はじまり-06
ジュリナがさまざまの用意のために席を辞したあと、ふたり残った部屋の中でヘンドリックが動いた。
「ジュール、あなたはなんということを!」
「……」
柔らかなソファへ深く腰掛ける老人の元へ駆け寄って、その足もとに膝をついたあと、こぶしで二度ほど自らの太ももを強く叩いた。
眉を寄せ、苦渋に満ちた顔を見下ろしてジュールは肩を落とした。
「領民には見せられん姿だな、ヘンドリック」
「あなたに言われたくはない」
そう言うと、唇を噛んでヘンドリックは両手で己の顔を押さえつけた。激情を制御するためにか、ふーと大きく息をついている。
ジュールはそれを見て唇をゆがめた。笑ったのだ。
指の隙間からそれを見て、ヘンドリックはいきり立った。
「笑いごとではないんですよ?いったい、なにを考えていらっしゃる!私の思いに気がついていながら、あなたのなされようは、あまりにひどい」
「……」
「いままでどんな懇願されても、あなたはあなたの領地に人を招き入れることはありませんでした。わたしは――オレは、駆け出しのみならい騎士だった頃からあなたの背中を追いかけていたんです。運よく領主として並び立てるようになったあとも、常にあなたの気が変わるのを待っていた。それなのに、どうして……」
すすり泣きのような声を漏らしながら、ヘンドリックはもう一度どうしてとつぶやいた。
「バカなことを言うな、若き領主よ」
大きくはないが、銅鑼のように腹に響く声でジュールは笑い声をあげた。
「バカなことではありません!オレにとっては、夢だった!」
「――だがこれは現実だ」
思わぬほどに冷たい声を出してジュールは立ち上がった。動かないヘンドリックの脇を通り過ぎ、大きな窓に近づいた。見はるかす空の向こう、ジュールがただ一つ領土と認めた聖なる山がそびえたっていた。
「では、聞くが」
ジュールは笑うことをやめて窓を背にしてヘンドリックに向き直った。窓から入り込む明るい光とは対照的な、影と同じ黒い姿がそこにあった。
「お前はわしに着いて三年も、お前の領地を離れることができるのか?――まあ、まずできまいよ」
「……ですが!」
いったん口を閉じて、ジュールは唇を舐めた。
「美しい奥方と離れ、王都にいますお前のふたりの子供の窮地にも助け手を述べることもできず、なすすべもなく見ているほかはないとしても?――雪が降れば完全に外界とは断絶するあの山におれば、当然、考えられる事態でもある」
「しかし……しかし、なにかやりようは――」
「ヘンドリック!まさかお前」
ジュールがなにかとてつもない面白いことを思いついたようにぷっと吹き出した。
「まさか、まさかとは思うが、ときおり暇を見て山に入り、日暮れになれば山を下りて温かで安全なわが家に戻るようなそんな性根で、長年わしの弟子になりたいなどとほざいていたのではあるまいな?」
「……ジュールっ!」
さっと顔いろを青ざめさせて立ちあがったヘンドリックを手で制して、ジュールは大きく息をついた。
「冗談だ。……言いすぎたな。お前の夢を無下にしたつもりはない。ただ、人にはそれぞれ持場がある。わしがあの山で過酷な生活を選んだのも、お前が国の要であるこの辺境で重責を担っているのもそれぞれが選びとってきた道に他なるまい。わしとお前の道が違っていたからと言って、なにをそう焦ることがあるというのだ?わしから見れば、お前は何もかもを手に入れた人間に見えるよ」
「……」
「愛し合える素養を持った若く美しい伴侶を得てのち、三人の子をなした。騎士としても王の覚えめでたく――かといって本人はさほど権力に固執せず、あえて中庸にあり、忠誠を持って仕える。まさに騎士の手本と言ってもいいくらいに出来すぎた人生ではないか?」
黙ってしまったヘンドリックに、なお畳みかけるようにジュールはいいつのった。
「だいたい、お前は欲がなさすぎる。わしの知る内だけでも、権力も、名声も、金にも、ましてみだらな誘いにも指一本も動かそうとはしなかっただろう。そういう人間が得てしてもっとも扱いにくいのだ。お前が、確かに国の要所とはいえ、こんな辺境の王都からの目の届きにくい場所へ追いやられたのはまさしくお前がそういう人間であったからこそだ。少しでも野心がある人間にとっては、お前のような奴は猛毒と同じだからな」
「……」
「言いたいことがあるなら言え。過ぎ去ったとはいえ、わしが若かりし頃、従卒として使えてくれたお前に、敬意を表そうじゃないか」
じっとりと藍色の目で睨みつけられて、ジュールは鼻を鳴らした。その言葉にふるふると体を震わせて、ヘンドリックは口を開いた。
「欲がない?欲ならある!この世に、ジュリナ以上の女なんていないでしょう?……それに、それ以外の権力も金も名声も俺の知ったことではありません」
震える声を恥じるようにヘンドリックはいったん口を閉じ、呼吸を整えた。
もうちょっとおっさんのターン