《4》-《7》
《4》
清家雪子は日本国籍を持つ日本生まれ日本育ちの日本在住だった、まったき日本人である。新人社会人でしかなかった彼女がいかにして、スノウにしてセツたる存在になったかと言えば、やはり話は三年前にさかのぼる。
三年前の雨の日に、雪子は奇妙な存在と出会った。それは一見ぬいぐるみの形をしていた。色は白く、毛足は長い。ずんぐりむっくりした体型の、丁度手足の短いテディベアのような風体で、そして全自動式だった。機械仕掛けという意味ではなく、どうやら生きていた。
全身雨にびしょ濡れで、泥水を吸い土の絡んだ毛の先から雫を滴らせながら、しかし厳かにぬいぐるみは雪子に告げたのだ。お前こそが聖女の素質を持つ者だと。何を言い返す間もなくぐるりと世界は暗転し、そして再び気づいた時には、そこは彼女の元いた世界ではなくなっていた。そしてまた、彼女を異世界に連れてきたその存在は言ったのだ。すまない、落ちる場所を間違えたと。
その時、雪子は間違いなくパニックに陥っていた。何一つ自分の見知った気配のない光景のど真ん中に置かれ、目の前では薄汚いぬいぐるみが人間の言葉を喋っている。つらつらと長々と、茫然と呆けている雪子を前にして、ただ転移軸がどうだの、魔法的介入がどうだの、界渡りがどうだのと、雪子にはまるでわからない言葉を並べ立て、最後の最後に、だからすまないが、しかたがなかったのだと言った。しかたがなかったのだ、と。
その瞬間、頭の中が一瞬で沸騰して、目の前で閃光が弾けたように何も認識できなくなった。ただ弾かれたように体だけが動いた。動作としては単純なものだ。振り上げて、ただ力一杯踏み下ろす。
――思えば、あの瞬間こそが、雪子の分水嶺だったのだろう。気が狂うか、否かの。
結果として、雪子は正気に踏みとどまった。
びちりと布が溜め込んだ水分が飛び散る音。分厚い濡れスポンジを踏みつぶしたような不安定にぬるついた弾力。そして、
「あひゅっぁはあああんんっ」
語尾にハートが乱れ飛ぶようなぬいぐるみの重厚な啼き声が、あまりにも気持ち悪くて。
思わず無表情になるほどに、一気に醒めた。
その後再度説明させたところによると。
本来雪子は、聖女としてこの世界の人間界に召喚されるはずだったらしい。
ところが彼女には理解できない要因により、召喚は最後の最後に失敗し、彼女とぬいぐるみは魔界の一角に落ちた。雪子の世界と比べれば、ここで言う人間界と魔界は近く繋がっているが、それでも界を繋ぎ渡るためには特別な力が必要で、それは今のぬいぐるみの力だけでは不可能である。
これが雪子が理解した現状だった。
ではどうすればよいかと言えば、人間界か魔界のいずれかで、誰かがもう一方の世界との繋がりを開くのを待つしかないと言う。そして魔界において界渡りの力を持つ者など、魔王城に属する者の内にしかいないだろうという事実もここで聞いた。
葛藤や細かな紆余曲折はあったが、最終的に雪子が魔王軍に身を置くことを決めた理由は二つある。
ひとつは、当然、人間界へと移る機会を狙うため。例え日本でないとしても、人間の世界にありたいと思う気持ちは今も変わらない。
そしてもうひとつは、ある程度安全に、ある程度安定した生活を送るためだった。ある意味では、ひとつめよりもよほど逼迫した理由だったと言える。
――欲しければ奪え、なければ奪え、生きたければ奪え、さもなくばお前が命を奪われる。
明快過ぎるほどのルールは、だが穏やかな世界で生きてきた雪子が易々と適応できるものでは到底なかった。誰かを襲って金銭を奪うことも、誰かを殺してその住まいを奪うことも彼女にはできなかった。しかしだからといって、世界は彼女に優しくしない。親切を請えば、甘えを強請れば、その隙をついて根こそぎ奪い尽くされるような世界で、彼女がぎりぎり見いだした活路が軍籍の道だった。
結果としてそれは正解を修め、衣食住の安定のみならず、軍将の地位はその名称だけで雪子をある程度不要な争いから遠ざけてくれた。
しかしそもそも雪子に力がなければ、そう上手くはいかなかっただろう。
端的に言って、雪子は強かった。異世界に渡る過程で、ぬいぐるみの言った「聖女の素質」を花開かせた雪子は、闇と光を除く四属性の魔法全てを扱うことができたのだ。
加えて、聖獣を名乗るぬいぐるみの尽力も認めなければならない。魔法の使い方はもちろん、ぬいぐるみが雪子の与えた最大の助力は《融合》と《分離》の二つの力である。この力によってこそスノウが成立し、雪子は、もう一方にセツという世界観に馴染んだ呼び名を与えたのだから。
《5》
本来の姿に戻ったセツが、最初にすることはまず着替えだ。スノウに比べ、セツは様々なサイズが小さい。スノウはおよそこの世界の平均身長より少し高いくらいらしいが、その平均身長がそもそも日本に比べて高い上、セツは日本人に比しても小柄な方だ。こども体型という意味ではなく、体の起伏も特別貧相というわけではない。ただ単に身長がやや低いなだけの至極一般的な体型だったが、比較対象が悪かった。衣装によってはまるでこどもが背伸びして大人の服を着たような有様になって、うっかり鏡でも覗いた日には無駄に心に傷を負う羽目になる。主に胸的な意味で。
スノウにとってのシュミーズも、セツにとってはワンピースかチュニックだ。肩紐を短くくくり直して下にスボンを履き、簡易な上着を羽織れば、それで室内着としては事足りる。
「ユキコは育たんな」
「ムル……。何度言わすのよ。私は、これで、もう育ち終わってるんだって」
悪びれもせず言うのは、机の上のぬいぐるみ・聖獣ムルである。スノウの側にいる時は目に見えぬ形で、セツの側にいる時は目に見える形で。まるで謎かけのようだが、それこそがすなわち《融合》と《分離》の真実だ。セツとムルの力が肉体ごと混じり合うことによって顕現するのがスノウなのである。聖女とはそういう存在なのだと、ムルは言った。
《融合》によってあまりに元と姿が変わりすぎる理由は何かとセツは尋ねたことがある。長々と厳かな言葉を連ねてムルは説明してくれたが、短く纏めればようは「聖女とは何時の時代も、信仰を十二分に集めるべく男と女の憧れを最大限に擽る存在なのだ」ということらしい。つまり、理想と妄想を煽る姿という意味だろう。あざとい話である。
とは言え、その恩恵に十分浴している身としては文句もいえない。精々たまに鏡を見つめて、密かに落ち込むくらいだ。
「大体、スノウの姿って聖女の姿なんだよね? スノウがエロすぎるんじゃないの?」
「服装と振る舞いの問題だ。聖女らしく振る舞えば、またそれらしくグッとくる」
「グッとくるって……」
それが聖獣の言うことかと思うが、大分今更だ。
この聖獣、厳かなのは渋い声の調子と普段の言葉遣いだけで、話の内容や、嗜好、節々の言葉遣いがセツの持つ“聖なる存在”というイメージと照らし合わせると、どうにも俗物臭い。たまに本当に聖獣なのかを疑うが、それすら疑い始めれば全くきりがなくなるので考えないようにしている。
セツは身を投げ出すように、ふかふかのソファーに倒れ込んだ。包み込まれるように沈む心地よさに、自然と気の抜けたような吐息が漏れる。
スノウである全ての瞬間が、セツにとっては演技だ。三年という月日は、一定の慣れとスノウという型の定着を彼女にもたらしたが、それでもセツであることに比べれば遙かに緊張も疲労もある。
お腹も空いたけど、ちょっと一回寝ようかなあ……。
そんなことを思いながら、仰向けからうつぶせに体勢を移していたセツに、「ところで、ユキコよ」とムルが声をかけた。
頭だけを僅かに起こしてセツがそちらに顔を向けると、二足歩行のぬいぐるみが机の端に立っている。むっくりとした体の背後、左右から一定間隔で交互にちらちらと毛の房のようなものが見え隠れしていた。
初めて見た時、熊かと思ったぬいぐるみは実は狼であったらしい。顔がぺちゃんこでよくわからなかった。と言った時には、「デフォルメであると言え」としこたま叱られた。
ともかく、ふっさりした尻尾を左右に振りたくりながらそわつくぬいぐるみ型の聖獣は、もじもじと揉み手をするように両前脚を擦り合わせた後、つぶらな瞳を真っ直ぐセツに向けて、言った。
「い、一度くらい別に、イヴェットと過ちを犯しても、よ、よいのだぞ? いや、過ちではないな、戦略的索敵だ。何、心配するな、わ、我は意識を閉じていよう、大丈夫だ、案ずることはないぞ」
それが聖獣の言うことか。
いや、眠い頭が聞かせた幻聴だろう。そう断じて、セツはソファーに頭をうずめた。寝ぼけた右腕がうっかり動いて、床に脱ぎ散らしたハイヒールをうっかり掴み、うっかり投げ飛ばしたようだが、全くうっかりしたことだ。「ひゃぅン!」と上擦った悲鳴が聞こえた気もしたが、当然幻聴である。
《6》
次の三ヶ月が過ぎ今また再びスノウはひざまずく男の顔に、蜘蛛糸のように白い指を這わせている。もはや彼女の目の前にいるのは、敗北者という名の餌でしかない。
だが、そもそもの話として。
スノウはいまだかつて一度も、自らを淫魔であると称したことはない。ただ、彼女のあり方は紛うことなき淫魔のそれで、ただし他の淫魔と違うのはその二度とは忘れられない捕食の口づけの強烈さだと言う。
かつて、歴戦の猛者たる桃色の淫魔イヴェットは、こう語った。
「触れ合ったところからぁ、熱くなるの。媚薬? 媚香? いいえ、お姉様にそんなもの必要ないの。唇も、舌も、ほっぺたの内側も、喉も、お腹の奥まで、ぜぇんぶ熱くなって、衝撃が体の内側を駆け巡るの。そう、まるで焼かれながら電気を通されているみたいな、気持ちいいのかもわかんないような、体中がびくびくしちゃうくらいの。うちっかわから魂ごとびりびり焼かれてぇ、削られてぇ、奪われるっていうより、消されていく感じ。自分が消えちゃうみたいな、死ぬってこういうことかなって、ちょっと思っちゃうくらいの、――ああ、あんなの、初めてぇ……」
このイヴェットの感想は、限りなく正鵠を射ている。
つまり、それは体の内側から浄化される魔族の感覚の表現として極めて的確であった。
スノウの口づけを受ける彼らは事実焼かれているのだ、浄化の熱に。奪われているのではなく、焼き消されているのだ、魂を。そして、魔族にとって浄化とは、すなわち死を意味するのである。
そうだ、そもそも、吸精など聖女の技であってたまるものか。実際にはスノウが成しているのは浄化の技である。だが当然、最初から口づけで魔族を屈服させるようなことをしていたわけではない。キスで殺すなど、聖女の初期装備であってなるものか。
初めての発現は、他ならぬイヴェットとの戦いの中であった。かつまた唇を奪われたのも、スノウの側だったのだ。
軍団長の地位を狙う挑戦者として戦いを挑んだスノウは四元素の魔法によってイヴェットを圧倒したが、僅かな隙をつかれて地に押し倒された。そしてイヴェットは自らのもっとも得手とする方法によって相手の力を完全に奪おうとした。
唇が重なる。ぞろりと不可視の舌に体の奥底を、恐らくは魂と呼ばれるような奪われてはならない何かを、削ぐように舐め上げられる不快と恐怖にスノウの力が弾けた。逆に、繋がった唇を通して、スノウの、聖女が持つ浄化の力がイヴェットの中に流し込まれたのだ。
長きを生きたイヴェットも体の内側から浄化されかけたのは全くの初めてだった。そしてイヴェットの意識はその未知の衝撃を、豊かな経験と知識があるが故に、またそう自負するが故に、自らの経験則に当てはめて理解してしまった。
すなわち、自分も及ばぬ強大な淫魔に強力に捕食し返されたのだと、認知したのだ。そして今までどんな相手をも魅了し捕食してきた自分が、魂を焼かれるほど、死を思うほどの圧倒的力差で貪り喰われているという状況に、――イヴェットは完全に堕ちた。
やがて他の軍団員達が見守る中、くったりと地に横倒しになったのはイヴェットの方であり、体を起こしたスノウの顔を涙ぐんだ瞳で見上げ、
「ああ、お姉様ぁ、イヴェットをもっと喰べてぇ」
顔を真っ赤に紅潮させ、濡れた声で甘やかに懇願した瞬間、魔族スノウのコンセプトが彼女の全く望まぬ形で確定した。
彼女にとっての幸いは、“スノウ”という形が、あまりにも自身の本来の姿とかけ離れていたことである。スノウの行いを本来の自分と切り離して捉えることができたからだ。“雪子”とは似ても似つかない言葉遣いも、自らの美貌を誇るような高慢な振る舞いも、“スノウ”という容れ物に合わせた設定だ。
スノウとは自分の別の姿ではなく、スノウという名の人型を自分は操っているだけなのだと、つまり、“これは自分ではない”と信じ込めたからこそ、彼女はスノウを演じきることができたのである。
――そうでなければ、食事と称しては公衆の面前で口づけなど繰り返していられない。
だがいくらそう信じたところで、この上等な容れ物は自らの五感を“中の人”にあますところなく伝えてくる。それでも彼女が自らを失わず、“スノウ”を遠目に捉え続けることがなんとかできているのは、やはり聖獣ムルのおかげなのであった。
いつだって彼女を冷めた正気に留めるのは聖獣の言葉なのだ。
『うおおおおおお近い近い近い近い、ああああああああ我の唇はぷるぷるでいいにおいのする乙女のためにあって、決して貴様のようなむさ苦しいがさがさの男くさ、ぎゃああああああああああ あ ちょっとやわらか ぁああああうぉおおぇえええええぇえぇぇえぇ』
全身に反響するような絶叫は、あらゆる集中を削ぎ取り、僅かの時間外界への感覚を薄くする。
そしてスノウは思いを新たにするのだ。
“スノウ”の唇は“雪子”のそれではなく、“ムル”の唇なのだと。“雪子”ではなく、“ムル”こそが、今キスをしている主体なのだと。だって「我の唇」って言っているわけだし。
心の全体を寒々とした鳥肌で覆いながら、思う。
ああ今日も、聖獣は一分の隙もなくキモイ。
《7》
戦闘直後よりも息の荒い男を残して、スノウは颯爽ときびすを返した。
戦闘にも地位にも興味を持つように見えない彼女が一軍の長の地位を求めたのは、自らが自由にできる上等な巣と、少し高級な食事会場の確保のためだったというのは、語られずとも公然の秘密だ。昇任試験さえ、否、食事さえすめば後はもう城にも軍にも用はない。
しかし、自軍の長を見送る軍団員達の視線に、餌としてしか見られぬ嘆きや捨て置かれる恨みはない。野心や羨望や前向きな悔しさが渦巻く熱意だけが残り、それが明日への鍛錬に繋がるのが、第四軍なのであった。何せ、美しくも淫らかな我らが軍団長に喰われる権利は、三ヶ月にたった一度、たった一人にのみ与えられる栄誉なのだから。
一方熱視線で見送られたスノウは、悠然と、しかし弛まぬ足取りで城内を進んでいた。
魔王城の敷地内において、転移魔法は定められた場所以外での使用は禁じられている。
探ったところによれば、現在イヴェットの食事は丁度最高潮を迎えていて、流石の彼女も今抜け出てくることはないだろう。「わたくしに、貴方の食事を邪魔しているだなんて思わせないでちょうだいな」とも先日囁いておいた。時間の猶予はあるはずだ。
毎回毎回「喰べて」と迫ってくる桃色の淫魔の目は、しかし被食者ではなく完全なる捕食者のそれである。表面上は「喰われている側」でも、本質的には「喰わせて、貪り喰う側」の大淫魔の名に恥じぬ目だ。
端的に言ってすごく怖いので、捕まる前に早く帰りたい。
だがあともう少しというところで呼び止められ、スノウは眉を持ち上げた。
「おや、ご機嫌斜めですか」
「既に心はここにないのに、体だけが『待て』を要求されるのは辛いものでしてよ」
待ち構えていた態でスノウを迎えたのは、冷たい風貌の男だった。
額から頬に走る裂傷。その途上にある左眼を覆う片眼鏡から伸びる二連の細い鎖が男の身動ぎに合わせてチリチリと鳴る。両眼よりもなお色濃い夜色の髪を撫でつけ、僅かの隙もなく装いを整えた男。
「一体何のご用かしら、サディアス。わたくし、帰りたいのだけれど」
第二軍団長、その人である。
「そうしてまた、“巣”に籠もって出てこないつもりですか」
「あらあら、巣だなんて。わたくし、鳥ではなくってよ?」
ふ、とサディアスが薄く笑った。全く笑わぬ瞳が鋭い。
「蜘蛛の間違いでしょう」
「見解の相違ねえ」
「毒液を注ぎ込む姿などそっくりではありませんか」
「まあ、わたくしのお口の中には、鋭い牙なんてありませんわよ?」
険悪さは表面上のことだけではない。特に厭われているのはスノウの側だが、だからと言って、スノウの方に何らかを改める様子はない。
左肘を右の手首辺りで支える姿勢で、スノウは困ったように左頬を掌で覆い細い眉の両端を垂れ下げる。
「なぁに、貴方、わたくしにお小言を言うためだけに待っていたの? わたくし、貴方のストレス発散につきあってあげるほど暇じゃあないのだけれど」
「貴方と会話をする方が、よほどストレスが溜まりますよ。少しはまともに職責を果たしたらどうです」
「ほら、お小言」と、スノウはその姿勢のまま両肩を竦めるような動きを取る。聞き飽きているのも、言い飽きているのもお互い様だ。
「果たしていてよ。わたくしの団が粗相をしたり、怠けているような話は聞かないわ。わたくしが見張っている必要なんてないの。監視がなければきちんとできないだなんて、そちらの方が無能ではないの」
「貴方の代わりの全てを、イヴェットが引き受けているだけでしょう」
サディアスの声は、一層鋭く冷たい。だが一拍の後、話を切り替えたのもサディアスだ。
「次は三ヶ月も放蕩をしている余裕はありませんよ」
「え?」
「人間が、勇者を冠する者を中心に徒党を組みました。恐らく近々我々にも招集がかかるでしょう」
「あら、まあ」
スノウの返答は浮ついた空疎なものだった。咄嗟に返す反応がそれ以外に見当たらなかったのだ。僅かに見張った目でサディアスの顔を見つめ、冗談の色(そもそもそんなことを口にする男ではないが)のないことを確認した後、「あら、まあ」と同じ言葉を繰り返した。
「人間との戦など、ないのかと思っていたわ」
「望まれれば話は別でしょう」
少し考えるような間の後、スノウは腕を組み直した。豊かな胸を支え上げるように両腕を重ねる。
「承知したわ。おもしろいお話をどうもありがとう。……そうね、お礼に、いかが? 先程はああ言ったけれど、少しくらいストレス発散につきあってあげましょうか? ――挟んで、さしあげてよ?」
返答は、腐敗した塵芥を見るよりなお酷い不快に満ちた眼差しである。
涼やかに喉を鳴らすと、腕を解いたスノウは軽い足取りを前に進めた。
「ああそうだった、貴方の好みは、イヴェットのような小さくて可愛らしいお胸の子だったわね」
「なっ」
一瞬言葉に詰まりそして表情を一気に険しくするサディアスが口を開くより、スノウが言葉を重ねる方が早い。
「あら、ごめんなさい。言葉の順番を間違えてしまったわ。貴方、小さなお胸の、可愛い、イヴェットが、好きだったんでしたわね」
スノウがサディアスの脇を行き過ぎる。
言葉にならない息の詰まりと挙動の気配を背中で感じて、スノウは密やかに笑みを噛み殺した。