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はじまり-09

むせかえる硫黄の匂い。

鼻につんと来るにおいを懐かしく感じながら、砂利の上にもうもうと湯気をあげる流れを見つめた。排水のために設けられた穴から濁った湯が溢れている。


「これは汚水ではありません。が、まずはここであらかた流して頂かないと湯殿に上がって頂くこともできません」


輝く金色の髪をひとつにまとめ、若草色の瞳を大きく見開いた美しい人がリナを見下ろしている。困ったような、悲しんでいるような表情がなまめかしい。

ここが外で、屋敷の片隅であることはリナにとってささいなことだ。


(奥さま、だよね?師匠をジュールって呼んでた人が領主なんだったら、領主夫人?)


置き去りにされた部屋の中で暖炉の炎に見入って放心しているところを、この美人に連れ出された。屋外だったのは驚いたが、連れて来られたのは訳があった。

どうやら体の汚れを洗い流せということらしい。直接、温泉を引きこんでいるのか、地面が温かい気がした。


(確かに汚いわ、よくよく見れば――信じられないくらい)


山の暮らしには欠かせない、獣脂と松脂がごってりと外套やむき出しになっている部分にこびりついている。これはある程度まで落として行かないと、浴槽を傷める元になるし掃除も大変だろう。変に直接お風呂場に連れていかれないだけまだましである。


「失礼かとは存じ上げますが、どうかお召しものを脱いで湯にお当たり下さい。人払いはしておりますゆえ、誰からも見られることはありませんから」


細い腕から伸びる指先までが真白で、抜けるような透明感があった。それがリナの外套を触ろうとしているのが分かってさっと身をよじる。


「まあっ」


驚きで目を見開いている姿でさえ美しい。リナは無言で彼女を押しとどめる動作をして、自ら外套を脱いだ。こんなきれいな人に触らせるものではない。どれほど汚れているか、考えるのも恐ろしいのだ。

吹きつける風はまだ冷たい。しかし、氷の張った湖から水をくみ上げるときのみぞれ交じりの烈風よりは格段に温かいし、なにより流れているのはお湯である。

触れたくてうずうずしながら、リナは美人の前ですこしためらった。


「私が、でき、ます――奥さま、のお手を……煩わせません」


老人と話すときは単語が多かったので、文章にするのが難しい。もごもご発音すると、ぱっと花が開いたみたいなほほ笑みが広がった。峻厳な自然に囲まれていた身には、まぶしすぎる。

気付かれない程度に目を反らし、恐る恐るまとっていたものをはいでいく。ベルトに上着に足通し。靴を脱いで、ぼろきれになった寝間着の残骸を足からほどいた。


「……」


傷だらけの足からそっと目をそらされたのを感じながら、リナも観念して地面に腰をおろした。

老人が作ってくれたものは、基本的に動物の革か木の皮をはいだものでできている。やわらかだった足を守る靴下のかわりに寝間着を巻きつけていたのだ。茶色く変色した布に目を落とすと、ため息をついた。


「汚い……」


絶望的に汚れている。はたして洗ったくらいできれいになる汚れなのか、分からない。けれど手放したくはなかった。これだけがリナを繋ぎとめる楔のように感じていたからだ。


(これは、ちゃんと洗ってしまっておかないと)


残骸にしか見えない布を湯の流れにくぐらせた。ほどよい温度にホッと息をついた。山の中でこんなにお湯を使うことはできない。薪が惜しいし、なにより老人がそれを望まなかった。

普段は軽く体を拭く程度で終わっている。頭を洗うなんてもってのほかだ。最初のうちひどかったかゆみはしばらくしたら消えていた。


(今更ながら信じられないけど)


砂利が足に食い込んで痛い。足の裏の小石を手で払って、最後の一枚をためらった。老人が臭うと言われていたならば、リナもそうなのだ。同じものを食べ、同じものを着込み生活していたのだから当然だった。


(早くお風呂入りたいのは山々だけどさ)


湯気の向こうで気遣わしげに見守る美女の前に、体をさらす勇気がない。心なしか、美女の顔色が青ざめている気がする。


(こんな汚いの、見たくもないよねえ)


リナは己の体を見下ろしてもう一度、深いため息をついた。山で過ごすのなら、絶対に必要な装備の数々か、こうやって不要なものとして見られるのは辛い。ずん、と心が落ち込んでゆくがすぐに気を取り直した。


(なにも分からないのも、いまさらだし)


動物の皮を薄くなめして、タンクトップの形に木の皮で荒く縫い合わせた下着に手をかけた。思い切って脱ぐと、はっと、聞こえるほどに息を飲む声がする。見上げると、美女が真っ青になって震えていた。


(あっ、これまずかった?)


体中に獣脂と薬草と炭を砕いたのを混ぜたものを塗り込んでいる。日焼け、炎症にも効き、なおかつちょっとした消毒にもできる万能薬だ。ただ、炭を塗り込んでいるので、ぬっている部分とそうでない場所がはっきりと見分けがつく。はたから見るとリナはパンダみたいに白黒に見えるのだ。


「……ひとりではご不自由かもしれませんから、二人ほど使いの者を呼びます。すぐまいりますので、しばらくお待ちください」

「奥様?」


止める間もなく、ようやっと絞り出したみたいな震える声で美女が言い残して走り去った。


(せめて、弁解くらいさせて欲しかったな……)


追いかけるにも裸では格好がつかない。両手で顔を覆って、ついでにささやかな胸のふくらみも腕で隠した。

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