《15》-《17》
《15》
『おい、ユキコ、何を考えているのだ』
(勇者と交渉するの)
結局。
何を考えても最後に残るのは、やはりそれでも人間界に行きたいという気持ちだった。
だが自らの正体を明かすことは避けたい。よくて戦争の手駒、悪くて抹殺だ。そして中間が予想できない。
(ムルを渡したら、私こんなとこで一人で生きていけない)
『我にユキコの側から離れる意思はないぞ』
(でもムルが出て行かなきゃ、戦争になる)
『待てっ、勇者は……――』
スノウは、ムルの声を遮断した。短時間しか叶わないことだが、今はその短時間頭の中で騒がれたくない。
勇者の一行は男女別二組で二室を客間として与えられていた。スノウがノックしたのは、勇者と戦士の部屋である。
「勇者様。四軍団長のスノウよ。少々よろしいかしら?」
同室の戦士も、また廊下向かいの部屋の魔法使いと神官もいないことは確認済みだ。いくら客室内とは言え、魔族ばかりの城の中で人間が単独行動とは随分暢気だというか、自信過剰だいうか、そんな風にも思うが、だからこそ二人きりの機会を得られたのだから文句はない。
ややして少し驚いたような顔が、スノウを迎えた。
「一体どうされましたか」
「少しばかり勇者様に内緒話があるのだけれど、聞いてくださらない?」
途端に警戒の光が瞳に宿るのは仕方のないことだ。スノウは下手に動かず、ただほんの少しだけ小首を傾げてみせる。
「言われる前に先にもうしあげておきますけれど、あえて勇者様しかいらっしゃらない時を狙い澄まして来ていてよ。是非、お聞きになるべきだと思うわ。――貴方がたがお探しの聖獣のことよ?」
一拍の間の後、ルーシャンが歩を横にずらし道を開けた。
どうぞという声掛けに、スノウはにっこり微笑んでみせる。
スノウが広い客間を一眸し椅子に目を止めたところで、先手を打つように「椅子は勧めませんよ」とルーシャンから声を掛けられた。
振り返れば、壁にもたれかかって軽く腕を組む姿がある。眼差しも声色も穏やかなのに、だが、それだけだ。
スノウはちらりと椅子を省みて、結局座らずに軽くテーブルに腰を預けるような形で立った。スノウのキャラクターで言えば、悠然と微笑んで椅子に腰掛けるのが適当だが、少しでも穏当に交渉を勧めたい気持ちが勝った結果だ。
「では単刀直入に。わたくし、貴方がたがお探しの聖獣の居所を知っていてよ」
「それをわざわざ私だけに隠れて告げる意図はなんでしょう」
「まずは貴方に話を通すべきかと思いまして。ね、わたくしと取引、いたしましょう?」
ルーシャンが訝しげな皺を眉間に刻む。
スノウは軽く微笑みながら、片手を胸元添えて、言う。
「わたくしを人間界に連れて行って」
「お断りします」
即断が来た。
くっと眉を顰めるのはスノウの番だ。
「随分とつれないことね」
「私達から奪っておいて、取引とは随分と都合のいい言葉ではありませんか」
「誤解ね。わたくしが奪ったのでもなく、わたくしが隠したのでもなくってよ。わたくしは、ただ、知っているだけ」
考える間があった。仮初めの友好を取り払った眼差しでスノウを捉えたまま、ルーシャンは微動だにしない。スノウも彼の目を真っ直ぐに見返し、そらさずにいた。
すうっと若芽の色が細まり、その代わり鋭くなる。
「では、情報を」
「お断りよ」
ふ、とスノウは吐息で笑う。
「わたくしを人間界に連れて行って、と言ったでしょう。聞き逃げされたら、たまったものではないわ」
ルーシャンも笑ったが、スノウよりももっと剣呑の色が強い。いっそ、獰猛だ。
「私も、運び逃げされたらたまったものではありませんよ?」
「あらでも、わたくしは譲歩しなくってよ。だって、駄目なら駄目で別にどうしてもというわけでもないのですもの」
だってそうでしょう、とスノウは微笑みを崩さない。
「聖獣が見つからなければ、いずれ戦争になりそうだわ。そうすれば、どの道、誰かが人間界への侵攻の道を開くでしょう」
「ではなぜ?」
「戦争なんて面倒臭いじゃないの。興味ないわ。わたくしはその辺にゴロついている戦狂いの脳筋ではなくてよ。でも、だからって、無償で施しを与えるほど人間が好きでもないの。――けれどそう、もし、お互いの利害が一致するのなら、良い道もあるのではないかと思って、ね?」
また沈黙。見透かされるような視線に耐えながら、じりじりとスノウは返答を待った。
交渉と呼ぶのも恥ずかしい無茶苦茶ではあったが、これがスノウの思いついた精一杯だった。
「……私は、初めて貴方がた四人を前にした時、貴方が一番気になりました」
ぱちりとスノウは瞬いた。何の話だか瞬時に理解できなかったからだが、瞬き一つの後、彼女は慣れた笑みを浮かべた。聞き慣れた賞賛の科白だと思ったのだ。
「あら、それはどうもありがとう。勇者様に褒められるだなんて、光栄でしてよ」
「貴方を一番信用しがたいと思った」
え、と思う間はなかった。
「そんなスカスカの外面で、一体何を偽っている。まずは正体を現してからものを言え」
ルーシャンの姿をスノウは目前に見た。
生皮を剥がされるとはこんな痛みのことを言うのだろうか、とセツは思った。
《16》
「――、」
ルーシャンは声もなく硬直していた。
巧妙に姿を偽る魔族の、文字通り化けの皮を剥がしてやったはずだった。いや、剥がしたのだ。その結果が目の前にはあり、だからこそルーシャンは身を固めていた。
悲鳴をあげることもできずにその場に崩れ落ちたのは、黒髪の、どう見てもこどもだった。魔族ではあるだろう。だが豊満な肉体をこれ見よがしに誇り、自らの優位を疑わぬ仕草で唇を歪める女の正体としてルーシャンが想定した中に、ぼろぼろと泣くこどもの姿だけはなかった。
セツの全身をぶるぶると震わせるのは激しい痛みだった。少し離れた位置に転がる見慣れたぬいぐるみ、ぶかぶかのドレス、涙があふれる視界の端に映る黒い髪、それらをもってして《融合》が解けていることに気がつくのにしばらく時間がかかる。時間をかけて、事実が痛みと共にセツの中に染み込んでいく。
「ぁ……」
一瞬セツの震えが完全に止まり、また再び恐ろしい震えが全身を舐め尽くした。
そしてその震えが身体だけではなく、心までを完全に押し潰そうとした刹那。
「ユキコ!」
頬を張るような大音声が響き渡った。
「っ!?」
ルーシャンが警戒態勢を取ると共に、部屋中に視線を巡らせる。天井へと上げたその視界の外で、大きな動きの気配を感じ目を戻した時には、セツはたわんだドレスの胸元を右手で押さえ左手にはムルを鷲掴んで扉に駆け出していた。
飛びついた扉のノブを回し、廊下に飛び出す。そのまま駆け出して、しかし数歩の後にセツは人影とぶつかった。
「きゃっ!」
「ッ!!」
お互いによろめいて後ろに下がる。セツがはっと顔を見ると、此方を見て目を見張っているのはマリーだった。
「貴方……」
マリーはセツを上から下まで眺めおろすと、一気に表情を険しくする。睨み付けられたセツはぎくりと体を強張らせたが、後ろからルーシャンの「待て!」と言う言葉を聞いて、マリーの脇をすり抜け駆け出した。
あるいは、逃げ出した。
《17》
ムルは役に立った。極めて真っ当な意味でだ。
城内で働く何人かに姿を見られはしたものの誰にも捕まることなく、セツは人目のない場所で再びスノウに戻った。
そして悠々と城内を行き、道行く者にセツの行方を聞いたのだ。そしてまんまと、服を乱して泣きながら走っているところを見た、という証言を発掘した。あとは容易く、セツが心配だから帰るとそう言えばいい。スノウがセツを大切にしていることは周知の事実だ。
それらをムルの先導に元に成し遂げ、なんとか屋敷に戻ることを得たスノウは、しかし息を吐くこともできなかった。
彼女を追うように、すぐさまエイベルが彼女の邸宅を訪れたからである。
瞬間的に、スノウは事の一部始終がルーシャンの口から語られたのだと思った。聖獣の居所を知っているという話も、人間界に連れて行けと請うた話も、そしてもちろん、セツがスノウと偽っていたという事実も。
だが、エイベルはスノウの顔を見るや、まずこう言ったのである。
「セツ、大丈夫?」
ほとんど絶望の気持ちでエイベルの口が動くのを見ていたスノウは、どの予想とも違う言葉に咄嗟に返す言葉がなかった。
それをどう判断したのか、エイベルの眉が顰められる。それからゆらりと動いた視線がスノウを通り越して彼女の背後にそびえる屋敷を辿った。
二人が向かい合うのは、スノウの邸宅を囲う外門の内と外であった。彼女の敷地を覆う結界は主が許した者以外の侵入を拒む。許した者とはすなわち、彼女の餌たるべき者と、セツのことだ。エイベルの立ち位置はそのルールを完全に遵守しており、屋敷の窓の全てを一眺めした後改めてスノウを見上げた瞳には、何事かを請うような色があり、――つまり、十分すぎるほどスノウを混乱させた。
何も言わないスノウに、エイベルはゆっくりと瞬きを醸した後、「お見舞い」と言った。
「エイベル、お見舞いしたい」
ここまで来てようやくスノウもエイベルが絶望を告げに来たわけではないと認めた。
混乱は残ったままだ。断片的な情報だけで判断して、エイベルが独断で先行してきたというだけの話だと言うのだろうか。確かにエイベルは、セツをとても可愛がっているから。
内心の多大なる惑乱も、“スノウ”という覆いにはほとんど反映されない。それに大いに助けられながら、スノウは緩く首を傾げた。
「あなた、セツのお見舞いに来てくれたの?」
しかし、再び予想に反して、エイベルは首を横に振った。
「エイベル、スノウ、呼びに来た」
「……」
「スノウ、呼ばれてる」
「それは、緊急の事案なのかしら。わたくし、戻ってきたばかりなのだけれど」
あっさりとエイベルは頷く。
スノウは再び暗い雲が胸を覆い尽くすのを感じた。だが、エイベルを相手に逃げ出すことなど不可能だ。いくら魔法があってもこれだけの至近距離で予備動作ゼロでは、反射と瞬発でスノウはエイベルに下る。
スノウの内心などまるで知らぬ顔で、エイベルはとつとつと言葉を続けた。
「とても、緊急。早くしないと、たぶん、勇者、死ぬ」
「は?」