《21》-《23》
《21》
「聞き分けのない!」
「それはどちらよ!」
声を潜めて怒鳴り合う。ルーシャンとスノウである。
スノウが話を切り上げたくとも、ルーシャンがそれを許さない。
埒があかないと眉を立てたスノウは近くの部屋にルーシャンを引っ張り込み、部屋に防音の魔法を張り巡らせた。
ルーシャンを再び密室で二人きりになることに抵抗はあったが、人目の方が気になる。声を潜め、周囲に気を配っていても、会話に意識を半ば奪われているのでは疎かになる。スノウはルーシャンを奥に押しやり、自分は扉をすぐ後ろにして立った。
「いい加減にしてくださる? もういいと言っているでしょう。わたくしに構わないでちょうだい」
「いいえ。貴方を人間界に連れて行きます。それが貴方の望みなんでしょう?」
「結構よ!」
「そうはいかない!」
「聞き分けのない方ね!」
「それはどちらですか!」
ループした。
スノウは唇を引き結んで、ルーシャンを睨む。しかしルーシャンに怯む様子は微塵もなく、揺るぎない若緑の目には強く熱い使命感が燃えていた。
そう、使命感だ。
悪界からこどもを救い出さねばという、やさしく、すぐれた、勇者にふさわしい使命感だ。
ことの発端は、三ヶ月に一度のいつもの昇任試験だった。
たとえ勇者一行というイレギュラーの存在があっても、試験は滞りなく行われた。むやみに中止すればその不満の矛先は間違いなく勇者達に向かうだろうし、また彼らに魔族の力量を見せつける機会にもなるだろうという思惑もあったようだ。
昇任試験に先立つ数日は試験に向けての挑戦者を絞る期間となっていて、祭りの前のようなざわめきが魔王城にはずっと立ちこめていた。事実この期間を娯楽として楽しんでいる魔族も少なくない。ただし祭りというには熱気には殺気が混じっているし、少々血生臭い。
マリーとラモーナはすっかりうんざりしてしまったようで、二人一組での行動を基本としている勇者一行は、本日は男女ペアに分かれ女性二人は探索と称して城外に出ている。
一方の男達は、剣を扱う者らしく一定以上の興味を持って観戦の側に回っているらしい、ということはスノウも聞いていた。聞いてはいたが特段の感想はなく、テオドリクに目を付けられたら巻き込まれやしないかな、とそんなことだけを思った。
そしていつも通りノルマをこなし、さっさと闘技場を後にして、今日は早く退城させてもらおうなどと考えながら足早に進んでいたところで、背後から距離を縮める足音を聞いた。何かと振り返るより先に強い力で腕を引かれ、その勢いに合わせて頭を振れば、そこには険しい顔をしたルーシャンがいた。
一瞬怯んだが、無礼をなじる言葉を口にしようとして、
「まさかいつもあんなことをしているのか!?」
と先に怒鳴られた。
ここでも問題の種は、人間の常識に照らしても、魔族の常識に照らしても、こどもとしか判断されないセツの外見にあった。「あんなこと」とは、戦闘行為ではなく、その後の捕食行為を指していたのだ。
しかしこどもとは言え淫魔である。最初スノウは笑った。
「種族としての生まれながらの習性に、幼さなど関係なくてよ」
「ではなぜそんな姿を取る必要があるんですか」
「メリットが多いからに決まっているでしょう」
スノウは肩をすくめてみせる。
「それでそんな姿でここに?」
「強くて上質な餌に、もっとも事欠かない場所でしょう?」
「淫魔は力を喰らうほど強くなれるそうですね」
「あら、よくご存じ。力を求め続けるのは魔のならい。やはり、幼さなど関係なくてよ。わたくしは自分の欲求に素直なだけ」
ふ、とスノウは鼻で笑ったが、ルーシャンからは期待したような反応は返ってこない。責めるようにスノウを睨んでいるだけだ。
「その試験とやらでは、挑戦者の数を決めるのは挑戦を受ける側だそうですね。貴方は誰が何と言っても、常に一人しか受けないとか。矛盾では?」
「……わたくしは、もう十分強いのよ」
「“力を求め続けるのが魔のならい”なのに?」
「……」
「今が例外なだけで、貴方は普段ほとんどこの城にいないそうですね。なんでも……」
一度言葉が途切れて、ルーシャンの眉間の皺が深くなった。
「屋敷に籠もって淫事に耽っているそうですね」
「仕事よりプライベートの充実が大事なの。それにしても、勇者様のお口から淫事に耽るだなんて言葉、ふふっ、いやらしい」
唇に指先を添えて笑う揶揄も、やはり無視される。
「その、貴方が引きこもって楽しくプライベートを充実させている間、代わりにセツさんの外出頻度がまま上がるそうですね。大抵用件は、餌の餌の買い出しだとか」
揶揄を無視して言葉を重ねられ、スノウの眉がキッとつり上がった。嫌味な物言いも、回りくどい物言いも、いい加減うんざりだ。
「だから結局なんだと言うの。何が言いたいのか、はっきりおっしゃいな!」
ルーシャンは言った。ためらいもうかがいもない、断定の声だった。
「貴方、本当は嫌なんでしょう」
スノウは咄嗟に何の言葉も出てこなかった。腹の底から沸き上がった言葉を押し込めるのに精一杯で、上辺の言葉を用意する余裕がなかった。
つまりそれが答えなのだと、言っているも同然だった。
《22》
「なぜも、なんのためも、わかりません。でも貴方は本当は、この城にいることも、戦うことも、誰かを餌として喰うことも、全部、嫌なんでしょう」
うるさい、とスノウは思った。そんなこと言葉にしないで欲しかった。嫌、だなんて言葉を、そんな言葉がすぐそばにあることを、考えさせないで欲しかった。拒絶しても逃げられないのに、拒絶したら弾かれるのは私の方なのに、どうして、そんなこと!
茫然と薄く開いた唇から、鋭く息を吸う音がする。
それをどう判断したのか、ルーシャンは僅かに目を細めた後息を吐いた。溜息だった。
「ずっと考えていました。どうすべきか。貴方の提案を呑むべきか、それともただ吐かすべきか。どちらもさほど労力が変わらないなら、何で選ぶべきかと」
「……」
スノウから情報を吐かせることは、勇者にとっては「労力が変わらない」と事もなげに言えてしまう程度のことらしかった。肝が冷えた、という意味で幾分気持ちを落ち着けたスノウは、無言でルーシャンをうかがった。
「決めました。たとえ魔族であっても、貴方のような少女が、意に添わぬ環境で戦わされ、他への口づけを強制され、男達のあのような目に晒され続けているなど、見過ごすことはできません!」
「……」
怒りと痛ましさを同居させた鋭さで言い切ると、ルーシャンは耐えがたいとでもいうように目を伏せて首を横に一度強く振る。
(……ムル?)
『うむ、ユキコはよく信仰を集めているぞ!』
考えても駄目だし、気にしても駄目だ。何もできなくなる。――いや、しなくても、よくなるのだろうか? ルーシャンの言葉が、スノウの頭の中できちんと像を結んだ。
はたと瞬き、少しだけ目線の高いルーシャンの顔を改めて見る。視線が合い、男は頷いた。
「その代わり、貴方のことを私の仲間達には正直に話してもらいます」
ここからまた、話は平行線に立ち戻った。
そして遂に埒があかぬと、場所を室内に移したのである。
《23》
「繰り返して言うわ。わたくしはわたくしのことを誰に話すつもりもないし、人間界に行くまで聖獣のことを話すつもりもなくってよ。そうではないなら、このお話はここでお終い」
ルーシャンは眉根をきつく絞っている。
「なぜそうまで頑ななんですか。そもそもおかしいでしょう。話の真実を証明できるものはない、情報は人間界に連れて行ってくれるまで話さない。そんなもので本当に、誰かと取引できるつもりでいたんですか?」
そこをつかれると痛かった。あの時はもし上手くいけばと本当に思っていたが、今考えてみればとんでもない無茶苦茶だ。スノウ自身だって逆の立場なら拒絶するだろう。
うっと押し黙ったスノウを見て、少しだけルーシャンの眉間の皺がやわらいだ。スノウからすれば、それもまた腹の立つ顔に変わらない。
「ならばはっきりわたくしを嘘つきとおっしゃいな。偽りを破る勇者様なのだものねえ」
刺々しい言葉に、ルーシャンは淡く苦笑した。そして、それは勇者の持つ魔法の特性で、魔法的要素のないものには役に立たないのだと説明した。
「あらそうなの」と冷たくあしらったスノウは、実はそのことを既に知っていた。ムルに教えてもらったのだ。だからスノウは真実を偽りだと疑われる代わりに、嘘をつくこともできるのである。
「でも嘘だと思っているのでしょう? 嘘つきなどと交渉するものではなくってよ、勇者様」
「魔法などなくても、人の言葉の裏表を判じる程度の力はあります。……聖獣の話は確かに貴方の切り札でしょう。でも、その姿のことまでそれほど頑なに嫌がるのはなぜですか」
既に私にはばれてしまっているのに、と怪訝な顔をしたルーシャンは言外に言っているのだろう。
「中途半端な駆け引きより、本当の姿を明かして連れて行ってくれと言う方がよほど信頼がおけますよ。……私達人間は、弱者というだけで全てを切り捨てる魔族とは違うのです。いえ、同じ者もいますが、少なくとも私達は違います」
他の三人の仲間達も自分と同じ心根を持った人間だ。だから貴方の真実と現状を知れば必ず力になってくれる――。
「事情を、話してくれませんか?」
「お断りよ」
返す言葉は即断だ。
「貴方に知られたことだって、もう十分不愉快なの」
「では耐え続けると? そんなにも嫌なのに?」
まただ。また、嫌、なんて言葉を使う。
スノウは奥歯を強く噛み締めた。しかしそれでもすり潰せなかった唸りが唇を割って、
「……嫌よ」
そうして一度零れたら止まらなかった。
「そうよ、嫌よ。嫌。全部嫌。魔界とか魔族とか魔法とか、全部! 嫌! でもね、一番嫌なのはあんたの目よ!」
スノウはルーシャンを睨み、平手で自分の胸を叩く。
「その目! この私が、セツだと思ってる! スノウをセツだと思ってる! だから、かわいそうだって、思ってる。そんなのいらない。そんな見当外れの同情いらない。だって、私はスノウじゃないのに! スノウは私じゃないのに! もういい帰ってよ。人間界に帰って。聖獣の話も嘘でいい。もういい! 嫌!」
その感情と向き合ったら何もできなくなるとわかっていた。だって「嫌」なものしかない。「嫌」なことしかない。ひとつ拒絶することを自分に許したら、全てを拒絶するしかなくなる。でも全部拒絶して、どこに行ける? 一体どこに逃げられる? 逃げられないという事実をつきつけられることさえ「嫌」なのだ。
わけのわからない世界が「嫌」。意味のわからない生き物も、理解できない不思議も「嫌」。
自分をこんな目にあわせたムルが「嫌」。でも、一人になるのも「嫌」。
帰れないなんて認めるのが「嫌」。ここでずっと生きるのだと覚悟を決めるのも「嫌」。
争いごとは「嫌」。戦うのは「嫌」。血を見るのも、血を流すのも、誰かを傷つけるのも、傷つけられるのを見るのも、それを当然とする世界の中に生きるのも、その仲間だと思われるのも、全部「嫌」。
――これが、現実だと、信じるのが、「嫌」。
スノウは、アバターだ。仮想現実を生きるアイコンのようなものだ。全てが嘘だ。
彼女は嘘で世界に接し、世界は彼女の嘘に接しているだけだ。本当のように見えても、現実のように思えても、でもそこにはまやかしのフィルターがかかっていて、“本当の彼女”はそこにはいない。演じている偽りの彼女しか、スノウの中に宿っていない。
スノウは嘘だ。スノウの世界は嘘だ。だから、……だから大丈夫、私は、こんな世界に馴染んでいない。ここはスノウの世界であって、私の世界じゃない。私の“本当”じゃない。
それなのに。そうでないと「嫌」なのに。
ルーシャンの目は、スノウをセツだと言う。違うとどんなに説明しても、雪子を知らない彼には多分理解できないだろう。彼の目は、彼女の偽りを破って、世界をセツに押し付けようとする。スノウの世界が、セツの(つまり雪子の)世界と同じものなのだと、スノウの全てはセツが成したことなのだと、彼女につきつけようとする。
『ユキコ』
うるさい。
『ユキコ!』
うるさい。
『魔法が破られるぞ!』
きん、と背筋が冷えるような耳鳴りがして、うずくまって耳を塞ぐスノウの背後で扉が開く。
「防音まで張って、どんな内密話をと思いましたが、……本当に、何をしているのですか?」
冷徹な第二軍団長の声は、珍しく困惑していた。