《8》-《10》
《8》
人族と魔族は戦争をしているか。答えは否である。
では人族と魔族の関係は良好か。これもまた否である。やや険悪寄りの、無関心というのが一番近い。
だがそれ以上友好の側にも険悪の側にも天秤が傾かないのは、ひとえに一方の世界に足を踏み入れることが容易ではないからだ。
界渡りと称される魔法は、膨大な魔力を用い、複雑な手順を必要とする特殊な高等魔法である。人族でも魔族でも扱えるものは限りなく少ない。とりわけ魔族について言えば、興味を持つ者さえ少ない。確かに魔族とは、実力主義を標榜し、戦狂いも多い好戦的な種族である。しかし一方で単純明快を好み、面倒を嫌う者が多いのもまた特徴だ。
力を持て余す強者や、諍いの種ならば魔界にも十分落ちている。そもそも人間など一部を除けば、戦い甲斐のない弱くて脆いものだ。となれば、あえて複雑で面倒な手順を踏んでまで人間界に食指を動かす必要性を感じないのである。
これはセツにとって、幸いであり、また不運でもあった。
もちろん平和万歳、戦争など真っ平御免である。しかし、それはつまり人間界に行く機会が全くないということでもあったからだ。
人間界に行ったところで、そこもまた異世界であることには違いない。決して完全に平和でも、容易く生きられる場所でもないだろう。それでも、セツは人間界に行きたかった。人間の世界に生きたかった。
ところが、勇者の話である。
今、なぜ、あえて均衡を崩そうとするのか。それはわからない。だが売られた喧嘩は絶対に買うのが魔族のならい。戦争が始まるのかと思えば不安も過ぎるが、しかしそれ以上に、三年目にして初めて人間界に繋がる糸が見えたことに、セツは喜びを抑えることができないでいた。
つまり、浮ついていたのだ。不注意だった。
「……った」
「ってぇなぁあオイ!」
よろめいたセツは自分の声を掻き消すほどの大声を聞いた。即座にしまったと思うが当然遅い。
胸の前で食材を詰めた紙袋を抱えたセツの目の前には、柄の悪い二人連れの大男がいる。いつものように市場通りの端の方を歩いていたセツにぶつかってきた方の男が片腰に手を当てて見下ろしの前傾姿勢で、眉を吊り上げた。
「おいおいおいおい、目ェついてねぇの? ガキンチョ。普通、ひとにぶつからねェように気をつけて歩かね? それが、人通りの多いトコでの思いやりとマナーってもんじゃねえの?」
周囲に無関心に大声でふざけていた挙げ句こちらにぶつかってきたのはそっちではないか、なんてことはもちろん言わない。ガキンチョ、という発言に関してもだ。こちらの成人平均身長に全く届かないセツが、どんな風に見られるのかは既に重々承知している。
質の悪いタイプに絡まれたな、というのがセツの正直な感想だった。柄の悪さの話ではない。たとえ柄が悪くても、普通に目端が利く者ならばここまでセツに絡んでくるはずがないからだ。
小柄で俯きがちのセツは、何の特別な雰囲気も持たない、見るからに貧弱な魔族である。だが彼女は特別だった。彼女を特別たらしめるのは、薄い水色をした丈の短い袖なしの外套である。冬の湖水のような色は、少しものを知る者ならば一人の軍将の存在を想起させずにはおかない。そしてまた、想起させるための装いでもある。
主の色を大々的に身に纏うのは、その主自身の意思の表れとされる。すなわち、“手を出すこと能わず”。
ならば、湖水色の外套を纏う黒髪の小さな魔族に手を出すことの意味は明らかだ。現に彼らの背後を行き過ぎる人々の目は、無知に対する呆れに満ちている。それが男達に対する呆れだけで、セツに対しては何の感情もなく、誰一人として歩を緩める様子もない辺りが、面倒を嫌い弱者を厭う魔族らしい。
「おい、こいつが来てる上着……。なあ、コレ、スノウ様んとこの奴隷じゃん?」
「あん?」
奴隷じゃないとセツは思うが、これも慣れた誤解である。誤解のひとつや、悪態のふたつみっつで解決するなら我慢する、とも思ったが、男達の眼差しは口を開く前から、セツの期待を嘲笑う様だった。
「へーぇ。これが。けど、だから何だッつーの? いくら偉い人の奴隷だって、悪いことしたら、きっちーんと謝罪しなきゃなんないのは一緒だよなあ? ンン、どうよ?」
奴隷は所詮奴隷だろ、という意識があからさまに透けていた。所詮奴隷なのだから、手を出したところで知れていると。
おそらくこれからどこかに連れ込まれるのだろう、とセツは分析する。初めてのことではない。人目がない方が助かるのはむしろセツである。強大な魔法の使い手としても知られるスノウと、全く同じ術をセツが使えないはずもない。そしてそれをスノウの仕業と細工すれば、またひとつ黒髪の召使いに手を出せば必ずその主から手酷い報復を食らうのだという事実が積み重ねられる。そうやって、彼女はセツとしての安全を確保してきたのだ。
仕方がない、どうしようもない。そうやってセツは覚悟して、無遠慮に伸ばされる太い手を見つめた。唇を噛む。
轟音が響き、男が吹き飛んだ。
《9》
――へ。
と、セツが心の中で一音を作った時、再度轟音が響き、棒立ちになっていたもう一人の男をも吹き飛ばした。一人目が屋台店の商品台を全身で叩き壊し、二人目はその一人目の上に折り重なるようにその身を叩き付ける。そして二人共が呻きながら身を起こすより先に、鋭い風切り音と共に二撃目の拳が叩き込まれた。そして三撃目。さらに四撃目。
風を切る音。肉を打つ音。骨すら損傷を得ている音を掻き消すように、拳を振るう男の哄笑がセツの鼓膜をびりびりと震わせる。
「何だッつーの、ってかァ!? ひッは、魔王軍の団長サマのもんに手ェ出すっつーことはさア? とーぜン、俺等全体にケンカ売ってンのと一緒だよなァ!? いいぜ、いいぜ、買ってやんよォ、ホラホラどうしたァ! 元気ねェぜえ!?」
完全に固まっていたセツの頭に、ぽんと軽い衝撃が来た。弾かれたように身を回してセツが距離を取ると、彼女が元居た場所には中空に手を翳した男が一人取り残されている。きょとんと瞬いたのはセツと男とほぼ同時で、口を開いたのはセツが先だ。
「……エイベル、様?」
「そう」
魔族にしては小柄な男だ。それでもセツより頭ひとつ分は背が高い。浅く被った外套のフードからは、くるくると内に丸まる真白い髪と、それから両の側頭部にある何かが僅かに覗いていた。セツはそれが、髪と同じく内巻きの二本角であることを知っている。眠たげに半ばまぶたを落とした目の魔族は、エイベルと言う名の――第三軍団長である。
となれば残る一人も知れたもので、なるほどそういえば聞き覚えがある声だと、相も変わらずカカと響く大笑の主をセツは振り返った。前に折った身体の向こうに頭が沈んでいるので、髪が見えなかったのが敗因だ。何せ気性を表すような赤髪は、見たことがないほど鮮やかに燃えさかる色をしている。
赤髪の男の笑い声と、拳が骨肉を打つ音以外が聞こえない光景からセツがぎこちなく視線を引き剥がすと、エイベルが宙に翳したままの手とセツの顔を交互に眺めている視線と行きあたった。意味を知りつつセツが動かずにいると、エイベルがやはり手を下ろさぬままに口を開く。
「セツ、一回」
「……」
「セツ、見つけたの、エイベル」
「……」
恩を着せられた。しかし、着せられたものでも恩は恩なので、渋々セツはエイベルの側に歩み寄る。元いた位置に立つと、当然ちょうどセツの頭の高さにエイベルの掌がある。掌が動き、一度、二度と、セツの頭を撫でた。
「エイベル様、一回っておっしゃったのに」
「次、一回分、我慢する」
エイベルは珍しくセツにとって怖いと思うことの少ない魔族だったが、別の意味で苦手な相手ではあった。頭を撫でたがるのである。
エイベルは魔族の中では低身長に属している。整ってはいるが丸みのある顔の輪郭のせいもあって、外見だけで言えば可愛がられる側の属性だ。そんな彼にとって自分よりも背の低いセツは、珍しく自分が可愛がる側に回れる存在だと、そう既定されているらしく、会えば必ずセツは頭を狙われた。
悪意がないのは伝わるが、恥ずかしいのはいかんともしがたい。それでも暴力的な側面を感じさせず、威圧的な空気も持たないエイベルは、自然とセツの応対からも硬さを拭う。少しだけ気安く喋ってしまうのもそのためだ。
「よぉよぉよぉ、セツよぉ、久しぶりじゃねェのォ! 相変わらずちッちぇェなあ! ちゃんと食ってっかァ? むしろ、縮ンでね!?」
それに比べて、この男である。
対象との距離を考えない大声が、足音の前触れもなく真後ろから聞こえて、セツの背筋が緊張にぴっと伸びた。
エイベルが、僅かに眉を寄せて赤髪の巨漢を睨む。
「テオ、セツ、びっくりしてる」
「おゥ? おおッ、そりゃすまねえなァ! あンなんに絡まれて怖かったよなア」
そう言って伸ばす手を、エイベルが跳ね上げるように払った。
「違う、テオの声、大きい。あと、ちゃんと拭いてから」
おおゥ? とセツの背後でまた声がする。
男――第一軍団長・テオドリクは、ごしごしと乱暴に手をズボンに擦り付けた後、きれいに血糊を拭った手で今度こそセツの頭を撫でた。それはエイベルとはまるで違う乱雑な撫で方で、セツの頭が左右に揺れる。
「て、テオドリク様、い、痛……ッ」
「テオ、優しくない」
二つの非難に手を下ろしたテオドリクは、すまねェすまねェと軽く笑う。歯を見せる大ぶりで快活な笑顔は、同じ笑顔でも拳を振るっている時とはまったく違う。
「なんだなんだ、セツ買い物かア? ちッちぇえのに一人で出来て偉ェよな!」
ぐらぐらと再びセツの頭が左右に揺れる。
テオドリクもまた、会う度にセツの頭を狙う一人である。思い込んだら止まらず、考えるより先に拳を振るい、一度振るった拳は自分の熱が冷めるまで振るいきり、そこに相手の状態は関係しない。魔王軍が誇る随一の脳筋戦闘狂は、しかし、こどもと小動物にだけはとびきり優しいことでも有名だ。軍内ではもっぱらエイベルがその対象となっていたが、三年前からそこにセツも加えられた。
小さいと言われるのも、こども扱いもセツは訂正しない。それで庇護を受けられるならばと思うのが三分の一、何度訂正しても次にはリセットされると学習したのが三分の二である。
「よッしゃ、一人でおつかいできるセツに、ご褒美買ってやるよ!」
「え、いや」
「エイベルも、買う」
「あァん? エイベルの分もオレが買ってやるッて!」
「や、あの」
「違う、セツに。エイベルも、買う」
「いえ、荷物、ありますし」
「おおそうだな! 重てェよなア! オッケーオッケー! オレに貸してみな!」
「ああっ、違っ」
単純脳筋は本当に話を聞かない。
その後、元々テオドリクがエイベルを誘った店に(彼は(見た目だけでも)こどもには甘い物と思い込んでいる)セツも連れていかれ、丸々ケーキをワンホールと焼き菓子の詰め合わせを二人に土産として持たされた。
《10》
「テオドリク」
「んあ? おォ、スノウじゃねーか! 珍しいな、試験日以外にいるなンてよォ!」
「先日はうちのセツがお世話になったようだから。どうもありがとうございました。それに、ケーキと焼き菓子まで買って下さって」
「あァん? アレ、オメェも食ったの?」
「ええ、セツに分けてもらったの、とっても美味しかったわ」
「ふゥん……」
「あら、なにか?」
「いやァよォ、セツは、ちっちぇエからもっと食って、早くでッかくなるべきだけどよオ。スノウ、オメェは喰ってももう横にでッかくなるだけだろォ? デブの淫魔とかニッチすぎね?」
「……」
「オメェが喰うにあぶれて弱ッちくなったら、戦い甲斐がなくなっちまうだろーが。体型維持考えろよォ?」
「……では、食後の運動に、テオドリク、今から一緒に闘技場に行くのはいかが?」