はじまり-05
「それから三年、わしはあいつを使い倒した」
「……」
真っ赤に燃える暖炉の明かりの前で腕を組んで、ただ話を聞いていたヘンドリックはため息をついた。信じられない、というように大きく首を振ったあと、持っていた酒瓶からもう一度ジュールの杯に紫色の酒を注ぎこむ。
「薄物一枚で、青ざめた顔をしておったよ。仮宿の岩場までは獲物と一緒に引きずったから体中傷だらけになっておった。それでも生きて動いたからな。なかなかに見所がある」
「……信じられません」
老人の話が終わったことを確かめて、ジュリナが口を開いた。話の生々しさに動揺しているのか、若草色の瞳が濡れて大きくなっている。
「ここへ連れてきてせめて看病してやればよろしかったのでは?」
「……」
ジュールは杯の酒を揺らし、なにも言わずに口に運んだ。答えるようすがないのを見るやジュリアはヘンドリックへ目を向けた。苦々しい顔をしているのはどちらも同じだが、ヘンドリックはジュリナには甘い。
「雪山でジュールの上に落ちてきたことそのものが僥倖だったのだ」
「それでもあなた……!」
「言葉も分からぬ、どこのだれかもわからん相手を下手に領地へ運んでやるよりよほど親切だったろうよ。考えてもみろ、そんな人間がふらっと入ってこれるほどこの地の守りはたやすいのか。薄物一枚で山に入る?ばかばかしい。あの山の恐ろしさは私たちがいちばんよく知っているだろう?――もし、あの山をなんの装備もなく踏破できたという人間がいれば、私がそいつを真っ先に捕まえて尋問しているだろうよ。手に負えないとすれば、中央へ送ることもするだろう」
「……!」
「それに、誰にも知られず雪溜まりに埋まっていた可能性の方が高い。ジュールはそれを救ってやったのだ」
びくっと体を震わせたジュリナの肩を抱いてヘンドリックは優しく続けた。
「他国の間者かもしれない。違うかもしれない。しかも、言葉は通じない。己の潔白を証明することもできなければ、弁護を求めることもできない。それでは奇跡が起こらない限り、生きる目はなかろう……が、それは三年をジュールと過ごしたという。これがどういうことか分かるか?」
「……」
「少なくとも言葉を覚え、山のしきたりを覚え、ジュールの教えを受けた。下手な学校に行くよりもよほど身になるではないか。しかも、まさか弟子、という言葉を聞くとは思いもしなかったが……」
今度はヘンドリックがジュールを強く見つめた。手に入らない憧れを追い続ける大人の、切実な色が浮かんでいる。
「なに、吹雪の間の手慰みよ。ちょうど一人で籠るにも飽きた頃だった。空いた時間に言葉を教え、狩りのエサに使っていれば自然になにかと覚えよった。月が二回過ぎるころには、わしと対等に競っていたぞ」
「なんと――」
「手先も器用で覚えも悪くない。最初はもたもた動いて邪魔にしかならなかったが、罠を教えればうまく使いこなしもしたし、なにより体力があった」
「ですが、それだけでは」
もの言いたげなヘンドリックを押しとどめ、ジュールは杯を目の高さにあげた。挑むような笑みが唇に浮かんでいる。
「それにわしは興味があった。馴染みのものどもが次々と子をなし、口々に良いものだと言っておったからな。子孫を残す、というのは言うなれば記憶を継いでいくということだろう。確かにわしの記憶をわしだけで途絶えさせるには惜しい。この山の記憶も、通り抜けてきた戦の記憶も」
なにかを追悼するときのように、ジュールは目を閉じ、そして盃を一気に干した。ふうっと息を吐き、挑む目でヘンドリックの視線を受けた。
「わずか三年で、という者もおるだろう。しかし、わしはそのほとんどをあいつに残してやった。いずれ、すべてを受け継ぐ日が来るかもしれん。だから、弟子だ。さしものわしも、たった一人で血のつながった子供を授かるわけがないからなあ」
こもった笑い声をあげるジュールを、痛ましいものを見るような眼でジュリナが見つめている。
「ジュール様……あなた……」
「なに奥方、わしは面白がっておるのよ。無冠のわしが戴いた、これを受け継ぐものが出てくるかどうか、それはまさに神のいたずらというもの。そうであれば、最後まで味あわねば、損をする」
「……」
ぎゅっと唇を引き結んだジュリナの顔を、思わぬ優しい目で見てジュールは笑んだ。沈黙の落ちる室内に、ただ炎のはぜる音だけが高らかに響き渡った。
こりゃいっぺん登場人物紹介せなあかんかも。という危惧に襲われています。これ、恋愛カテゴリの異世界トリップのメイドものですから!!!!
なんか書いててすごく怖い感じがしました。