50 黒猫。
ダーレオク家のルアンの部屋。
ベッドの上で濡れた髪をクアロに拭かれながら、ルアンは資料と向き合っていた。
「ルー。最初に会った時より、やっぱり髪伸びたわね」
「生きているから、伸びるに決まってるでしょ」
「死んでも、髪も爪も伸びるものでしょ?」
「違うよ、皮膚が縮んで、髪も爪も伸びたように見えるだけ」
「それ、どこで知ったのよ……」
「前世」
青い顔を引きつらせたクアロは、相変わらずのルアンに肩を竦めて隣に座る。そして、資料を覗き込んだ。
「ああ……毒花の殺人鬼の件ね。まだ事件、起こしてないんでしょう?」
毒花の殺人鬼らしき殺人事件は、今のところ一件も報告されていない。
過剰な刺殺死体もなし。毒の花がそばに置かれた死体もなし。
「わからないよ、追い込まれれば手口は変えることもある。気付かないだけで、死体をどこかで積み上げているって可能性もある」
ルアンは自分の顎を指で撫でながら、さらりと言う。想像したクアロは、また青い顔をした。
「でもアイツにはこだわりがある。そう簡単には、こだわりを捨てられないはずだ。いたぶって殺すことで快感を得る性的サディストだから、その点は変えてないはず。薬もまだ使い続ける。死体が見付かる度に、直接出向いてあたしが見抜かなきゃ、発覚しないかも」
殺人鬼がどう手口を変えたにせよ、結局誰かが殺されてからでなくては、見付けられない。
「ルアンが見た犯人の容姿も、ビラ配って呼び掛けているのに、全く見付からないわね」
「誰もが身近に殺人鬼がいるなんて、思わないからね。そばで殺人事件が起きれば疑うけれど、それまでは他人事。元々、刃物を持っていなければ、アイツはただの若者だしね」
つまりは、あまり効果はない。
「一度、南部の街を離れたのかも……。でも、いつかは戻ってくるはず。サディストだから、殺し損ねたあたしを放っておくとは考えられない。せっかちな方だから、長くは離れないはず。あたしをいたぶって殺す計画を立ててるために、遅かれ早かれあたしを探りにくる。それが捕まえる絶好のチャンス」
パチン、とルアンは小さな手で指を鳴らした。
「殺させない。守るわ」
クアロはルアンの肩を掴み、琥珀の瞳で真っ直ぐに見つめて告げる。
「わかってる。常に気を配ってて、子守りさん」
口を緩めて、ルアンは軽く返す。
「わかりました、幹部様」
「……」
「フフン」
クアロは言い返した。
スペンサーの未来話では、ルアンは幹部。ルアンはそれを気に入っていない。
ルアンは笑みをなくし、クアロを見据える。それをクアロが鼻で笑って見た。
ルアンは立ち上がると、クアロの胸に飛び込んでベッドに押し倒す。
「やんのか? この!」
クアロは受けて立つと、ルアンの頭を鷲掴みにして揉みくちゃにした。ルアンも暴れて、クアロの髪を乱す。
笑いながら、ベッドの上で戯れていたが、クアロは両手でルアンの頭を掴んで止めさせた。
「……殺人鬼に襲われた時、怖かった?」
「……」
クアロの胸の上で、ルアンは頬杖をつく。
殺人鬼に殺されかけた瞬間。
「怖くなかったと言ったら、嘘になる。ぶっちゃけ、身体が動けなくって、意識が遠退いて、このまま来世に行くと本気で思った。クアロあのオカマ野郎は何していやがるんだって思った」
「本当に許して」
ルアンをクアロは謝罪を込めて力一杯に抱き締めた。
「もういいって」とルアンは腕を退かす。
「ただ……」
自分の死よりも、クアロ達が死んだかもしれないと思った瞬間が一番、怖かった。ルアンはそれを口にしない。
「なによ。言ってよ」
クアロが聞き出そうと頬をつねった。
ルアンは代わりに他のことを話すことにする。
「思ったんだよね。前世で生まれ変わったら記憶があってほしいって願ったのは、結局のところ自己愛の表れだって。今の自分でありたい、死にたくない、生きていたいっていう表れ」
どこか遠い目を見つめて、ポツリ。
「ルー……」
「前世でどう死んだかなんて覚えてない。それでもね……恐怖を感じたし、なにより」
ルアンはクアロの上で、微笑んだ。
「生きたいって、思った。もっとこの人生をね」
ルアン・ダーレオクの人生を、もっと生きたい。
ルアンの前世の話を聞いていたクアロは、胸を熱くした。
生きたいと願う少女。彼女を、死なせかけた。
指先でクアロの乱れた髪をいじるルアンの頭を、また両手で押さえ付ける。それから、ルアンの前髪に唇を押し付けた。
「ルーの人生、守るわ。イカれた殺人鬼なんかに、奪わせない」
琥珀色の瞳は、強い意思を宿してルアンに告げる。
ルアンはふっと微笑みを深めると、右手でクアロの口を塞いだ。その右手の甲にルアンは唇を押し付けた。
ちゅっ。
リップ音を耳にしたクアロは、目を見開く。そしてルアンの頭を上げさせた。
「……やけに、きれいなリップ音だったけど……アンタ、誰とも唇にキスなんてしてないわよね? キスは10歳になってからなんだからね。ボスが知ったら、私は殺されるんだけど」
この国はやけにファーストキスに煩い。だからルアンは、掌越しのキスをした。
「ちゅーぐらい、別にいいじゃん」
「だめに決まってるでしょ!」
「あたし、クアロより上手い自信ある」
「生意気な! 私の方が上手いわよ!」
「へー試してみる?」
「試せるわけない!」
そこで、扉がノックされた。
「はーい、どうぞ」
上にルアンが乗ったまま、クアロは起き上がり髪を整えながら、入室の許可を出す。
「失礼します」
入ったのは、木のバインダーを手にしたピアース。
入るなり、ベッドの上のクアロとルアンを目にして固まった。バインダーを落として、湯立てられたように顔を真っ赤にする。
「固まってないで、扉閉めて来なさいよ」
「は、は、はい」
ルアンに手招きされ、ガチガチになりながらも、ピアースはベッドまで歩み寄った。それからルアンが差し出す手に、体温計を置く。
「なに?」
「あ、ルアンさんの健康チェックです。レアン様が居候の条件に、ルアンさんの健康管理を頼まれまして」
クアロが問うと、ピアースは物腰柔らかく答えた。
「ルアンさんは風邪も悪化するまで休まないそうなので、悪化しないように朝と夜にチェックしているんです」
「へー、なるほど。ピアースさんがいるなら、ルーが風邪で倒れることもないですね。助かります。この通り、家まで仕事を持ち込んで、実質、休んでいない子なので」
だからレアンからピアースの居候の許可が出た。
クアロは納得して、ベッドに散乱した資料を掻き集めて整える。
「……あの殺人鬼の資料ですか……。手掛かり、まだ掴めていないようですね」
ピアースはそれを見て、顔を曇らせた。
ピアースの世話をしてくれたブラーイア夫婦を惨殺した犯人。
「ブラーイア夫婦の墓を立ててもらって……本当にルアンさんには何から何まで……お世話になってしまい、申し訳ないです。うわぁ!?」
ピアースが深々と頭を下げたあと、情けない声を上げた。
ルアン達がピアースの足元を見ると、仔猫が一匹。よじ登ろうとしていた。
「ね、ねね、猫!? 飼ってましたっけ!?」
「今日から」
「名前は決めたの?」
「メイドウがつけた。ネラだって」
驚きながらもピアースは持ち上げて、ルアンに渡す。
雄の黒猫の名は、ネラ。ルアンの足に頬擦りして、寝転がるネラを、クアロは撫でた。
「はい、体温計」
「あ、はい。……平熱ですね」
水銀の体温計を確認して、ピアースはバインダーに止めた紙に書き込んだ。
「今後は気温が上がってくるので、少しでも怠く感じたら休んでくださいね」
「はぁい、せんせ。常日頃怠いです」
「怠けたいだけでしょ。休みの日に休めばいいのよ」
ふざけるルアンの頬を、クアロはつつく。
それを見て、ピアースがクスクスと笑う。
「本当に仲が良いのですね……。では、僕は失礼します。おやすみなさい」
微笑むとピアースは、一礼して部屋をあとにした。
横目で見送ったルアンは、クアロに言う。
「ピアースのことも、注意しておいて」
「え?」
「私を呼んで追い込ませたのは、ピアースだ。毒の花の殺人鬼の怒りの矛先にもなりうる」
クアロが、目を見開く。
「えっ……じゃあ、ルーがピアースさんを勧誘したのは、守るためだったの?」
「依頼した故に依頼人が狙われて殺されるなんて、だめだろうが。身を守るためのギアを学ぶことも、怪我の手当ての経験も、今後役に立つしね。ゼアスにも一人にしない配慮を頼んだけど、クアロもよろしく」
ルアンは淡々と答えると、ベッドに横たわる。
「……なんで、一ヶ月前に言わないのよ」
頬杖をついて、クアロは少しむくれた。そんなクアロの腕を、ルアンは素足で蹴り飛ばして、頬杖を崩す。
「自分のことでいっぱいだったくせに、なにを言う。何様だ」
「……こんの小娘め」
「子守り様か?」
「幹部の子守り様よ!」
鼻で笑って嘲笑うルアンに襲い掛かり、クアロは揉みくちゃにした。ルアンも反撃をする。
ベッドの上が騒がしくなり、黒猫のネラはルアンの部屋から逃げ出した。
廊下をよちよちと歩いていたネラは、視線に気付いてびくりと震えては固まる。窓から見下ろす一人の青年に、ピンと尻尾を立たせた。
青年は、ただ微笑んだ。
「ネラー! おねんねの時間ですよー!」
ネラに歩み寄り、メイドウは抱え上げた。
「あら、どうしたの?」
身体を強張らせて窓を睨むネラに気付き、メイドウも窓を見る。誰もいない。
「よしよし」とメイドウはネラを撫でて、廊下を歩き去った。