はじまり-03
ぱちぱち、と暖炉の炎が音を立てて燃え盛っている。
あれからすぐに、老人と壮年、そしてその奥方(だと思われる)はそろって別室へ移動していた。リナだけがこの暖炉の部屋へ取り残されたのだ。
(なんか似てる)
この世界へ来た、いちばんはじめの日。
こんな豪華な部屋ではなくて、岩をくりぬいたみたいなほら穴の中で、こうやって炎をじっと眺めていた記憶があった。
火に当たっている方の顔がちくちく痛い。それでも目を離すことも、離れることもできないでいる。ひとりにされた時に、形ばかり整えられたティーセットもテーブルに置いたままだ。
薪を舐める炎の揺らめきを見ていると、どうしようもない焦燥が沸き上がってくる。触れることもしなかったあの日の思い出が、動かないリナを手招きしているようだ。
(確か――)
その時の寒さを思い出して、ぶるん、と体が震えた。
慌てて革のマントを強く巻きつける。鼻につんと来る獣脂の匂いにほっと息をついた。防水のためにたっぷりと塗り込めた獣脂はきついにおいを放つので、慣れない人間が近づくと確かにくさいだろう。
リナも最初はあまりのひどさに目を回したのではなかったか。
(水と泥と獣脂の匂いに、焙った肉のにおい)
思い出すだけでえずいてしまう、強烈な記憶が蘇った。嫌な感じに喉が鳴る。
(師匠の上に落ちたんだっけ)
燃え盛る炎が、あの日の焚き火にシンクロしてゆく。真っ暗で、静かで、芯から凍えているのにあたたまるのは体の表面だけだった、人生でいちばん最低なあの日に。
新雪に飛び込んだことはあるだろうか。
降ったばかりで誰も踏み入れていない、ふわふわの雪溜まりにはたぶん魔法がかかっている。
長靴を履いていれば、気持ちいいほどに踏み込んでそこを荒し回ってもいい。がっちり着こんで防寒対策をして寝っ転がるのでもいい。思ったほどクッションがなくて、しこたま凍った土の上に叩きつけられる痛みに苦しむことがあっても、まあ冬の楽しみの一つだ。
では、薄っぺらい木綿の寝巻一枚で、背中から落ちたことは?
リナはある。
布一枚の薄着で、文字通り着のみ着のままこの世界に落ちてきたその瞬間のことは、いまでもはっきりと思い出すことができた。もちろん、落ちる理由に心当たりは全くない。
(痛い)
最初に感じたのは、痛みだった。
なにが起こったのか分からなかった。背中の痛みに顔をしかめ、そのあとすぐに溶けた雪が体を濡らすことに困惑する。
いったいどこにいるのか、理解ができなかった。濡れた部分がすぐ凍りついて肌が痛い。両手を脇に回し、それでもどうしようもない寒さで体ががくがく震えた。
(なにが、なんでこんな寒いの)
次は恐怖が襲ってきた。リナは家にいたはずだ。普通に布団をかぶって寝た覚えがある。戸締りはしたし、そもそもリナの住む地方の天気予報では、大雪に注意なんて出ていなかった。
「**!**********!!!」
寒さとは違う、根源的な恐怖に身を震わせて、リナは息を飲んだ。風の吹きつける音がうるさいのに、その声は妙にはっきりと耳に届いてきた。
「な、なに」
白一色の背景の中に、蠢く黒い影が目の前に立った。と、同時にリナの体が音を立てて地面に落ちた。どうやら、それ、の上に座りこんでいたらしいと気がついたのは、ゆっくりと振り向きざまにひどくまがまがしい目で睨みつけられたからだ。
「――っ」
それ、がなにを言ったのかリナはいまでも分からない。聞くのはとうに諦めた。あとから聞いても教えてくれなかったし、あまりよい言葉でないのだろうという予想がついたからだ。
「あ、あの……」
かじかんで動かなくなりつつある指先を胸の上で組み合わせて、唯一の手掛かりに向き直った。恐怖も寒さも限界は突破している。けれど、人間追い詰められればある程度はがんばれるものだ。
「ここは、」
途中で言葉を止めたのは、目の端に映る不穏な色のせいだった。目だけでそれを見つめると、雪の上に点々とあとが残っていた。
(――血)
雪の光に照り映えた銀色の刃が、真っ赤に染まっているのを見てリナは意識を失った。
長々とすみません。たぶんこんな感じでのろのろ続くと思います。