発動した。
そして魔力は、今も絶えず体内を巡り続けている。
街にも、光が戻った。
いきなり。予告も予兆も無しに。
……ひょっとしたら、リチウム達が何とかしてくれたのだろうか。
確信はなかったが、疲労した頭ではもう何も考えられなかった。
と、いうより、どうでもよかった。
魔力の流れが復活し、『炎帝』が使えるという状況がこの身を救った。……今はその事実だけでいい。
とにかく、これで総ての脅威は去った。
抉られジンジンと痛む左肩。腕を力無く下ろすと、冷たいアスファルトに仰向けに寝転んだまま深く息を吐いて、空を仰いだ。
厚い雲に覆われていた空は、いつの間にか高く、澄み切っていた。
満天の星が瞬き、月が煌々と自分達を照らしている。
疲労し混乱しきっていた頭が徐々にクリアになってゆく。
右腕にかかる重み。――まだ、終わってはいない。
温かい身体を自身に寄せると、トランは背に走る痛みをねじ伏せて半身を起こした。
異様に重たい肉体。だが、休む間など自分にはない。すぐにでも立ち上がって彼女を抱えて、病院に行かねばならない。
ここから一番近い病院はどこだっただろうか。どの路をどう行けば一番近いのか。掠む頭で、記憶から該当する情報を賢明に探す。
その作業に意識を総動員させながら、……それでも、どこからともなく押し寄せてくる不安に、堪らずトランはグレープを抱きしめた。
……大丈夫だ。
絶対に、大丈夫だ。クレープも、……グレープちゃんも。
病院に連れて行きさえすれば、きっとすぐに良くなる。
「……大丈夫だ」
言い聞かせるように口にしてはみたが、説得力に欠ける掠れ声しか出なかった。
小さく、華奢で……しかし、柔らかい体。
視線を落せば、すぐそこに白い細面がある。
蒼い艶やかな髪。隙間から覗く、重く閉ざされてしまった瞳。
……そうだ自分は、早く笑顔が見たい。
早く元気に動き回るが見たい。
今。
死ぬ程、その声が聞きたい。
早く。――……早く。
残った力を振り絞り、立ち上がろうとして……ふと。
背後に、気配を感じた。
「……?」
誰かが、――ナニかが、自分達を見下ろしている。
「ようやく盾が消えたか」
その声は、やけに聞き覚えのある、闇を含んだ濁音だった。
……まさか。
振り返ろうと身を捻った、その直後、激痛がその身を貫いた。
「…………ぁ……っ」
背後から左脇腹を貫通したナニカが、びしゃっと、地に落ちた。
肺が収縮する。上手く呼吸が出来ない。
己の意思に反して、身体がゆっくりと地に沈んでゆく。
「…………っ」
渾身の力を振り絞って身体を横に捻る。グレープを庇いながら、トランはアスファルトに横たわった。
じわじわと、広がる血溜り。穴の開いた左脇腹が、焼けるように熱い。
霞んだ視界の脇に、宙に浮いた黒い物体が見えた。
成人の男が両手で輪を作った位の大きさがある。
首から下は千切れていてそこに胴体は無い。
毛は無く、ドス黒い皮膚中に暗い赤の筋が、血管のように幾重も張り巡らされている。
血のように赤い眼球は飛び出ていて、その瞳孔の色は……濁った青色だ。
紛れも無く、リチウム達と一緒に対峙した犬頭と同型の魔族だった。
……まだ、居たのか……っ
自らの油断に歯噛みしつつ、迫る犬頭を精一杯睨みつけるトラン。
が、犬頭は特に気にする様子もなく、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「……グレープ、ちゃん……っ」
血を吐きながらその名を呼ぶと、歯を食いしばってトランは動いた。
身体を動かせば痛みに支配され、もはや立ち上がる事すらままならない、だが――それでも護るように、抱きしめた細背は、
「目的を果たさせてもらう」
冷酷な声が降った、次の瞬間、消失した。
力を入れていた両腕が、少女の血に染まった腕が――虚しく、宙を掠める。
「…………!?」
確かにこの腕に抱いていたのに、目の前から忽然と消えてしまった。
まるで。夢であったかのように。
「……グレー……プ…………」
心地よい重みの余韻。未だかすかに漂う甘い香りと、仄かな温かさを残したまま。
呆然と、血に塗れた自身の腕を見ているトラン。
既に戦意が消失している事を見て取るも、犬頭は油断無く宙を進む。
生臭い体臭――死の気配が徐々にトランへと迫る。
「散々梃子摺らせてくれたが……人間よ」
殺意の入り混じった冷徹な声を、それでもトランは、どこか遠くで聞いていた。
「――これで、終わりだ」
犬頭の口が大きく開くと同時に、生まれ出でた大きな球――水の塊が、今。
トランに向けて、放たれた。