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トランという対象を失った三本足の黒獣は、後方から迫ってきていた足蹴りを避けると、新たな目標に速攻を仕掛けてきた。
腹部に体当たりを受けたリチウムは大きくよろめく。そのまま黒獣に圧し掛かられアスファルトの道路に仰向けに倒れてしまった。
衝撃に思わず瞑ってしまった青眼を瞬時に見開くと、視界一面に黒い塊――濃く、薄く、太く、細く、毒々しい赤の線が血管のようにびっしりと張り巡らされた闇が広がっていた。生々しく異様なコントラスト。千切れた首の残虐な切断面が醸し出す濃厚な「死」の匂いにリチウムは顔を顰めた。その姿はいよいよ死刑執行人を思わせる。
頭上より鋭利な太爪が今、リチウムの胸を抉ろうと目前に迫り――
「……っ」
リチウムは腰を曲げ脚を黒獣の腹下に滑り込ませると、後ろ足だけで立っていた黒獣の腹に足裏を付け、全身をバネにして蹴り上げた。
大したダメージもなかったか即座に体勢を整えるとすぐさま飛び掛ってきた黒獣をリチウムは横に跳んで避ける。受身をとって転がった先は歩道。追ってくる黒獣に対し、立ち上がったリチウムは外灯に左手を付けた状態で向き直った。
その左手から漏れる、黒い霧。
『死球』を手の中で発動し、外灯を折る。
巨大な鉄の棒を両手で持ったリチウムは、全身を使ってフルスイング。頭上に迫った黒獣を横殴りに叩く。勢い任せに手を離すと程なくして派手な音と軽い地響きを立てて少し離れた位置に鉄の棒が転がった。
人体に行えば肋骨がイカれる……どころでは済まない攻撃。それでも、宙で身をくねらせ、なんとか外灯の下敷きになる事を逃れた黒獣。しかし、割れて飛び散った外灯の先端――その破片を全身に浴びたようで、起き上がった黒い身体の至る所に、後方に建つ外灯の光を受けて反射するガラスの僅かな輝きと出血が見られる。俊敏な敵の動作が一瞬止まった。これを見逃すリチウムではない。
『死球』が効かない(というか、届かない)相手に有効な、リチウムの最大の武器は、百八十八センチという長身にも関わらず超人並みに軽いフットワークだ。
全力疾走して勢いづけると、アパートの壁に足を掛け高く跳躍する。
落下する長い足は僅かによろけている黒い獣を完全に捕らえていた。
が、目標はすぐさま反応する。
転位し一瞬で場から消失した黒獣が、着地し無理な体勢のリチウムの頭上に現れた。
全身に黒い塊の血液を浴びて、状況を把握するリチウム。
「~しつっけぇ……っ」
ボヤき、繰り出される太い爪を抜群の反射神経で交わすリチウム。そのまま身を翻すと、何も無い自身の背後へ廻し蹴りを放つ。
と、
「ぐ……!」
丁度足を放った所に転位してきた黒獣の腹部に直撃した。
黒い塊はアスファルトに転々と躰を打ちつけながら転がった。その先の歩道に沿って並ぶ建物の一歩手前で、それはようやく止まる。
「頭が無いんじゃあ攻撃手段も限られる。しかも主力となる前足は一本だけ。行動がパターン化しちまって、折角の敏捷性も意味無ぇわな」
体勢を整えるリチウム。
頬や腕、脚……あちこちを伝う生暖かい感触。自覚すると同時に痛覚が、リチウムの全身に広がった。
一体いつやられたのか、全く見当がつかなかった。
舌打ちして、頬を流れる鮮血を汗と共にぐいっと拭う。
そこへ、聞こえてくる濁った声。
「成程。一理あるな……」
少し離れた位置まで飛ばされていた黒獣はしかし、何事もなかったかのように体を起こしリチウムと対峙した。
「…………」
暴れる鼓動、上がる息を無理やり抑え、整えながらリチウムは眉を潜めた。
先程から、リチウムの体術は悉く黒獣を打っていた。
黒獣の動きは確かに速い。肉眼で捉えられない程だ。大型犬並みの胴体の動きはしかし、猫科の肉食獣が獲物を狙うように凶悪にしなやかで、俊敏だ。
加えて『転位』の能力は厄介だった。
最初の内は、何処から繰り出されるか判らぬ攻撃に対し、慎重に対応していたリチウム。なかなか攻勢に移れずにいた。
が、奴には頭部が無いのだ。
犬型の黒獣にとって、恐らく最大の攻撃であろう「噛み砕く」事が出来ないのである。
したがって、攻撃手段は「爪で裂く」か「体当たり」のどちらかに限定される。
しかも、黒獣の纏っている異質なオーラと微かな殺気を感じ取る事で、比較的、出現場所の予測は楽だった。
尤も、予想がつくからと言って迎撃出来るとは限らない。
例えば『魔眼』を使えるリタルなら、黒獣の動きを捉える事など訳ないだろう。が、視えていたって黒獣のスピードに身体がついていけなければ意味がないのだ。
これまで黒獣を相手に互角以上の戦いを繰り広げているリチウムは全く超人的な反射神経の持ち主だと言える。しかし、リチウムは特に戦い慣れしているという訳ではない。彼の繰り出す一撃一撃の与えるダメージは致命傷には遠く及ばないものばかりだろう。
それでも、数えるのも馬鹿馬鹿しくなる程の回数、リチウムは黒獣の体を吹っ飛ばしていた。
実際、その濁った黒の躰はあちこちから出血し、僅かながらふらついているようにも見受けられる。
だが。
これだけ一方的にやられている中で、黒獣は微塵の動揺も見せない。
焦燥や狼狽もない。
疲労。緊張感すらない。
……というより、今この状況でもどこか余裕が見られる。
奴には痛覚が無いというのか。
それとも……。
そう、考えを巡らせていた時だった。
「……なに…………?」
小さく呻いたのはリチウムの方だった。
変化があまりにも唐突に起こった為だ。
「…………」
――身体が、動かない。
首、腕、脚、指の一本まで。まるで自分の物では無いかのように、芯まで完璧に凍り付いてしまった。
総ての神経を絶たれてしまったかのよう。僅かな振動さえ起こすことが出来ない。
一瞬で身体の動かし方を忘れてしまったのではないかと疑わせるほどに、肉体は微動だにしなかった。
辛うじて動くのは、顔――目や瞼、口だけだ。
「忠告に従い、主旨を変えよう」
黒獣の濁った音が随分近くで響いた。
目前に迫るその太い爪は今度こそ、左上から右下へ、リチウムの胸を一閃した。
「……っ」
血の飛沫と、声の無い短い叫び。
しかし抉られた傷は、内臓に到達する程深いものではなかった。
生きている事を不思議に感じる暇もなく、さらに左頬を一閃。
「く……っ」
動かない首。衝撃を総て受け入れるしかなかった。
苦痛に歪む青い瞳が相手を睨みつける。
「嬲り殺す事にしよう」
冷酷な声に「なるほど」と納得すると同時に、さらなる疑問がリチウムを襲う。
が、すぐさま次の一閃が走った。
腹、腕、脚。
抉る度に短い叫びと出血が飛び散り、黒い獣を濡らす。
執拗に鋭利な爪が通い、衣服――特に白いシャツはボロボロになってしまった。どす黒い赤に染められた生地はずたずたに切り裂かれ、もはや肩口に引っ掛けている状態だった。
整った顔を歪ませ荒い息をつく男は今やサンドバックよりも上等な的だ。しなやかな筋肉を纏った総身で、衝撃を逃がさず総てを受け止め忠実に苦悶の声を漏らす。
……いや。
微かに生じた違和感に、黒い獣が飛びのいた。
「……ちっ」
息を乱したまま、己の血に染まった男が小さく舌打ちする。
いつの間にか。リチウムの身体を覆うように薄い闇のベールが存在していた。
気づかず黒い獣が身体を嬲っていたらその手は瞬時に消失していただろう。
「『死球』……まだ使うか」
リチウムの左手で煌々と輝く闇を目にし、黒獣は僅かに驚異の入り混じった声で呟く。
どの傷も致命傷ではない。が、そのどれもがかすり傷とは異なる。抉った際に飛び散った、また身体を伝って歩道に落ちる夥しい出血量がそれを物語っていた。
全身を刻まれ、それでもまだ強力な魔石を操る集中力があろうとは。
そこで――黒獣は、自身を貫く鋭い青の眼光にようやく気づいた。
――この位ではこの人間は死なない。
諦めない。
自分が、この人間をどこまで甘く見ていたか――その愚かさを痛感させるには十分な光だった。
リチウムの目の前の空気が僅かにぶれる。
と、自らを覆うようにして作った死球のベールの一部に穴が開いた。
左腕の付け根辺りだ。
薄い……だが、如何なるものも阻止する最強の盾が取り外されたそこへ、黒獣の太い爪が伸びる。
死球を腕毎切り落とす気か……!
咄嗟に判断し死球のベールを練り直すも、一度剥がされたその部分には何度やったってベールは張れない。
逃れようと滅茶苦茶にもがくが、それはやはり無駄な足掻きだった。
「……くそ!」
黒い塊が、確実に放つ一撃。
喪失による凄まじい痛みが走る寸前――
「~リチウム!! 援護するわ」
甲高い声が緊迫した状況を裂いた。
全身を緑色の輝きが包む。
同時に、身動きの取れるようになったリチウムがその場に崩れるようにしゃがみ込んだ。
頭上を刈る音。
自分の真上に位置していた黒獣の腹部に左掌を付け、リチウムが瞬時に意識を集中した。
ゼロ距離からの『死球』発動。
「……っ」
黒獣の胴体が呆気なく二分割した。
ぐしゃっと水分を含む潰音。瞬時に、血と胃液の混ざり合ったむせ返るような異臭が辺りに充満する。
尻尾が付いた方の足が、リチウムの前方に力なく落ち、その場に血溜りを生む。
一寸遅れて、後方でびちびちと、小さな何かが雨のように地に落ちる。
何もついていない方の一本足は、着地――というよりもそれは落下に等しい――した後、臓物と血を撒き散らしながらなおもリチウムの背目掛けて飛びかかった。
「だから……っ」
もはやスピードの伴わない単調な攻撃を避けるのは容易だった。
「しつっけぇんだよ!!」
リチウムは最後に残る一本脚を左手で掴むと、再び『死球』を発動させる。
僅かな闇が胴体から足を取り外した。
再び、水気を含んだ何かが潰れたような音をさせて――今度こそ黒い塊と化した胴体が地に沈んだ。
「~く……っ」
悔しげな声に、しかし死の気配は微塵もない。
舌打ちして一歩、さらに一歩と、鮮明な痛みを無視して歩み寄るリチウム。
辺りに立ち込める悪臭とブーツの底で潰れる四散した内臓の感触が、より気分を不快にさせる。
顔を顰めたままよたよたと近づき、もはや動けぬそれを潰すべく、リチウムが片足を振り上げた。
「リチウム待って」
冷静な声。
振り返ると、すぐそこまでリタルが来ていた。
「疲れてるとこ悪いけど、そいつ、出来る限り特大の死球でとどめをさして」
「……おまえな。リクエストする前に満身創痍の俺様を労わって……」
ボヤこうとその目を見るも、碧眼に灯った色は真剣だ。
「訳は後で話すわ。死なない内に早くして」
あくまで声は冷静だったが、注意深く聞けば、そこには僅かな焦りの色があった。
「……リタル?」
リタルは思い出していた。
数日前に戦った、やけにお喋り好きな相手の言葉を。
――自在に行き来できる者が居るとすれば、おまえの持つ転位の力と同等の能力を持つ者だけだろう――
そう。
人界そのものに喧嘩を吹っかけてきた訳では無論ない。
リチウムの『死球』を狙ってやってきたのなら、ここまで時間をかけて仕留めようする道理もなかったはず。つまり。
……これは、大掛かりな陽動作戦だったのだ。
「一か八かよ。やってみたことないから、できるかどうかもわからない。でも失敗すれば――グレープを助ける術がなくなる」