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一体何の冗談か。
先程まで散々自分達に飛び掛ってきていた黒獣等が。
思わず手を離してしまった――想像以上に働いてくれた武具が。
屋上が。街が。
みるみる遠ざかっていく。
一瞬、これは夢だろうと頭が処理しかけた。慌てて五感が首を振る。紛れもなく現実だ。自覚するや否や、急激に上がり続ける高度に身が竦んだ。耳が聞こえにくくなり、勝手に喉奥から情けない声が飛び出す。
そんなトランの様子などお構いなしに、上昇速度はさらに増してゆく。
黒獣が点になり。屋上が小さく消えてゆき――
そして、眼下にただ、闇が広がった。
頭上に広がる重厚な魔力の大渦。
それは雨雲のように夜空を覆っていたが、目を凝らせば狭間で星光が薄っすら瞬くのが見て取れた。
上空を睨むように見据えたまま、トランを抱えたクレープはありったけの力で天を目指していた。
一体どこにそんな力を隠していたのか、その速度は放たれた矢をも上回る。
火照った身体を容赦なく殴りつける豪風。自分達を阻むように体当たりしてくる冷たい空気に、随分と長い時間耐えていた気がする。
ふと、風が凪いだ。
静かな静かな真っ暗な空間を二人、漂う。
仄かな月明かり。澄んだ冷気。夜の空気が穏やかに撫でる。まるで異世界にでも辿り着いたかのような穏やかなアトモスフィア。上昇時とはあまりに対照的な静けさに、その世界に存在しているのは自分達だけ……そんな錯覚すら覚えてしまう。
夜風が柔らかな金の糸を攫い、トランの頬を擽った。ほんのりとシャンプーの甘い香りが漂う。
「って、クレープ!? 何を……」
我に返ったトランが、反射的に下を見た。
先程まで居た箇所は勿論、街の様子も全く判らない。相当高い所に位置しているようだ。
それにしても、両足が宙に浮いている……この状況はひどく心元無い。
「アイツ等、飛べないみたいだし。このままリチウム達の所に合流する」
静かに、クレープが告げた。
「けど、おまえ……」
大丈夫なのか、と問うトラン。
背中越しに伝わる高熱。汗ばんだ身体。見上げるも、彼女の形の良い顎が視界に入るだけで、その表情を見る事は叶わない。
息も途切れ途切れにクレープはただ頷き――頷きながらも、今抱えているのがこの男だからこそ自分は耐えられるのだろうとも思った。
考えてみれば、実体でトランに密着するのはこれが初めてかもしれない。
思っていたよりも広い背中。厚い胸板。幽体時に幾度抱きしめても得られなかった感触を十二分に味わいながら、まるで身の丈以上のくまのぬいぐるみを与えてもらった年端もいかぬ少女のように大事に、しっかりと背中から抱える。
これがトランではなく他の者だったら……、そう考えると自信が無い。
勿論頑張りはするも今頃は既に力尽きて二人とも上空から地上に真っ逆さま――成す術もなくこの身を宙に投げ出している所ではないだろうか。
だって、未だに心臓が痛くて堪らない。血液と酸素を全身に送り出すべく激しく動き続けている。急かされるように呼吸が激しくなる。いい加減早く休ませろ、さもなければこのまま破裂してやるぞ……などという脅し文句すら聞こえる。
破裂するならしてみろ、とクレープは思った。そう悪態をつき続けていなければ……きっともうずっと前から動けない。
徐々に高度が下がっている事にトランは気づいた。
先程までは何もなかった視界――その脇に、ビルの屋上が薄っすらと見えるようになった。
大小様々な建物の凸凹並びが両脇に連なり、それはさらに奥まで、進行方向に続いている。どうやら自分達は大通りの上を飛んでいるようだ。
高度に比例してスピードも落ち、飛行ですらふらふらしている。
クレープが今相当苦しいだろう事は安易に想像がつくのに、それでも自分を抱く健気な細腕だけは変わらず力強いのだ。
「……もういい、いいから降ろせってクレープ! リチウム達のトコに行きたいんなら俺が抱えてでも連れて行って……」
痛々しさにたまらずトランが告げた時だった。
衝撃が二人を襲う。
『な……っ』
クレープの身体が大きくぶれた。
バランスを崩し、そのまま真っ暗な地に落下……するのを辛うじて堪えるクレープ。
「どうした!?」
「なにかが……ぶつかってきて……」
その言葉を遮るように、二度目の衝撃がきた。
「……っ」
「クレープ!」
視界脇に落下していく黒い影をトランは捕らえた。
が、闇に紛れる寸前でその姿は消失する。
素早く周囲に視線を巡らすと、並んだ建物の屋上を流れるように跳躍する黒い影が三つ――いや、今、四つに増える。
黒獣は『転位』を繰り返し自分達の後を追ってきていた。
着かず。離れず。
「しつっこい……っ」
クレープがかすれた声で悪態ついた。
その細腕を、なにか……生暖かいものが伝って、トランの頬に落ちる。
静かな衝撃。
拭えばぬるりと生々しい感触がした。僅かに広がる鉄の匂い。
「クレープおまえ……っ」
「トランちゃん黙って! 集中できない」
クレープは背中を大きく裂かれていた。
体内をさらに激しく打つ鼓動。傷口が脈打つように痛む。
再び、背後に転位した黒獣がその無防備な細背へ太爪を繰り出した。
気配を感じ、クレープが回避するも……間に合わない。
「…………っ」
あがる、声無き悲鳴。
「クレープ!!」
衝撃が伝わりトランが絶叫した。
返事の代わりか、クレープは抱えた身体をぎゅっと抱きしめる。
柔らかな感触。その想いが、背中越しに伝わる。
「…………くそ……っ」
なおも跳んでくる黒い影へ、トランが左手を突きつけた。が、望む感触は得られず、いつもの衝撃は生まれない。
先程と変わらぬ微弱な炎が力なく宙を焦がすだけで、脅威には到底届きそうにもない。
だが、トランは諦めなかった。
「……さっさとこい……!」
左手首を右手で、爪痕が残る程強く、掴む。
微弱な炎は、存在し続け――
……もっと。
もっと、もっと、もっとだ……っ
まだ足りない……っ
トランは必死に、全神経を掌に集中させ続けている。
「――トラン、ちゃん……っ」
無理だ。
恐らくは……本当に、後僅かなのだろう。だが確かに今、自分の手にぴたりと吸い付いたグローブは発光している。
だから、幾ら頑張ったって、それ以上は――
(クレープさん……っ)
もう先程からずっと、内で自分の名を呼び続ける鈴音が聞こえている。
「……っ」
このままいけば、嬲り殺されるのは目に見えていた。
……いや。向こうはこちらを殺すつもりは無いのかもしれない。
だが、トランは危ない。魔族の狙いはグレープであって、それ以外はどうでもいいはずだ。
元来魔族というものは破壊願望が強い。気性は荒く、その位は単純なる力比べ。魔界とは力量がものを言う世界なのである。
そんな魔族にとって、魔力をもたない人間という存在がどれだけちっぽけに映る事か。聞かずとも知れる。先日の大蜘蛛がいい例だ。彼らは、魔族>人間という図式がそのまま常識であり、それを覆されるという事は即ち、自分は総ての魔族より劣る、そう証明されたと同じ事なのである。
その『ちっぽけな人間』に属するトランがここまで彼らの目的を邪魔したのだ。無事で済まされる訳がなかった。
どちらにせよ、このまま飛んでいても結末は見えている。
クレープは、せめてトランを無事に地に下ろそうと降下した。
と、その視界脇に影が映る。
避けようとしたが間に合わない。黒獣に思い切り横殴りに体当たりされ……その激しい攻撃に思わず目を瞑る。
「……っ」
歯を食いしばって幾度目かの衝撃を堪えようとしたクレープ。
だが……意図せずして両腕の力が抜けていく。
「…………!」
まだ地は遠い。
絶対に離すまい。僅かにずり落ちてゆくトランの身体を追い求めるようにクレープの身体は、がくん、がくん、と二度、大きく下がる。
「クレー……」
決して離すまい。……離すものか。
この手を離す位なら――
「……、ごめ……トラン、ちゃ」
かすかな言葉尻も待たずして、制御を失くした二人の身体は闇の中――重力の元に放り出された。
「…………!!」
遥か地に向かってのフリーホール。
バタバタとすごい音をたててコートがうねる。
上昇時よりも凶暴な風が身体を殴り、ろくに目も開けられない。呼吸が止まったのはいつだったか。
落下の間、諦めが悪いのか、それでも細い身体が己を守るように強く抱きしめるのを、トランが振り払うように乱暴に自分の下へ引き寄せた。
予想していた抵抗は……しかし、なかった。
熱い身体。か細い息。片手でクレープの背を、もう片方の手でクレープの頭を抱え……力を入れてしまうと折れてしまいそうな程か弱い身体だったが……それでも離さぬ様しっかりと自身の胸に押し付けた。
「…………く」
一瞬でも気を抜けば意識を喪失しかねない程の恐怖に身を委ねながらも、凍えるような豪風の先へ挑むように目を見開く。
月光は弱く、暗闇で距離感が掴めなかった。だが、確実に地が迫る感覚が全身に押し寄せる。
眼下は大通り――アスファルトだ。この速度で叩き付けられれば怪我ではすまないだろう。成す術もない。だが――黒い瞳は決して諦めなかった。
諦めた先に迎えに来るのは、この闇よりもなお深い混沌だ。
そんな中に彼女を――彼女達を曝すなんて、考えられない。
――改めて考えてみて。炎帝の属性。
単に炎を放つだけが能じゃないかもしれない。
……状況を、打破出来るかも知れない――
まだ幼い少女の凛とした声が脳裏に蘇る。
……考えるのは苦手だ。
特に石に関して、自分は知らない事が多すぎる。
……いや。知らなくても良い、と。そう思っていた。
『炎帝』を持っているのも、「彼女」との契約の為で、それは自分の意思ではない。
今自分がここに生きているのも、「彼女」との約束を果たす為で、それは自分の意思ではない。
どこかできっとそう思っていた。……逃げていた。
状況を、打破出来るかも、だって……?
打破、してもらわなければ困る。
自分はこんな所では死ねない。
果たさねばならない約束がある。
いや、それ以上に……自分はまだ、彼女と一緒に居たい。
彼女は死なせない。
こんな所で失いたくない。
あの鈴声を、あのルビーのような瞳を…………あの春を思わせる柔らかい笑顔を。
――……思い出せ……――
そう、どこかで声を聞いた。
己の内から、確かに、声が響いた。
その低音は初めて聞くようでもあり、どこか懐かしさを帯びているようでもあり。
波紋のように、己の内に、意識の根底に、静かに広がる――
――そうだ。
自分(己)は、『彼女』を守るためにこそ、ここに存在しているのだ――
覚醒は永遠で刹那。
瞬間、見開いた双眼は赤く。
二人の身体が地に叩き付けられる、その寸前。
闇の街に、月光よりも眩く日の光よりも鋭利な強い赤光が瞬いた。