《1》-《3》
深く考えると粗が目立つので軽い気持ちでお読み下さい。
なお今話と次話には軽度の百合表現があります。苦手な方はお控え下さい。
《1》
わあ、とどよめきが上がったのは、魔王城の一角、広く設けられた闘技場のひとつである。そこは日々の鍛錬の場であり、時に処罰の場であり、決闘の場であり、――そして今日は、魔王軍の昇任試験の会場であった。
単純明快を規とする魔王軍においては、その昇任のルールもまた明快だ。
下克上。
一定以上の地位を望むなら、引き摺り落として、成り代われ。それこそがまた、お前の力の他への証明ともなろう、というわけだ。
しかし下克上だけを唯一のルールとすれば、野心まみれや、戦闘狂、トリックスターや、ただの脳筋が溢れている魔王軍が崩壊することは目に見えている。そこで設けられているのが三ヶ月に一度の昇任試験だ。“将”を冠する地位にある者と、それに対する挑戦者との一騎打ちである。挑戦者がある限り将の側に拒否権はない。
挑戦者は基本的に一名だ。複数いた場合は、これも事前に戦いでその一名を決定するが、将が複数を受け入れることも少なくない。力の誇示には役立つし、単に戦闘狂の場合もある。
そして、今。
人の輪の中央で、一人が立ち、一人が伏している。
立っているのは女だ。異性と並んで遜色ない長身が、軽い仕草で豊かな薄水色の髪を背中に払う。柔らかい色の唇を微笑ませて、女は呻きながら体を起こす挑戦者の男を見下ろした。
「わたくしの勝ちでよろしくてね?」
雪白の肌を持つ美しい女の名は、スノウ、と言った。むろん軍将であり、第四軍の軍団長でもある。
血の滲む口許を拭う男の眼差しは悔しさと敵意に満ちた烈しいものだったが、もはや立ち上がろうとはしなかった。
スノウは、ふふ、と笑い、一歩、男に向けて足を踏み出す。そしてまた一歩。
空気が変わっていた。彼女が一歩踏み出す度、周囲のさざめきは徐々になりを潜め、戦場の堂々たる熱気が薄れていく。だが、静寂は訪れない。密やかな、落ち着きのない、熱を帯びたそわつきのようなものが空気を揺るがしている。
地に膝をつく男は、その姿のまま、やがて自分の目の前で立ち止まった自軍の団長の顔を見上げた。しなやかな腕が伸びてくる。魔法を戦闘の術とする女の手は、剣だこなどとは無縁にただただ嫋やかだ。ほっそりとした白い手指が男の襟首にかかる。ぐっと強い力で引っ張られた。見た目はどうであれ、スノウもまた魔族には違いないのだ。
だがたとえ彼女が振るったのが、甘えるように男の袖を引く女と変わらない程度の力であったとしても結果は変わらなかっただろう。あっけないほど容易く、あるいは身を捧げるように男は膝立ちになっている。
僅かに身をかがめたスノウの両手が男の両頬を包んだ。男の顔をほとんど真上から見下ろす。煌めく細い髪糸が、せせらぎのような軽い音を立て肩から流れ落ち、男と女の顔を外界から鎖すように覆い隠していく。
瞬きもせずスノウを見上げる男の目にも、今や周囲に満ちているものとよく似た熱が宿っていた。敗北の悔しさと、自分を打ち負かした者への敵意と、うっすらと微笑むような顔のまま此方に顔を寄せてくる女に対する、――怯えた、期待。
女の頭の位置が更に沈み、ややして、ぎくぎくっと引きつったように震える座り込んだ巨体を周囲は見た。
やがてスノウが身を起こしながら両手を男の頬から離すと、男はどっと腰を地面に落とした。そのまま両手を前に付き、肩で息をする。
その姿を尻目に、周囲に見せつけるかのように真っ直ぐ顔をあげたスノウは、紅を刷かずとも常に艶やかな桜色の唇を指先でゆっくり一拭いし、それから、ほんのり上気した顔をうっとりと微笑ませた。
「ご馳走様」
――雪のように白い肌。冬の湖水のような冴えた薄色の髪。鬱金の瞳に、桜色の唇。華奢と豊満を違和感なく併せ持つ冗談のような姿態。
三年前に突如頭角を現し、その後一気呵成に一軍の長にまで上り詰めた第四軍の軍将は、淫魔族の女であった。
《2》
「お姉さまぁぁああん!!」
早々と闘技場を後にしたところで、スノウは腰元に体当たりを受けた。
内巻きにした桃色の短い髪、鮮やかな菫色の瞳、布面積の少ない衣服から輝くような四肢を伸ばし、今はその両腕をスノウの腰に回した小柄な少女は、すりすりと猫が懐くように頭をスノウに擦り付けた後、ぷっと頬を膨らませて彼女の顔を見上げた。
「お姉様、イヴェットに挨拶もなしに帰ろうとするなんて、あんまりですぅ」
見た目からしてスノウよりも更にあからさまに淫魔の態を成した桃色の魔族は、名をイヴェットと言う。彼女もまた軍将の一人であり、第四軍に所属、その副団長を務めている。つまりは、スノウの第一の部下だ。
「だって、貴方」と、スノウが少し困ったような声をあげる。
「わたくしが来る前から、わたくしの試験が終わっても、まだずっと食事をしていたじゃないの」
対団長の昇任試験に先立って、まずは同日、副団長を相手取った昇任試験が行われる。スノウが闘技場に入った時には、すでに対副団長の試験は終わっており、そしてイヴェットの姿も、敗北した試験挑戦者達の姿も全員なかった。イヴェットは見た目以外もまた、あからさまに淫魔なのである。
「食事を邪魔したくなかったのよ。わたくしだって、食事を邪魔されるのは嫌いですもの」
ね、と同意を求めるようにスノウは小首を傾げたが、むぅと唸るイヴェットはまだ不満顔だ。
「でもでもお姉様ならぁ! 全然構わないのに。お姉様が会ってくれない方が、あたし、悲しいです」
唇を尖らせて言いつのった後、イヴェットがぎゅっとスノウの腰に抱きつく。
スノウは浅く息を吐いて言った。
「ごめんなさいね、イヴェット。貴方のこと、きちんとわかっていなかったわたくしがいけなかったわ。ねえ、お顔を上げてちょうだいな。そうしたら、頭を撫でてあげてよ」
すると、ぐりぐりと頭をスノウの脇腹に押し付けていたイヴェットが、待ち構えていたように顔を跳ね上げる。その様を見て、涼やかに喉を鳴らしながらスノウは桃色の頭を優しく撫でた。
「お姉様っ、イヴェットは、お姉様の代わりにきちんとお仕事を勤めていました。ご褒美くださぁい」
伸び上がって、自分からも頭をスノウの掌に擦り付けながら、イヴェットは甘えた声をあげる。
スノウは、三ヶ月に一度の昇任試験の時以外、ほぼ全く登城しない。最低限の義務と責任さえ果たしていれば、有事の際以外は登城しなくてもよいのが軍将である。というより、それほどの自由を許しておかなければとても繋ぎ止めておけないのが、軍将である。
ともあれ一軍の長たるスノウにとっては、最低限の義務と責任とは自軍の管理と鍛錬に他ならない。スノウが日々のほとんどを登城せずに過ごすことができているのは、ひとえにイヴェットの手腕によるところが大きい。この、見た目だけは幼い第四軍前団長・現副長は、現団長に敗北して以来スノウに心酔しきっており、自らを費やすことを苦としない。スノウの自由のため、というよりは、スノウからご褒美を貰う自分のためにである。
潤んだ菫色の双眸でイヴェットはスノウを見つめた。それから、眼を閉じる。水銀の髪のささらぎを間近に聞き、そして柔らかい唇の感触と、軽いリップ音を知覚した。
目を見開いたイヴェットの頬がまたぷっくりと膨らむのを見て、額にキスを落としたスノウが笑う。
「駄目よ、イヴェット。唇への口づけは餌にするもの。貴方は餌ではないのだから」
何度となく同じやりとりをしているが、それでもイヴェットはどうにも諦めきれないらしい。
「もう! お姉様ったら、そんなところだけ真面目なんだからぁ! お姉様になら、喰べられてもいいって言ってるのに」
しかしそれ以上ごねるつもりもなく、あーあと吐息混じりの声をイヴェットは発する。慣れたやりとりにスノウも軽く笑うだけだ。
「お姉様のこと、ちょっとだけ喰べさせてもらうのでもいいんだけどなぁ。ねえ、お姉様、一晩くらい、お城にお泊まりしませんかぁ?」
スノウの腰から解けたイヴェットの片手が、スノウの手に絡む。手指を絡め、指の股から手の甲を指先ですり上げながらイヴェットは甘える目をしたが、動じもしないスノウの声は素っ気ない。
「どちらもお断りでしてよ」
「うぅ……。お姉様、お城に住みましょうよぅ。それか、あたし、お姉様のお屋敷に行っても」
「イヴェット」
冷えた声に、イヴェットが黙り込んだ。おずと視線を上げた先には、声の色を裏切らない視線がある。
「わたくし、邪魔をされるのは嫌いだと先程言わなかったかしら」
「ごめんなさい……、お姉様……」
身を離ししゅんと俯くイヴェットの頬に、スノウの手がかかった。促しに逆らわず再びイヴェットが顔をあげると、視界に陰がきざし、間を置かずに二度目のリップ音が響く。
「っ!」
「いいこね、イヴェット。わたくしの邪魔をしない貴方のことが、わたくしとっても大好きよ」
そして、三度。
両の目元に交互に口づけを得、間近で心酔の相手に微笑まれたイヴェットは、うっとりと頬を赤らめた。
「――はぃ、おねぇさま……」
《3》
「じゃねーよ!!」
スノウは脱いだ外套を力一杯床に叩き付けた。ふうふうと肩で荒い息を繰り返した後、肺を空にするような長い溜息をつき、それから床の外套を拾い上げて埃を払う。自分以外にそれをする人がいないためだ。
城下からやや離れた場所にある周囲に人気のない邸宅が、スノウの住処である。ここもまた、将たる恩恵のひとつだ。だが、この広い邸宅に住まうのは彼女と、そしてセツという名の小柄な女の召使いがたった一人だけである。
邸宅の周囲には強力な結界が敷かれ、許されたもの以外は敷地内にすら立ち入ることができない。一体、厳重に秘された屋敷の奥に潜んで、登城する時以外ほとんど姿を見せない強大な淫魔は何をしているのか。否、何に耽っているのか。
――ああ、論じるまでもなく、それはきっと、さぞかし淫らかな食事に違いない。
語られずとも明白な真実に、眉を顰める者と、胸を熱くする者はおおよそ半々だと言う。
そしてスノウは、眉を顰める側なのだ。
「何が、酒池肉林の城だ!」
ばしーん! と、今埃を払ったばかりの外套が再び床に叩き付けられた。一度落ち着いたかと思いきや、ふつふつと再発したらしい。
“酒池肉林の城”とは、当然、スノウの邸宅を指す俗な呼び名である。あるいは“女皇の巣”とも呼ばれているらしい。“城”とか“皇”とか不遜な呼び名はやめていただきたい。無用な叛意を疑われたらどうしてくれるのか。というか、単純に女皇ってなんだ! だれだ! 私か!
両手で顔を覆って、ううう、と喉を絞るように唸っていたスノウは、やがてのろのろと顔を上げると、
「うるさいわね、わかってるわよ」
空に向かって言葉を放った。
再度外套を拾い上げ、また埃を払って、椅子の背に投げるように掛ける。
事実、スノウは城に上っていない限り、ほとんどその姿を邸宅から現さない。そして、強大な結界魔法は常に刷新され、何人たりとも侵入を許さないのもまた事実である。一人の女召使い以外屋敷にはなく、その理由について「餌を貯蓄して古くする趣味はないし、ペットなど一匹で十分でしてよ」と白々と言い放ったこともある。
だがしかし。
実際には酒池肉林など存在しない。淫らかな食事など、ただの一度もこの屋敷内で行われたことはない。
確かに、結界はある。だが、隠したいのはそんな淫蕩行為ではない。スノウの隠し持つ秘密とは、スノウが殆ど邸宅から姿を現さない理由とは、そんなことではないのだ。
「――《分 離》」
瞬間、光の帯が生じた。長いリボン状の光が瞬く間にスノウに巻き付き、包み込み、その全身がすっぽりと光に覆い隠されたかと思うと、再びするりとほどけて、ほどけた先から光の粒となって霧散していく。きらきらと舞う光の残滓を全身に浴びながら、ほう、と浅い息を吐いたのは、黒髪の、背の低い、一人の女である。
すなわちスノウの秘密とは。
魔王軍・第四軍団長・淫魔族のスノウと、彼女に唯一仕える小柄な女魔族の召使いセツが、全くの同一人物である、という事実であり。
そしてまたそもそも彼女は魔族ですらない、というそれである。