44 勧誘。
毒の花の香りに満たされた陽射しの中、ルアンは目を覚ました。
宿の部屋の窓は全て開けられ、3月の冷たい風がカーテンを揺らして入り込む。
寒いが、毒の花の香りで痺れの方が強い。
ベッドに横たわるルアンの枕周りには、紫色の花が置かれていた。まるで棺桶の中に、飾られている。
ベニクロリジン。これがルアンに麻痺を与えている。
じっと花を見据えたあと、右側のベッド隅に、シワがあった。誰かが座っていた形跡。右手で周辺を触る。僅かにへこんでいた。長い時間、そこに座っていた証だ。
誰かが夜中、ルアンのそばにいた。
クアロ達とは考えられない。クアロ達ならば、毒の花をこのままにするわけがない。
毒の花を飾り付けるのは、あの殺人鬼の青年のサインだ。
間違いなく、夜中ベッドに腰を下ろしてそばにいたのは殺人鬼だ。
痺れを感じながら、ルアンはベッドから這い出て、よろけながらも窓へ行き、顔を出して新鮮な冷たい空気を吸い込む。
窓は二面の壁にある。ルアンが顔を出した窓から、村長の家の壁が見えた。宿と村長の家の間に、人一人が余裕で通れる隙間がある。身を乗り出して確認すると、広間が見えた。そして窓辺には、砂がある。
青年はここでルアンが村人に呼び掛けるのを聞いていたのだろう。見覚えがなかったため、そう推測する。
宿のこの部屋は、呼び掛け前に決めて一度入った。
ガリアンが村人を集めたのだ。
青年は偵察しに来て、ルアンがこの部屋に入った姿を、青年は窓から見たかもしれない。そして、ルアンの呼び掛けを聞き、殺すことを決めた。
この窓から侵入して、待ち構えた。
しかし、ルアンを殺さなかった。殺せなかった。
ルアンはベッドまで戻る。短剣が転がったはずだが、ない。
次にルアンはドアに向かう。ドアノブを掴もうとしたが、躊躇する。
このドアの向こうを、想像した。赤だ。一面の赤。二組の夫婦の殺害現場が、浮かぶ。
その可能性は、十分にあり得た。青年が長い時間、ベッドに腰を掛けられた理由。それは、部屋を訪ねる者がいないからだ。言い換えると、部屋を訪ねる者を消したからだ。
恐怖を抑え込み、ルアンはドアノブを回して、ドアを引いた。
「おはようございます、ルアン様」
一番先に目に入ったのは、宿のロビーの中央近くに置かれたソファーに、仰向きに寝て大きな口を開けてイビキをかくシヤン。
彼に毛布をかけるゼアスチャンが、丁寧に頭を下げてルアンに挨拶した。
向かいのソファーでは、クアロも毛布にくるまって寝ている。受付の机の前には、椅子の上で膝を抱えて毛布にくるまるピアースも眠っていた。
「日が昇ったので、皆には寝てもらいました。殺人鬼は現れませんでしたね。犯行手口を言い当てたルアン様に、恐れをなして逃げてしまったのでしょう」
ゼアスチャンが、言う。
ルアンが一晩中殺人鬼とともにいたことを、知らない。微塵も気付いていない。
一度もゼアスチャン達は、ルアンの部屋を確認しなかった。そして、なにも知らず、大口開けてイビキをかいている。
ルアンは静かにそれを見つめた。
「朝食にしますか? 私でよければ、朝支度を手伝います」
ゼアスチャンが自分の胸に手を当てて、控えめに申し出る。
クアロの間の抜けた寝顔を見つめた翡翠の瞳を、ゼアスチャンに向けた。そして、左手を上げると、人差し指でクイクイッと招く。
ゼアスチャンはすぐにルアンの目の前まで歩み寄ると、片膝をついて視線の高さを合わせた。
ルアンは、にこりと微笑む。優しい少女ぶった顔。そして左手で、紋様を書き始めた。
その手が震えたため、ゼアスチャンは支えようとしたが、ルアンの右肘が頬に直撃して拒絶される。
稲妻にも見える雷の紋様は完成し、光によって生み出された電撃がソファーで眠っていたクアロとシヤンに突き刺さった。途端に、二人が飛び上がる。
「な、なな、なに!?」
「なんだよ!?」
静電気をまとって髪は爆発的に広がり、クアロとシヤンはソファーの上で立ち上がり、慌てふためく。
二人の声に、ピアースも飛び起きた。
「ルアン!? いきなりなによ! なに雷のギアっ……ちょ、それで起こして、なんのつもりよ!?」
「心臓が止まるかと思ったぞ!! てめぇールアン!!」
宙に浮かぶ雷の紋様を見て、それで叩き起こされたと知ると、クアロとシヤンは怒鳴り声を上げる。
ピアースはまだ状況がわからず、オロオロと左右を見た。
口の中が切れてしまったゼアスチャンも、わけがわからず、黙ってルアンを見る。
にっこり、と笑みを深めたルアンは、今日初めて声を発した。
「口答えすんなこの役立たずどもっ!!!!」
笑顔は消され、クアロ達の怒鳴り声を遥かに越える怒号が飛ぶ。
同時に紋様から電撃が放たれ、また二人の身体に突き刺さる。バチバチッと電流が走るが、それは至って軽いものだ。ルアンが加減している。
ヨロッ、とルアンがよろめくが、踏みとどまった。
ゼアスチャンは目を見開き、ピアースは驚愕して硬直した。
「な、なんのことっ、ぎゃあ!」
クアロが理由を問い詰めようとしたが、もう一発電撃が放たれる。同じく食らったシヤンは、喋るなとクアロを睨み付けた。
「はぁ……あたしにも非があると認める。あたしのせいで脱獄は減り、緊張で張り詰めた日々が消え失せた。あたしのせいよね、お前らが腑抜けになったのは……」
ルアンは深く溜め息をついて、自分の前髪を掻き上げて、額を押さえる。
「間抜けのてめぇーらを、責任持って調教してやるっ!!!」
怒号をまた飛ばすと、バチバチッと電撃を放ち、食らったクアロとシヤンは震え上がった。
「ル、ルアン様……私は……」
「喜ぶだけのてめぇーは放置だ! すっこんでろ!!」
ゼアスチャンに、ルアンは吐き捨てるだけで相手にしない。放置こそ、ゼアスチャンに一番利く。
「ゼェーゼェー……な、なにキレてるか、言って、よっ」
息を切らしながら、クアロは説明を求める。シヤンはソファーの背凭れに倒れて、電撃のダメージで顔を上げられない。
顔を上げてルアンは見下すようにクアロを見据え、腰に手を当てて言い放つ。
「殺人鬼があたしを殺そうとした。てめぇらのすぐ隣でな」
衝撃の事実に絶句しているクアロ達に、ルアンは続けて言い放った。
「奴が欲しいのは恐怖。代わりに笑ってやったら、逆に怯えてやがった。あたしが気を失っている間も、奴はこの部屋にいた。あたしと、夜中、ずっとな」
ルアンは鋭い眼差しをクアロだけに向ける。
「じゃ、じゃあ、今すぐ探さないと!」
「このど阿呆! とっくに村を出たに決まってるだろうがっ!」
よろめきながら立ち上がるクアロに、苛立ちを露にして自分の髪を握り締めたルアンが怒鳴る。
「顔はちゃんと見た、特徴を伝えておくが、もう二度とこの村には来ない。捕まえられなかったが、この村はもう安全だ」
「ほ、本当、ですか?」
「あの殺人鬼はもう来ない」
ピアースに向けて、ルアンは静かに告げた。
椅子から立ち上がっていたピアースは、力が抜けて床にぺたりと座り込む。
「取り逃がしたから、キレてるのか? ルアン」
「私達に八つ当たりしないで」
雷の紋様が消えて、安心したシヤンも口を開く。続いてクアロも言いながら髪を整えた。
ピアースから目を逸らすと、ルアンの翡翠の瞳に怒りが戻り、クアロを睨み付ける。
「なにふざけたことをほざいていやがるクソガキどもっ!!」
十歳も年下にクソガキと怒鳴られ、クアロとシヤンは震え上がった。ピアースも驚く。
「てめぇーらは、このあたしの無事を確認もせず呑気に寝やがった!! 一度もだ! 一度も見なかったんだろ!? 見れば枕元の毒の花に気付いたはず! 忘れてたとでも言うつもりか!? このあたしが殺人鬼を誘き出す囮になったことを!」
責め立てられ、気圧される。
「で、でも、生きてるんだし……」
ルアンは生きている。だから、そこまで怒るなとクアロは言いかけた。
「ざけんなっ!!!!」
少女の声が、まるで悲鳴のように上げられる。
「結果生きていたならいいのかよ!! あたしは殺されかけた! 身体は指一本動かせず、声も出せず、挙げ句には毒で気を失ったんだぞ! 運よく助かった! でもあたしは死ぬところだったんだぞ!!」
クアロだけに、ルアンは罵倒を続けた。
「あたしが強くなったからって気を抜いてんじゃねぇ!! てめぇはあたしの護衛だぞ! 忘れてんのか!? 昨日見たことを思い出せ!! そして想像しろよ! あの部屋のドアを開けた瞬間、あたしの死体が転がる光景を!! てめぇは運よくそれを見ずに済んだだけだ!!」
運よく助かった。
ただそれだけのこと。
運がなければ、死んでいた。
「てめぇーらがいるから囮をやったんだ! なのに殺人鬼が一晩中いても、てめぇーらは気付かなかった! クアロ、てめぇーは――裏切った!!」
最後の言葉が、深々と突き刺さり、クアロが肩を震わせる。
全力で叫んだルアンは、息を切らした。それでもクアロを一心に睨み上げる。
シン、と静まり返った。
「お、おい……クアロだけを、責めるなよ……」
シヤンは戸惑いながらも、クアロを庇う。責められるなら、シヤンとゼアスチャンもだ。
しかし、ルアンはクアロから目を放さなかった。
くらり、と目眩が起きて、またルアンがよろめく。だが、踏みとどまる。
すると、その緊迫した中で、ピアースが、ルアンの腕を掴んだ。
「あ、あの……ぼ、僕も、気付きませんでした……せ、責めるなら、僕も……」
ビクビクと怯えながらも、小さく言う。
ルアンはそれを見て、怒りを吐き出すように溜め息をつく。
「昨日言ったように、貴方は医者として救える人を救えばいいの。こいつらは役目を果たせなかったから、責められて当然」
親指でクアロ達を指差して、ルアンは冷たく言う。
「それより、依頼料の件だけれど、捕まえられなかったから払わなくていい。この仕事は失敗。申し訳ありません」
ピアースと向き合うと、ルアンは謝罪した。
ピアースから依頼されたのは、殺人鬼を捕まえること。既に逃亡したであろ殺人鬼を捕まえることは、難しい。依頼は果たせない。
「えっ、いえ!! ルアンさんは危険な目にまで遭ってまで、殺人鬼を追い払ったんです!! い、依頼料はきっちり払います!」
ギョッとしてピアースは、慌てて払うと言う。殺されかけたが、ルアンは村から殺人鬼を追い払った。ピアースは受け取るべきと思った。
「受け取らない」
「!!」
ルアンは一蹴して、きっぱりと断る。ピアースがルアン相手に食い下がることができるはずもなく、ただただ狼狽えた。
「それより、考えてたんだけれど。ピアース、ガリアンに入らない?」
腕を組んでルアンが勧誘すると、ピアースがポカンとする。
「ガリアンに入る以上、ギアを使いこなしてもらう。ガリアンだから危険は付き物だ。だからこそ、怪我人が出る。手当てするメンバーとして働けば、いい経験が出来る。ガリアンに入るなら、あたしの家に居候してもいい。部屋は有り余っているんだ。この村のバイトよりは儲かるし、治療経験も出来る。いい話だと思うけれど、どうする?」
ガリアンの医療メンバーになることを提案。住む場所も提供する。
貯金をして、都心に行くつもりであるピアースには、いい話だ。
最果てに無免許で医療行為をすることは珍しくない。医師免許は、言わば国からの保障。持っている医者には安心して身体を預けられるという証明。
都心に行かなくては、医師の免許は得られない。
都心に行くにも、住むにも、免許を得るためにも、大きな金がかかる。
ガリアンに入れば、住む場所も与えられ、治療の経験も出来、金も得られる。断る理由などなかった。
眼鏡の奥で見開いたピアースの目に、涙が込み上がる。それが溢れて落ちるのは、早かった。
「あっ……ありがとうございますっ……! ありがとうございますっ!!」
礼を何度言っても足りない。
ガリアンに依頼をしに行って断られたのに、ルアンが引き受けてくれた。捕まえることは出来なくとも、村を守った。それから、ルアンは励まし、手を差し出してくれた。
涙が止まらないピアースに、ルアンは手を伸ばすと、ブロンドをわしゃわしゃと撫でる。
それからまた、クアロを見上げた。まだ鋭さがある。だが、それもすぐに逸られた。
「言いすぎた、悪かった」
ぶっきらぼうに、ルアンはクアロに謝罪する。
シヤンは胸を撫で下ろしたが、クアロは立ち尽くしたまま。
「クアロ、シヤン、ゼアスチャン。てめぇーらは馬で帰るな。走って帰れ」
「はぁあ!? なんじゃそりゃ!」
「口答えすんな。脱獄犯の相手の代わりにあたしが相手してやる。先ずは罰として走って帰れ」
馬で二時間かかる街まで、ランニングの刑が言い渡され、シヤンはうんざりして頭を抱えた。
「ピアースは荷物をまとめなさい。シヤン達の馬が運べるくらい、多くはないでしょ?」
「は、はいっ!」
「ゼアスチャン。この事件の詳細を書類にして、書いておいてくださいね」
「……はい、畏まりました」
ルアンの指示を受けて頭を下げたあと、ゼアスチャンは謝罪する。
「……申し訳ありません、ルアン様。我々が役目を果たせなかったばかりに、危険な目に遭い、そして犯人を取り逃がした。貴女様の経歴に汚点をつけ、命の危機まで……」
「あたしが許可するまで、喋らないでください」
「……」
ゼアスチャンの謝罪も一蹴。
「殺人鬼を取り逃がしたことは大きな汚点だ。問題は経歴じゃない。依頼は果たせなかったし、他の街で奴は殺しを始める。ことを始めなきゃ、あたし達は居場所も掴めない。誰かが殺されるってことだ。阻止するには、奴の特徴を広めて注意を呼び掛けることだけ。その手配もしてください」
またルアンは溜め息をつく。許可がないため、ゼアスチャンは深く頭を下げるだけ。
レンティウ村の村人に、また集まってもらった。取り逃がしたことを謝罪して、殺人鬼の特徴を伝え、注意を呼び掛ける。
だが、レンティウ村はもう安全なはずだ。殺人鬼は去った。
それを聞き、村人達は喜び、ルアンに礼を言う。ルアンは笑みで対応するが、心からは笑っていない。
周辺の街や村にも、殺人鬼の青年の特徴と手口を記したビラを配り、注意を呼び掛けた。効果があったのか、あの青年らしき殺人事件が起きていない。
毒の花の殺人鬼の事件は、一度幕を閉じた。
20150420