毒葬の家
ここは、神の箱庭。草花とたわむれる美しい少女と、監視する兄たち。その家で、いったい何が起こったのか?残酷で愛しい怪奇小説。
両親の仕事の都合による引っ越しだったとはいえ、饗庭悠斗 は突然住むことになったこの田舎町が嫌いではなかった。近隣にはゲームセンターもなければカラオケボックスも無いが、娯楽施設が少ないという事実はあまり重要なことではなかった。都会とは比べ物にならないほどの澄んだ空気と、その空気を生み出す豊かな自然は、人工的な緑で誤魔化された都会とは違い、生命力溢れる鮮やかな緑でその町を埋め尽くしていた。毎朝の通勤ラッシュが無いことにも単純に喜んだ。今まで過ごしてきたごたごたとした日常から開放されたことが何よりも喜ばしく、田舎らしいゆったりとした生活が気に入っていた。
悠斗が通う高校は、悠斗の家から徒歩二十分程度で通える位置にある。悠斗が住んでいるのは小さな山の麓で、家が何軒か密集している所なのだが、そこを少し離れると、視界いっぱいに田園風景が広がる。田園の横を通る歩道をひたすら歩いていくと、広い墓所を持つ寺が現れる。そこを左折すると、校庭を囲う緑色のネットと白い校舎が見えてくるのだ。
悠斗がその通学路を歩き続けて、もう一年が経とうとしている。その間に出来た友人と呼べるような存在は、近所に住むクラスメイトの柚木美園 だけだった。
柚木は、人付き合いが億劫なために人を寄せ付けずにいた悠斗の態度に気づくような性分ではなく、悠斗の転校初日から積極的に悠斗に接触してきていた。他のクラスメイトは、悠斗がいつも気だるげに机に伏しているのを見て、交友を深める気がないというメッセージに気づき、既に土台が出来上がっている人間関係の上で、以前から変わらぬ日常を送っていた。しかし柚木は、女子にありがちな“グループ作り”には参加していなかったらしく、悠斗と話しているとき以外はいつも一人だった。しかし、常に他人と壁を作ってしまう悠斗と違い、グループに属していないだけで、男女を問わず誰とでも気さくに会話が出来るというタイプだった。人付き合いが苦手だとか、孤独が好きだとか、そういうネガティブなものではない。柚木にとっては、幼馴染も、隣のクラスの人間も、いきなり引っ越してきた余所者も、全てがトモダチという同じ価値を持っているようだった。
悠斗は昔から、他人に興味が無かった。特別に他人に嫌われるような悪い性格ではないと思っているが、大人数で騒いだり、他人が話す興味の無い話題に相槌を打ったりするのが、馬鹿馬鹿しくて苦手だった。だから最初から友達を作る気はなかった。一人でいるのは気楽だし、特に困ることも無い。しかしそんな悠斗が柚木を無理に突き放そうとしないのは、無理に話を合わせずとも気にする様子がないという大らかな性格と、さっぱりとした雰囲気が好印象で、付き合いやすい人間だったからだ。
ただ一つ、どうしても受け入れがたいことがあった。それは柚木が古今東西の奇妙な話、特にオカルトめいた話の収集を趣味としており、それを延々と話してくることだった。
今日も柚木は、春の夕方という穏やかな雰囲気を無視して、悠斗ににぎやかに話しかけていた。ただし話題は、幽霊についてだった。辺りに漂う甘い花の香りが台無しだ、と思いながらも、悠斗は並んで歩く柚木の話に耳を傾けていた。
「幽霊はいる。何故なら、幽霊が存在する明確な証拠はないけど、逆に、存在しないという証拠もないから。悠斗はいつも幽霊はいないって否定するけど、そんなに否定したいなら、幽霊が存在しないっていう証拠を見せてよ」
「無茶苦茶だ。そんなの、出来るわけないだろ。俺は否定し続けるよ、そんな作り話信じないって」
二人とも部活には入っていないので、下校時間は同じになる。しかも通学路が同じなため、家に着くまではこの状態だ。逃げるという手もあるが、一年間付き合った仲となれば、さすがの悠斗もそこまで邪険には出来なかった。
やっと田園を横断し、家の姿が見えてきた。悠斗は早く開放されたい一心で、自宅が見えてくるなり「じゃあ、また明日な」と言って、そそくさと柚木のそばを離れた。柚木は少し戸惑ったように何かを言いかけたが、家の近くだったということもあり、特に不満を漏らさず「また明日ね!」と元気に返してきた。柚木の家はもう少し奥のほうにあるので、うっすらとオレンジ色になった砂利道を、軽快な足取りで歩いていった。
悠斗は自宅の前まで行き、鞄の中から鍵を取り出し、それを鍵穴に差し込んだ。しかし耳に流れ込んできた澄んだ歌声によって、鍵を回そうとした手の動きは止められた。背後を小さな人影が通過した気配がした。あたりを見回すと、山の方角に向かって歩いていく少女の後姿があった。その方向には二軒の家があったのでそこの住人かとも思ったが、よく考えればそのどちらの家の家族にも、少女がいた覚えは無かった。少女はおもむろに立ち止まり、山を見上げた。丁度その時風が吹き、少女の絹糸のような長い髪をなびかせたので、その美しい横顔が一瞬だけ確認できた。風が去ると、漆黒がその横顔を覆い隠してしまい、少女は山を見上げるのを止めて、水色のワンピースの裾を翻して、そのまま真っ直ぐに歩き始めた。
悠斗は、何故かは知らないが、その正体不明の少女の後姿に見入っていた。気がつけば、鍵を鍵穴から抜くのも忘れて、その後を追っていた。どちらの家の住人でもないなら、どの家の人間なのだろうか、この近所に住んでいるのだろうか――様々な疑問が心の中に生まれるうちにも、少女は行き止まりの道を真っ直ぐに歩き始める。いよいよおかしいと思った時、少女は左に曲がり、道の最奥に建つ家の塀の陰へと消えた。悠斗は塀から半分だけ頭を出して覗き込むと、山の緑に消えていく少女の姿をとらえた。少女が山に飲み込まれてすぐに、足音を気にすることなくその入り口に近寄った悠斗は、そこに古い木製の看板が立っており、「立ち入りを禁じる」と書かれているのを確認した。
何故かその少女のことが気になった。今追いかけなければきっと後悔するという、根拠のない強い確信があった。悠斗は看板を無視して、周囲よりも下生えの少ない細い道に足を踏み入れた。この山に入るのは初めてだったので、地面がぬかるんで滑りやすいことを知らず、何度も転びそうになった。ただでさえ夕方なのに、密集した梢が僅かな陽光を更に遮断しているため、視界は鮮明ではない。それでも木や幹に体を預けながら道を登っていくと、水色のワンピース姿が遠くに見えた。そしてその姿は軽快な足取りのまま、すぐに見えなくなる。するとそこで急に道が広くなり、地面に階段が現れた。厚い木の板を土に埋め込んだだけの簡単なつくりの階段を足早に登ると、突然それは姿を現した。
そこにあったのは、この山中にあるのが不自然なくらいの立派な家だった。青々とした生垣の向こうに、瓦屋根の木造の家が建っている。建物の周りに鬱蒼と茂る木々のせいで家には日光があまり当たっていないが、生垣の隙間からわずかに見える庭のような所だけは、夕日の色にうっすらと染まっているのが見える。
表札を見ると、「倉田」と書かれている。生垣は手入れが行き届いており、誰かが住んでいるのは間違いがなさそうだった。
きゅ、と蛇口を捻るような音が、その庭からした。それから水を撒くような水音に混じって、あの歌声が聞こえてきた。その声の主があの少女であることを確認しようと玄関に近づき、生垣の向こうを覗き込んだ。
土の上には隙間なく草が生い茂り、細い木の幹に蔦が執拗に絡みつき、プランターに植えられた色とりどりの花たちは辺りに濃厚な香りを撒き散らしていて――その素晴らしい庭園に息づく草木に水の恵みを与えているのは、間違いなく先ほどの少女だった。少女は悠斗に背を向けていたが、白い横顔を一瞬見ることができた。近くで見てみると、その少女がいかに魅力的であるかがよくわかった。黒曜石のような大きな瞳、陶器の肌、小柄な身体……。胸が高鳴るのを、悠斗本人が気づかないわけがなかった。
水を撒き終えた少女が、こちらに顔を向けた。その時、少女の目が一気に見開かれ、少女は持っていた青いホースを地面に落としてしまった。ホースが地面で蛇のように踊る。
悠斗は慌てふためく。
「あ、えっと、別に怪しい者ではないです! さっき下の方で、その」
珍しいことに馬鹿みたいに緊張していて、舌がうまくまわらない。その慌てぶり、もしくは間抜けな姿を見たからだろうか、少女はハッと我に返り、水が出っ放しのホースを拾い上げて蛇口を捻った。おとなしくなったホースを地面に置きなおして、少女は悠斗を見た。
「ごめんなさい、知らない人がいたから、驚いてしまって。何か用ですか」
「用は……」
悠斗は答えに詰まってしまい、目をそらす。自分でも、自分の行動の意味がわかっていなかった。しかし何か言わなければ、不審者扱いされかねない。
「俺、この山のすぐ下に住んでるんだけど、いつも見かけない人がいて、しかも山の中に入って行ったから不思議に思って」
うまく話をまとめられなかったが、少女は悠斗の言わんとすることを何とか察したようで、キョトンとしていた表情をやっと和らげて、僅かに笑った。
「そうですよね。本来あの道は、滑って危ないから通っちゃ駄目なんです。変に思われても仕方がないですね」
「別に変な意図はなかったんだ。ちょっと気になっただけで」
「わかりました。――せっかくですから、お茶でも飲んでいきませんか? せっかくこんな所までのぼっていらしたんだから」
悠斗は予想していなかった言葉に驚いた。普段の悠斗なら、初対面の誰かとお茶を飲むなど絶対にしなかっただろう。しかしこの家の異質さが気になって、詳しく話を聞いてみたいという欲求にかられた。
「それじゃあ、ちょっとだけ」
そう答えると、少女は嬉しそうに微笑み、縁側の上がり口に据えられた沓脱ぎ石に脱いだ靴をのせ、縁側で待っているように言い置いてから、家の中に消えていった。
悠斗は縁側に腰をおろし、深呼吸してから、改めて庭園を見渡す。家は和風だが、庭は日本庭園というよりはむしろ、あらゆる植物を詰め込んだ温室のような印象だった。植物に関する知識に乏しいため名前はわからないが、白いプランターに植えられた植物はそれぞれ個性的な花を咲かせている。植えられた木の葉が緩やかな風に揺らされ、耳に心地よい音をたてている。地面には、土の上を這うように伸びた茎から顔を出した黄色い花、スズラン、スイートピーなど、定番のものから名前のわからないものまで、様々な植物が根を下ろしている。庭園中に濃厚な花の香りが漂い、撒かれたばかりの水の粒が、葉の上できらきらと光っていた。
喉がカラカラに渇いていた。慣れない山道を登ってきたからではない、緊張のせいだ。
やがて少女がお盆にコップをのせて現れた。
「どうぞ」
「ありがとう」
悠斗は手を伸ばしてコップを受け取る。冷たい麦茶で喉を潤した。少女はお盆を床に置き、悠斗の隣に腰掛けた。
「自己紹介がまだでしたね。私は倉田凪子《 くらたなぎこ》 といいます」
「俺は、饗庭悠斗。高校二年生だ」
「じゃあ、私より一つ年上ですね」
「え?」
悠斗は、予想よりもこの凪子という少女の年齢が高かったことに驚いた。
「私、身長低いから。中学生くらいに見えました?」
「悪いけど、正直そう見えたよ。じゃあ高校はどこ? 俺は栗山高校だけど」
このあたりには悠斗が通う栗山高校と、反対側にもう一つ高校があるが、そのどちらだろうと思って訊くと、凪子は首を横に振った。
「私、体が弱くて、昔から学校には殆ど行けていなかったんです。この間、中学校を卒業したんだけど、高校には行けなかったんです」
悠斗は返答に困り、口ごもる。凪子は痩せていて、顔色があまりよくない。あまり外出もしていないのだろうか、日焼けもしていない。確かに病人のように見えた。
「ずっとこの家で療養してるの。おかげで友達はいないし、毎日退屈で」
「そう、なのか……」
凪子は淡々と言ったが、悠斗にはそれはとても深刻なことのように聞こえた。悠斗は当然のように高校に通い、退屈な授業を義務として受けている。しかし、高校に行きたくても行けない人もいるのだということに、改めて気づかされた。
気まずくなり、悠斗は話題を変えることにした。
「そういえばさ、俺、今まで山への入り口に誰か入っていったのなんか見たことないぞ。ずっとここに住んでるんだろ? 他の家族を見かけてもおかしくないのに」
「この家の裏手から、別の場所に続く道に出られるんですよ。そちらの道の方が通りやすいから、普段はそちらを使っています。その道の途中にポストがあって、郵便物はそちらに入れてもらうようにしているから、郵便屋さんもあの入り口は使わないんです。それにあの道、滑りやすくて危ないでしょう」
「なるほど」
話してみると、凪子はにぎやかな柚木とは正反対のタイプで、落ち着いた性格だった。脆さや儚さを持っているとでも言えばいいのだろうか。道端に咲いた小さな花や、外気に触れることなく大事に育てられた温室の花のような、特別な雰囲気を感じさせた。
「そういえば、さっきはどうしてあんなところに?」
悠斗が気になっていたことを訊くと、凪子は肩を竦める。
「普段はあまり外に出てはいけないから、家族が誰もいないうちに抜け出したんです。散歩くらいしか出来なかったけど」
「じゃあ本当に普段はずっとこの家に?」
すると凪子は溜め息をついた。
「はい、ずっと家にいます。外に出ようとすると兄が止めるの。心配性なんです」
凪子の痩せた体を見ただけで、兄が凪子の外出を心配する理由を推測することが出来た。学校にも殆ど行けなかったくらいだから、本当に体が弱いのだろう。もしかしたら貧血を起こすなどの心配があるのかもしれなかった。
凪子が突然「あ」と声を上げる。凪子が見ている軒先に目をやると、自分と同い年くらいの細身の男が立っていた。悠斗の目と男の釣り上がった目が合った瞬間、男は驚いたように目を見開いたが、すぐに威嚇するように悠斗を睨み付けた。
「お帰りなさい、棗 兄さん」
凪子が立ち上がってそう言うと、どうやら凪子の兄らしい棗という男が庭に入ってきた。どうしていいかわからず、悠斗は座ったまま棗を見上げる。
棗は悠斗と凪子を見比べるように交互に見る。そして凪子に威圧的な視線を向けた。
「この男は何だ?」
凪子は棗から目を背ける。
「ちょっとお話してもらってただけよ」
「答えになってない」
「……この山の下に住んでる人よ」
棗の視線が悠斗に向けられる。悠斗は何か言ったほうがいいのかどうか迷ったが、いい言葉が思いつかず、黙り込む。
「まさか凪子、俺が出かけてる隙に外に出たんじゃないだろうな?」
凪子は答えなかったが、それがまさに答えとなっていた。
「凪子。お前は自分の体のことをわかっているのか? お前だけじゃなく、他人にも迷惑がかかるんだぞ。何を考えてるんだ!」
「ちょっと待て!」
今にも凪子に掴みかかりそうになっている棗を、悠斗が立ち上がって制止する。
「お前には関係ない。口を挟むな」
「俺が勝手に家までついてきて、それでお茶でもどうですかって言われて。俺が全部悪いから、怒るなら俺に怒ってくれ」
「元はといえば凪子が外に出たのが悪い。――もう二度とここへは来るな。今すぐ出て行ってくれ」
「……わかり、ました」
悠斗は大人しく頷くしかなかった。そもそも悠斗がここに座っているのは成り行きだったのだから、他の家族に帰るよう言われてしまっては、そこに留まり続けるわけにもいかない。もう少し一緒にいたい、という心残りが自分の中にあることに驚いた。
しかし立ち去ろうとした悠斗を、凪子が止めた。
「待って。もしよかったら友達になってくれませんか? こんなこと、頼むのもおかしいけど。私、友達がいないから、毎日退屈で仕方なくて。もし悠斗さんが迷惑でないなら……」
思いもよらぬ申し出に悠斗は戸惑ったが、それ以上の戸惑いを見せたのは棗だった。棗は凪子を声高に叱りつける。
「何を馬鹿なことを! こんな得体の知れない男を、この家の敷地に入れられるか!」
それは妹を心配する兄が持っても仕方ない危惧であり、正論だった。棗にとって、悠斗は素性の知れない胡散臭い男に違いなかった。
兄の言葉を聞いても、凪子は臆することなく反論する。
「もう家からは出ないわ。大人しくしてる。だからお友達と庭で話すくらいいいでしょ? 私が寂しくて仕方ないのは兄さんだってよく知っているじゃない。一日一時間でもいいの。悠斗さんさえよければ、また遊びに来てくれないかしら。突然こんなことを頼むのは失礼かもしれないけど」
悠斗は凪子と目が合い、曖昧に頷いた。
「俺はいいけど。むしろ嬉しいよ。でも……」
兄の鋭い眼光を見る限り、明らかに歓迎されていない。
「凪子。お前の話し相手は俺がしているだろ? 友達なんかいらないじゃないか」
棗が言い聞かせるように言った。すると凪子は困ったように言った。
「別に兄さんと話すのが嫌というわけじゃないのよ。だけど、もっといろんな人と仲良くしたいの。それをどうして駄目だなんていうの? こんなにお願いしてるのに」
凪子は今にも泣きそうになりながら頼んだ。その必死な様子に、兄は唇をかみ締めた。そして悠斗を上から下までじろじろと眺める。
「お前……名前は」
「饗庭悠斗」
「歳は」
「十七歳」
「凪子がそこまで言うなら仕方ない。お前は特別だ、この家に来てもいい。ただし」
兄はつかつかと悠斗に歩み寄り、口許を悠斗の耳に近づけて、小声でこう忠告した。
「凪子には指一本触れるな。万が一にも変な気を起こすなよ。それから、家の中には絶対に上がるな。もし約束を破れば、お前は殺されたって文句は言えない」
突然現れた見ず知らずの男に警戒して、忠告をしたくなる気持ちはわかるが、それにしても少々物騒な脅し文句のように聞こえた。
「わ、わかった」
そして棗は、これで満足か、とでも言いたげに凪子を見た。兄の許諾を得たことに、凪子は嬉しそうに微笑む。
「ありがとう、兄さん!」
棗は最後に悠斗をきつく睨みつけ、ズカズカと玄関のほうに戻っていった。凪子が安心したように息を吐いた。
「よかったわ。悠斗さん、ありがとうございます。明日も来てくれますか?」
「ああ、多分来れると思う」
「兄さんのこと、そんなに怖がらないで。さっきのことも、あまり気にしないでくださいね。――あ、いつの間にか暗くなってきたわ。もうそろそろ帰ったほうがいいですよ」
「そうだな、慣れない道は危ないよな」
悠斗は腰をあげた。
「じゃあ、明日来るから」
「はい、待ってますね」
悠斗は庭を出て、もと来た道を下り始めた。それから少し冷静になって、自分が起こした一連の大胆な行動を思い返し、少し恥ずかしさを覚えた。自分が何故あの後姿を追い続けたのか、それは胸に息づき始めた小さな芽が全ての答えのように思えた。あの柔らかな笑顔を思い出すと、心臓が大きな鼓動を繰り返し、芽はあっという間に大きく育っていく。凪子に会いに行く口実が出来たことは、悠斗にとって幸いなことだった。まさかこのようなことになるとは微塵も思っていなかったのだから、悠斗が浮かれるのは仕方のないことだった。
山道を下りきった時だった。悠斗はふらつきを覚え、山道の入り口に立つ看板に手をついた。慣れないことをしたせいだろうか、緊張のせいか、山道を歩いたせいか、それとも全てか。悠斗は自宅に戻るなり自室に直行し、そのまま眠りについた。
***
翌日、いつも通りに柚木と下校した悠斗は、自宅には寄らずに、そのまま凪子の家に向かうことにした。昨日と同じ山道を登っていくと、階段が見えてきた。逸る気持ちを抑えてそこを駆け上がると、緑に囲まれた家があった。
呼び鈴を鳴らし、心臓を高鳴らせながら待っていると、玄関扉の向こうから物音がし、凪子の声が聞こえた。
「悠斗さんですね。庭にどうぞ」
「ああ」
悠斗は言われたとおりに庭に入ると、縁側に凪子が姿を見せた。
「本当に来てくれるなんて嬉しいです、ありがとうございます」
凪子が本当に嬉しそうに笑ったので、悠斗も思わず笑みをこぼす。
「約束したじゃないか」
「いきなりあんなことを頼んだから、ちょっと心配だったんです。だから来てもらえて、本当に嬉しいです。今、お茶を持ってきますね」
凪子はトタトタと廊下を駆けていく。
悠斗は縁側に腰をおろし、落ち着きなく待った。数分して、凪子がお盆を持って現れた。
「麦茶でいいですか」
「ありがとう。何でもいいよ」
凪子はお盆を床に置いて、悠斗の右隣に腰掛けた。悠斗はコップを手に取り、一口飲んだ。
「そうだ」
悠斗は鞄から、自分の携帯電話を取り出す。
「昨日聞きそびれちゃって。メールアドレス交換しよう」
すると凪子は申し訳なさそうに首を横に振った。
「私、携帯電話持ってないの。ごめんなさい」
「あ、そうなんだ」
よく考えれば、凪子はずっと自宅にいるのだから、携帯に便利な電話など必要ないのだ。失言だったかと思ったが、凪子は特に気にした様子を見せない。
「私、機械が苦手なんです。テレビ番組の録画も出来ないの。何故かいつも失敗するの。だから機械は嫌いです」
「ああ、機械と相性が悪い人っているんだよな」
そんなとりとめの無い会話をしている時だった。視線を感じたので庭の入り口に目をやると、そこには棗が立っていた。
「あ、兄さん。お帰りなさい」
「ただいま」
棗は悠斗の姿を認めると、不機嫌そうに返事をした。玄関の戸が乱暴に開閉される音が響く。
「凪子の兄ちゃんは、学校には行ってないのか?」
悠斗は気になっていたことを訊ねた。見るからに色白で痩せている凪子と違い、棗は健康そうな見た目をしていた。だが昨日も制服を着ていなかったし、今日も私服で、どう見ても学校帰りではない。かといって大学生にも見えなかったので、不思議に思えたのだ。
「兄さんは一応、森高校の生徒よ」
「森高校か。俺の栗山高校とは反対方向だな」
「家の裏にある道を通っていけば近いの。でもあまり学校へは行ってないわ。私を見張ってるのがお仕事だから。おとなしくしてないと怒られるの」
凪子は、昨日はたまたま家族が全員いなかったから外に出れたと言っていたのだ。つまり普段は誰かが家にいるということだ。昨日も今日も両親を見かけないから、共働きなのだろう。だから棗が凪子を見張っているのだろうか。
見張っている、という表現にひっかかりを覚えた。看病をしている、というのなら納得がいくのだが。
何故そこまでするのだろうと疑問に思った時、凪子がじっと見つめてきているのに気がついた。悠斗は自分の口の周りを指で触った。
「何かついてるか?」
「あ、違うの。ごめんなさい。知っている人に少し似ているなぁと思って。そういえば悠斗さんは、どういうことが趣味なの?」
「俺は音楽を聴くのが好きだな。映画もたまに観る。凪子は?」
「私は読書が好きよ。悠斗さんはどんな音楽を聴くの?」
悠斗は自分が好きなアーティストの話をした。凪子は相槌を打ちながら興味深そうにその話を聞いていて、話を進めやすかった。そこから別の話題に移り、話が盛り上がってきた時、悠斗はふと思いつき、凪子に言った。
「そうだ。ちょっと思ったんだけど、ナギコって呼びにくいから、ナギって呼んでもいいか?」
可愛いニックネームだと思いそう提案したが、それを聞いた凪子の様子がおかしいのに気づいた。
「その名前で呼ばないで」
悠斗は、まるで氷の杭を心臓に突き刺されたような感覚を覚えた。ひんやりとした拒絶。氷の刃で一瞬のうちに切り捨てるような言い方だった。凪子の顔もまた、凍りついたように無表情だった。しかし氷の仮面が融けるかのように、その表情は微笑を取り戻していく。
「あ、ごめんなさい……。あまりあだ名で呼ばれるのに慣れてないから。普通にナギコって呼んでくれませんか?」
「あ、ああ……わかった」
悠斗は、心臓に刺さった氷の杭をゆっくりと引き抜く。しかし冷えた傷口はまだじんじんと痛んだ。
「そうだ、昨日テレビで面白い映画をやってたんです。見ましたか?」
「最初のほうだけちょっと見たけど」
凪子はすっかりもとの様子に戻り、先ほどの態度が嘘のようだった。あだ名で呼ばれるのに慣れていないというだけで、あのような態度をとるだろうか。悠斗は首を傾げるしかなかった。
話し込む二人の様子を、背後の雪見障子の隙間から棗が見ていることに、悠斗は気づいていなかった。
***
凪子と出会って数日がたち、気がつけば日曜日だった。あまり早い時間に行っても迷惑がかかるので、正午過ぎに凪子の家に向かった。
いつも通りに呼び鈴を押したが、誰も出なかった。
「凪子ー?」
もう一度押すと、奥のほうから慌てたような足音が近づいてくるのが聞こえた。その音は大きく、明らかに凪子の足音ではなかった。棗かと思いつい身構えると、扉を開けて出てきたのは、長身の見知らぬ男だった。
「あ、どうも……」
悠斗はとりあえず挨拶をする。これは一体誰だろうか、もしかしたら凪子の父親か、いや、父親にしては若すぎる――そんなことを考えながら男を見れば、その男もまた、悠斗が何者なのかがわからないようで、訝しむように悠斗を見ていた。だが男は、何かを思い出したような顔をした。
「ああ、もしかしたら君が、凪子が言ってた悠斗君か?」
「あ、はい」
するとその男は破顔した。
「ああ、やっぱり。でもごめんな、凪子は今日ちょっと体調が優れなくて。一応本人に訊いてみるけど」
男はそう言い置いて、靴を脱いで廊下に上り、廊下の奥へと消える。やがて戻ってきた男は、廊下の奥を指差して言った。
「話しても大丈夫だってさ。どうぞあがって。部屋まで案内するよ」
「はい。お邪魔します」
中に入るよう促されて、悠斗は遠慮がちに中に入った。仄暗い玄関に違和感を覚えたのは、庭の明るさとは対照的だからだ。
悠斗は男の背中を追いかける。よく磨かれた床がギシリと軋んだ。
男の正体をはかりかねたまま後ろをついていくと、二階へと通じる階段の前に来た。そこで男は足を止めた。
「あ、二階へは行かないでくれ。物音がしても気にしないでいいから。うるさかったらごめんな」
「はい」
窓がないのか、階段の上段にいけば行くほど薄闇が濃くなっていき、二階の様子は殆ど窺えない。しかし仮にも他人の家だ、用がなければ二階に行くことはないだろうし、興味を持つこともない。悠斗は気にせずに男についていく。
男は一番奥の襖の前に来ると、襖に軽くノックし、開けた。その和室の真ん中に凪子がいた。凪子はパジャマ姿で布団に横になっていたが、ゆっくりと起き上がった。
「悠斗さん、こんにちは」
「よう」
「今、飲み物を持ってくるよ。ちょっと待っててくれ」
男は襖を閉め、部屋の前から遠ざかっていった。
悠斗は凪子の布団の横に座った。
「なあ、今の人は誰だ?」
「実は兄が二人いるの。さっきの人は、桐哉 兄さんよ。平日は仕事があるから家にいなかったの」
「随分と歳が離れてるんだな」
「十歳違いよ」
「そうなんだ。そういえば、具合が悪いんじゃなかったのか? 大丈夫か?」
「今朝はちょっと体調が悪かったんだけど、もう平気」
「病院に行かなくていいのか?」
「大丈夫よ」
「ん、それはなんだ?」
悠斗は凪子の枕元に置いてあった皿を指差した。皿には濃い緑色をした草が乗っかっている。どこかで見たことがある気がしたのは、それが道端で見かけるヨモギのようだったからだ。
「これは薬草よ」
「薬草?」
「市販の薬は飲まないようにしてるの。体に合わない薬だったら嫌だし。この山は色々な薬草が手に入るのよ」
「でも、薬草じゃ間に合わない時だってあるだろ。……あ、そういう時はさすがに病院の薬を飲んでるよな」
しかし悠斗の予想に反して、凪子は首を横に振る。
「症状がひどい時もあるけど、兄さんが病院には行かないほうがいいと言っているから、病院の薬は飲んでないの。それに病院に行ったら、別の病気をもらってきてしまうかもしれないじゃない」
「……そうか」
それ以上はあまり深く聞かないことにした。中には医者が嫌いだといって病院に行かない人もいる。その家によって、人によって考え方が違うのは仕方がない。
襖をノックする音がして、襖が開いた。そこにいたのは桐哉だった。手に持ったお盆の上には三つの湯のみがのっていた。不思議に思っていると、一つの湯飲みを桐哉が持って、悠斗の隣に座った。桐哉は人懐こい笑みを見せた。
「俺も話に混ぜてくれよ。棗相手に話しても暇でな」
それを聞いた凪子は苦笑した。
悠斗は凪子と二人で話したかったが、勝手に押しかけているのは悠斗の方なので、文句が言えるはずもなく、仕方なく三人で話すことにした。
この桐哉という男は、もう一人の兄・棗と違い、人と接するのが得意な性格らしかった。目尻が垂れているせいもあるのか、人が良さそうに見える。凪子の白磁のような肌と違い、やや褐色で、後ろで束ねられた長い髪は栗色に染められている。笑ったときに見える真っ白い歯が印象的だった。
凪子と二人きりになれないのは残念だったが、桐哉は話題が豊富で退屈しなかった。そのため会話は思った以上に盛り上がった。
話している途中、階段が軋む音がした。軽い足音が一階までおりてくると、話し声を聞きつけたかのように真っ直ぐ三人のいる部屋の前まで来た。襖を勢いよく開けて悠斗の姿を認めると、足音の主はすぐに怒りをあらわにした。
「お前、家の中には入るなと言っただろう!」
悠斗はその時に、初めてこの家に来た際、棗に家の中に入るのを禁止されていたことを思い出した。棗は悠斗に歩み寄り、胸倉を掴みあげようとした。しかし凪子が腕を伸ばすと、棗は一歩後ずさる。
「凪子」
「待って棗兄さん、私が入れたのよ! それに桐哉兄さんも許してくれたわ」
「兄貴が? 一体何を……」
棗は舌打ちし、桐哉をきつく睨み付けた。しかし桐哉は動じていない。湯飲みを安全な場所に移動させながら、のん気に笑っている。
「そんなに怒るなよ。いいじゃないか、おかげで凪子も元気が出たようだし」
「そういう問題じゃないだろう!」
桐哉は、やれやれと首を振る。
「ごめんな悠斗君、こいつに悪気はないんだ。ま、こいつがこんな感じだから、今日のところは帰ったほうが身のためだ」
桐哉がそう言うので、悠斗は立ち上がろうとする。
「ふざけるな。約束が守れないならもう来るな」
「悠斗君、こいつの言うことなんか気にするなよ。明日また来てやってくれ」
怒りをあらわにする棗と笑っている桐哉を交互に見て、悠斗は曖昧に頷いた。
棗は舌打ちをして部屋を出て行く。階段を乱暴に駆け上がる音がした。
桐哉が溜め息をついた。
「ということで、明日からは家にあがるのは遠慮してくれ。あいつ、怒ると怖いからさ」
「は、はい。最初からそういう約束でしたから。じゃあまた明日な、凪子」
「ごめんなさい、悠斗さん」
悠斗は、謝る凪子に別れを告げ、部屋を出た。
悠斗が帰って暫くして、二階からおりてきた棗は、台所で湯飲みを洗っている兄を咎め始めた。しかし責められている方はそれには答えず、余裕のある様子を見せる。
「何故あいつを中に入れたんだ」
棗は言いつのるが、桐哉が繰り返される問責に動じる様子はない。てきぱきと食器を拭き、食器棚にしまう姿が、余計に棗を苛立たせた。
「あいつがあの部屋に入る確率はゼロじゃない。あのことが万が一外に知れたらどうするんだ。今の状況でも十分危険だっていうのに」
するとやっと桐哉が口を開く。ただしため息が混じっていた。
「神経質だな。確かにあの部屋に入る確率はゼロじゃないが、限りなく低いと思うね。高校生の男の子一人を家にあげるくらい何でもないさ。現に、浜崎さんを家にあげても何ともないじゃないか。あまり深刻になるなよ」
棗は楽観的な思考の持ち主の横顔を見る。
「深刻にならざるを得ないだろう。そもそも俺は、あいつが凪子に会うこと自体に反対なんだ。兄貴、凪子はいったい何を考えてるんだ? 凪子がどうしてもと言うから、あいつと会うことを仕方なく許可した。でもやはり危険すぎる。あいつは凪子に積極的に会いに来ている」
「さぁ、どうだかね。とりあえず、お前は凪子を見張ってろ。それからでも遅くはない」
「言われなくても見張るさ。何か起こってしまってからでは遅いからな」
***
木々の梢が陰鬱な影を落としていた。梢の合間から見える雲はどんよりと重たく、そのせいで山の姿もいつもと違って見えた。吸う空気は湿っていて、土のにおいが濃厚だった。
雨が降れば、倉田家へと続く山の道はいつも以上に滑りやすくなり、登るのもおりるのも困難になる。悠斗は先を急いだ。強い風が頭上の梢を揺らし、その音が鼓膜も心も振るわせた。
階段をのぼり玄関に向かおうとした時、玄関から誰かが出てきたところだった。悠斗は思わず立ち止まる。相手も悠斗に気づき、軽く会釈をした。悠斗は会釈を返し、男の様子を見る。
年齢は三十歳前後に見えた。黒縁の眼鏡をかけている。桐哉の年齢を考えると、父親にしては若すぎる。
その男がおもむろに口を開いた。
「君はもしかして凪子ちゃんの友達とかいう……」
「え?」
「いやいや、突然すまないね。桐哉君とさっき話していて、君の話が出たものだから。毎日凪子ちゃんに会いに来る男の子がいるって」
それで悠斗は納得する。このような場所に来る人間は限られている。それですぐに誰なのかわかったのだろう。
「凪子ちゃんに会うのかい? 今日は無理じゃないかな。具合が悪いらしいよ」
「え……そうなんですか」
一週間前も凪子の体調が悪かったのを思い出す。
「病院に連れて行ったほうがいいと言ったんだけどね、桐哉君がそれを渋ってね。ただでさえ体が弱いのに、医者にかからないというのはどうかしてると思うんだけどね」
「え? 全く医者にかかってないんですか?」
この間も病院には行かなかったようだったが、全く医者にかかっていないというのは初耳だった。なのでつい訊いてしまった。
「そうらしいよ。心配でならないよ」
男は言いながら肩を竦める。
悠斗は男の背後の家を見る。具合が悪いなら訪ねても迷惑になるだけだろうと考え、悠斗は男と別れて、さっさと家に帰ろうとした。
しかし男はふいにあたりを見回し、声を潜めた。
「そういえば、君は凪子ちゃんのお父さんの話は聞いてるかい?」
「いいえ、会ったこともないですけど。それがどうかしましたか」
別れを告げようと思ったときに突然そう訊かれ、悠斗の興味が男の話に向かう。
「やっぱり、そりゃそうだろうね。何故ならもう亡くなっているから」
「亡くなった?」
悠斗は大きな声を出してしまい、慌てて口許をおさえた。一見真面目そうに見える男の顔には、どこか楽しそうな色が浮かんでいた。
「間違えて毒の実を食べてしまったのだそうだよ」
「毒の実を食べた?」
「毒ウツギの実というのは見たことがあるかい? 見た目がとてもおいしそうで、実際に甘い。それをウイスキーに漬け込んで果実酒にし、飲んでしまったらしい」
悠斗はその実のことを知らなかった。それがどのくらいの強さの毒素だったのかはわからなくても、果実酒と言うからにはある程度の量の果実が使われていたのだろうと想像することは出来た。それだけの量の毒が溶け込んだ酒は、甘い酩酊感のあとに酷い苦しみをもたらしたに違いない。その苦痛を想像した悠斗は、胸元を押さえた。
「それは、間違えてしまったんですか?」
「間違えたんじゃないかってことになってるよ。でも僕は、それはちょっとおかしいんじゃないかと思ってる。先生は植物学者だったからね」
「植物学者?」
「ああ、申し遅れたが、僕は浜崎という。倉田先生の教え子だったんだが、生前非常にお世話になったので、今でもこうしてたまに家に来ているんだ。彼は植物の研究を行っていた学者でね、大学の先生をしていたんだ」
悠斗は浜崎の正体を知り、桐哉の父親にしては若く、友人にしては年上のこの男が、何故この家に用事があるのかという疑問に対する答えを得た。
ただの想像でしかないが、凪子の父親はもしかしたら、植物学者だからこそ、自然豊かな山の中に家を建てたのかもしれない。家の周りに研究対象がこれだけあれば、研究のしがいがあるだろう。そうでもなければ、このような不便な場所に家など建てないだろうと悠斗は思った。
「それで、話の続きだけど。彼は植物学者だったから、植物についてよく知っている。もちろん毒ウツギのことだってよくわかってたはずだよ。それなのに、間違って果実酒にするなんてことがあると思うかい?」
悠斗は目線を地面に落として考える。確かに、学者ともあろう人が、有毒植物と気づかないというのは考えにくく、どうしても不自然に感じる。
「そこで僕は思ったんだ。もしかしたら先生は、わざと毒ウツギを食べたんじゃないかってね。つまり、自殺ってことさ」
悠斗は目を見開いた。
「先生は精神的に不安定なところがあってね。十分あり得ることだと思うよ。警察も自殺を疑ったらしいんだが、遺書がなかったので自殺と決め付けるわけにもいかず、それで事故ってことになったらしい。このような有毒植物の誤食事故はよく起こるしね、警察としてもそれが一番楽だったんだろう」
知ってはいけないことを知ってしまった気がした。今まで一度も姿を見たことの無い凪子の父親の存在を特別に気にしたことは無かったが、今思えば休日にも家にいないのは少し不思議だった。それがまさかこのようなことだったとは思いもよらなかった。
それにしてもこの男は、初対面であるにもかかわらず、そんなことはおかまいなしという様子で、べらべらとよく喋る。あまり良い印象は持てなかった。そこまで詳しい話を聞いてもいいのだろうかと不安になったが、それでも男の話を止めないのは、やはり悠斗にも疼く好奇心があり、彼の暴走を止めようという気持ちを打ち消していたからだ。
浜崎は気分がよさそうに話し続ける。
「実は先生は、それよりも前に一回、別の植物の中毒を起こしたんだよ。その時、先生は『手についたトリカブトの液を洗い落とし損ねたまま煙草を吸ってしまった』と言って笑っていたな。自殺目的にしては症状が軽かったそうだから、これは本当に事故かな。それとね、毒草を試しに食べてしまう学者もいるんだよ。先生は研究熱心だったから、彼らのように毒草を食べたとしても不思議はない」
浜崎は腕組みをして首を傾げる。
「でも誤食っていってもなぁ、あの先生がまさか……とは思うんだけど。結局、原因はよくわかってないのさ。可能性は色々考えられるんだ。僕は自殺だって勝手に思ってるけどね」
「はぁ、そうですか。……そういえば、お母さんも見たことないんですけど」
少し気が引けはしたが、この際、凪子の家族に関することを全て知っておきたかった悠斗は、そう質問していた。浜崎はそれにも簡単に答えた。
「お母さんはね、色々あって家を出て行ってしまったらしいよ」
とりあえずこの家には両親がいないことが明らかになった。兄と妹の三人で住んでいるということになる。
悠斗は凪子を更に哀れに思った。病弱な上、頼れる両親が家にいない。母親は家を出てしまい、父親は亡くなった。どれだけ心細いことだろう。凪子が必死に悠斗に友達になって欲しいと言ったときの気持ちが、今になってちゃんと理解できた気がした。
「あ、僕が教えたってことは内緒にしておいてくれよ。特に棗君は怒ると怖いからね」
推理ショーを一方的に披露して満足したのか、浜崎が立ち去るのは早かった。悠斗が来た道ではなく、家の裏手にあるという道の方へ歩いていった。その姿が家の陰になって見えなくなる。
浜崎は自殺の可能性を疑っていたが、悠斗はそれにひっかかりを覚えた。自殺しようとする人間が、わざわざ毒の実を果実酒になどするだろうか。そのまま口に含むなりすればすむ話だ。やはりただの事故だったのではないだろうか。遺書は無いというのだから。
悠斗は凪子の家を見上げた。古い木造二階建て。緑あふれる庭。それらが存在するその空間だけが、悲愴な空気に取り囲まれているように感じた。悠斗は家に背を向け、階段を下り始めた。
***
浜崎と会った数日後、悠斗は倉田家に数日振りに訪れた。もうすっかりお互いに慣れ、縁側で凪子と二人で話をしていると、突如天井から派手な物音がした。悠斗は驚いて上を見上げた。
「何だ、びっくりした」
「きっと本を落としたのよ。この上は父さんの書斎だから」
悠斗は、ああ、と言ってもう一度天井を見る。年季の入った天井は、音がよく響くようだった。
「お父さんの書斎ということは、植物学の研究資料とかがあったりするのか」
二階に行ってはいけないと兄達が言っていたのは、大事なものを他人に見られないための注意だったのだろうかと考えながら、ふと凪子を見ると、凪子は目を見開いていた。
「それ、誰から聞いたの? 植物学って……」
言ってしまってから後悔したが、遅かった。浜崎に口止めされていたことをすっかり失念していた。しかし言ってしまったものは仕方がない。浜崎には悪いが、悠斗は正直に話すことにした。
「浜崎さんって人に聞いた。お父さん、植物学者だったんだってね」
「浜崎さん……そう。お喋りな人ね。私、あの人のそういうところが嫌いだわ。いつも余計なことばかり言うの」
凪子は小さく息を吐いた。どこか呆れているような、嫌悪感を露わにしたような複雑な表情をしていた。
「私の父さんは植物学者だったわ。この上にあるのは、正確に言うと研究室なの。その分だと、もう聞いているかしら。父さんが亡くなったこと」
「ああ。誤って毒の果実酒を飲んだって聞いた」
「そうよ。悲しい事故だった」
凪子は軽く眼瞼を閉じる。それは台詞の棒読みのように聞こえた。それ以上何かを訊かれるのを嫌がっているように聞こえる、と言ったほうが正しいだろうか。事故だったのだと強調し、そう信じ込んでいたいという願いがこもっているようにも思われた。しかしそれは当然のことで、亡くなった家族の話をされて嬉しい人はいないに違いない。しかも自殺の疑いがあるのだから、尚更だろう。母親の話を聞けるような雰囲気ではなかったので、悠斗は言葉をのどの奥に飲み下した。
「悠斗さん、一応注意しておきますけど。二階には絶対に行かないでくださいね」
凪子は悠斗をまっすぐ見つめて言った。悠斗の心臓が跳ねる。この言葉を聞いたのは二回目だ。
「ああ……わかったよ。研究室だもんな。大切な資料とかがいっぱいあるから心配なんだろ」
「万が一、父さんの遺品や資料がなくなったら大変ですから。お願いしますね」
凪子は微笑みながら軽く頭を下げた。何度もそのように注意されると、よほど特別な何かがそこにあるのだろうかと逆に気になってしまう。しかし悠斗にはその部屋の中を覗き見るつもりは一切なかった。住人が行くなというなら、それに従うしかない。
もう一度、小さく二階から物音がした。悠斗は余計な想像を頭の中から追い出した。
――その時だった。急に気分が悪くなるのを感じたのは。思わず胸を押さえたが、すぐにおさまった。
「大丈夫?」
凪子が心配そうに悠斗の顔を覗き込む。
「……ああ、大丈夫。多分、ただの寝不足だから」
「寝不足? お勉強が大変だったとか?」
「いいや、柚木っていうクラスメイトが深夜にメールをしつこく送ってきてさ。下らない話につき合わされて、散々だったよ」
「それって男の人?」
「女だよ」
「女の人? もしかしてお付き合いしたりしてるの?」
「ただのご近所さんだよ。俺、元々都会の人間なんだけど、去年ここに引っ越してきたばかりでさ。友達がそいつくらいしかいなくて」
「へぇ、引っ越してきたんですか。都会の話を聞きたいわ。私、この町から出たことがないから興味があって」
凪子にせがまれて、都会がどういう所なのか色々と話してやると、凪子は本当に嬉しそうにそれらの話に聞き入っていた。それだけで悠斗は幸福感で心が満たされるのを感じた。
自分は友達ということで家に呼ばれていて、凪子もきっと悠斗のことを話し相手としか思っていないこともわかってはいても、こんなに近くで話せることが嬉しいことに変わりはないし、それだけで十分だった。
悠斗はふと、床に置かれた凪子の手を見つめる。真っ白い小さな手。突然、それに触れてみたくなった。その肌はどんな温もりを返してくるだろう。どんなに柔らかいだろう。――興味と欲求が入り混じり、つい手が伸びそうになった。
しかし棗の忠告を思い出し、諦める。もとよりそんな勇気も無い。今の悠斗には、一緒に話すくらいが精一杯だった。
「どうしたの?」
「あ、いいや、別に。――そうだ、昨日テレビでこんな話をやっててさ」
悠斗は自分の中の欲求を押さえつけるために、無理に話題を変えた。
台所を出たところにある襖の隙間から、棗が縁側の様子を伺っていた。突き刺すような視線に気づいているのは凪子だけだった。
帰宅した桐哉が台所に行くと、棗が水を飲んでいるところだった。桐哉も水を飲もうとコップを手に取り、蛇口を捻って水を入れ、一口飲み、コップを置く。そして椅子に座っている棗に訊いた。
「今日はどうだった?」
「特に何も。とりあえず大丈夫だと思う。でも……本当に大丈夫なんだろうか」
「何が?」
棗はコップを置き、眉根をよせる。
「ああやって話をすることが。あれだけでも十分危険だ」
「期間が短い。まだ間に合うだろ」
「いずれ引き離すんだから、早いほうがいいじゃないか」
「まだ大丈夫だ」
「そうだろうか。……凪子の目的が見えてこない」
「特別な意味なんて無いんじゃないの。お前は気にしすぎなんだよ」
桐哉は軽く流したが、棗は深刻そうな表情をしてコップを見つめる。重たい沈黙が訪れた。それを桐哉が破る。
「……今日、彼女と別れてきた。キスしてくれなきゃ嫌、言葉だけじゃ信じられない、だってさ。これで何度目だか」
「最初から分かりきってることなのに、よくやるな」
どこか呆れたように肩を竦めて、棗は言う。
「諦めが悪い方なんでね。そう、諦めたくないんだ」
棗は桐哉を見遣る。
「恋人作ってデートする暇があったら、ノートとにらめっこでもしていろ。その方がよっぽど良い抗い方だ」
桐哉は苦笑いして、コップの中の水を飲み干した。しかし心の中では既に諦めている部分があった。
「それこそ、最初から分かりきっていたことだ……」
「何か言ったか?」
「いいや、何も。……そうだ棗、これだけは言っておく。誰にだって、幸せな未来を描く権利があり、抗う権利がある」
棗は、理解しがたいとでも言うように、首を傾げた。しかし桐哉がそれ以上何も教えるつもりがなさそうだったため、無言で席を立ち、台所を出て行った。
桐哉は無人になった台所に一人で突っ立ったまま、空になったコップをじっと見つめていた。そして小さな声で呟いた。
「馬鹿な娘だとは思うけどね」
***
凪子に会ってもう一ヶ月がたった。気がつけば梅雨に突入していた。倉田家がある小さな山が教室の窓から見えるのだが、山はどんよりとした雲を背負って、陰鬱な空気をかもし出している。
ホームルームが長引き、時計の針は普段の下校時刻よりも三十分程進んでいた。雨が降り出す前に倉田家に向かうために急いで下校しようとしていた悠斗を引き止めたのは、柚木だった。柚木は怪しげなデザインのケースに入ったDVDを手に持って言った。
「これからちょっとコンピュータ室に来てくれない? 見せたいものがあるの」
「ごめん。俺、急いでるから」
教科書やノートを鞄に入れて教室を出て行こうとすると、柚木は慌てて悠斗の腕を掴んだ。思いのほか力が強くて、悠斗は顔をしかめた。
「何でそんなに急いでるの? 最近変だよ、勝手に一人で帰ったりして。何か用事でもあるの? そんなに急がなきゃ駄目なの?」
「別に。早く家に帰って寝たいだけだ。どうしても今じゃなくたっていいんだろ?」
DVDの中身は、おどろおどろしいパッケージを見て大体予想がついた。悠斗は冷たく言い放って、柚木の手を振り払った。最近は、柚木の話に付き合わされながらゆっくりと歩いて帰るその時間さえも惜しく、一人で走って下校していた。それを柚木が不審に思うのは勝手だが、余計な詮索をされるのだけは避けたかった。
悠斗は教室を出る。柚木は追いかけてこなかった。
悠斗が山に入った時、今すぐに天気が崩れるということはなさそうだったが、夜には確実に激しい雨が襲来しそうな雲行きだった。帰りに雨が降らないことを祈りながら山道を登る。
丁度山道の階段に差し掛かった時、階段の脇に人影があるのを見つけた悠斗は、それが桐哉であるのに気づいた。
「桐哉さん?」
「お、悠斗君いらっしゃい」
何やら草をむしっていたらしい桐哉は、軍手をした手を軽くあげながら立ち上がった。
「今日は平日なのにどうしたんですか」
「たまたま休みになったんだよ。安心しな、二人の邪魔なんかしないからさ」
桐哉はさも面白そうに笑って言った。
「君が来てくれるようになってから、凪子は明るくなったよ。前まではたまに塞ぎこむことがあったんだけど、最近はあの通りさ」
「俺はたいしたことしてないですよ」
少しだけ照れながら悠斗は言った。自分が話し相手になることで凪子が救われているというのなら、素直に嬉しいと思えた。
「そうだ、これだけ聞いとこうかな」
桐哉は声を潜める。
「悠斗君は凪子のことが好きなのか?」
「何ですか、いきなり」
悠斗が狼狽しているのは声の調子でも明らかで、それが桐哉に伝わっていないわけもなかった。
「やっぱりそうか。そうだよなぁ。確か、たまたま凪子を見かけて、この家までついてきたらしいよな。よほど何かあったのかなって思ったのさ。例えば、一目ぼれしたとかね」
当たっている。しかしそれを推測するのは簡単なことだっただろう。しかしそのような恥ずかしいことを簡単に肯定したくなくて、悠斗は適当に誤魔化そうとする。
「凪子のことは、友達として好きですよ。素直ないい子だし。でも俺が凪子を追いかけたのは、見慣れない子が山の入り口に向かっていったのが気になったからです」
「それに加えて、外の世界に染まってない感じが気に入ったんじゃないか? 君、都会から来たんだってな。都会には、ああいう感じの女の子は少なそうだからね、新鮮なんだろう。違うかい?」
「余計なお世話です」
殆ど言い当てられていて悔しく思った。顔が赤くなっているのが自分でもわかり、ニヤニヤと笑う桐哉に顔を見られて、余計に恥ずかしさが増した。
桐哉の顔から、ふいに笑顔が消え去り、悠斗を真っ直ぐな眼で見る。
「無味無臭の白い粉末ほど恐ろしいってことを知ってるかい」
「何のことですか?」
「まぁいいさ。でも、これだけは言っておく。凪子に触れるのだけは駄目だ。絶対に触れてはいけない」
恐る恐る見た桐哉の表情は真面目そのものだった。しかしすぐに破顔する。
「ほら、凪子は免疫力が弱いから、インフルエンザなんかが感染した日にはどうなるかわからないからな。ははは」
「そ、そうですね……気をつけます」
言いながら、棗も同じことを言っていたのを思い出していた。そして、とってつけたような理由に違和感を覚えざるを得ない。
それに、白い粉末とは何だろうか。悠斗には小麦粉や片栗粉といった身近にあるもの、もしくは違法薬物の類しか思いつけなかった。一体それが凪子とどう関係してくるというのだろう。疑問ばかりが脳内を巡る。
桐哉はそんな悠斗の困惑など気づいていないのか、いや、気づいていない振りをしているのか、悠斗の顔をまじまじと見つめる。
「前から思ってたが、君は父さんに本当によく似てるな」
「そういえば以前、凪子に言われましたよ。知っている人に似てるって。お父さんのことだったんですね……。そんなに似てますか?」
「凪子も、か。何だろうな……そうだ、笑った顔が似てるな。雰囲気も似てる。父さんは眼鏡をかけてたから、かけたらもっと似るんじゃないかな」
「お父さん、確か亡くなってるんですよね」
悠斗は言ってしまってから、言うべきでなかったと後悔したが、桐哉はもう悲しみを乗り越えているのか、それを気にした様子はなかった。
「ああ、俺が二十歳の時に。ま、どうでもいいかそんな話。凪子はまた縁側にいるよ。時間まで相手してやってくれ」
桐哉は親指で家を示す。
「はい、お邪魔させてもらいます」
悠斗は軽く会釈して家に向かう。その後姿を見送り、桐哉はしゃがみこんだ。目の前にある下生えを掻き分け、そこに探していた葉を見つける。土を掘って根元からむしった。
「無味無臭の粉末……しかしあの子は、ある意味で、そんなものよりも恐ろしい存在だぞ……」
純白の可憐な花があれば、人はその見た目に騙されて、つい摘み取ってしまう。その後にどんな苦痛が待ち構えているのかも知らずに。甘い蜜を舐めた後に後悔するのだ。
「やはり父娘だ」
その呟きは、風にさらわれてすぐに掻き消えた。
倉田家に着いて庭に直行すると、桐哉が言っていた通り、凪子が本を読みながら縁側で待っていた。活字を追うのに夢中で悠斗がいることに気づいていない凪子に声をかけると、凪子は本を閉じて顔をあげた。
「こんにちは。もうすっかり梅雨ね」
悠斗は凪子の隣に腰を下ろした。そして凪子の顔を見る。
「凪子、今日は調子良さそうだな」
「そう?」
凪子はぱちぱちと瞬きする。
「うん、何となく」
悠斗もどこがどうでそう思ったのかはわからなかったが、感じたままを口にした。すると凪子は膝の上に置いていた本をつついた。深紅の表紙が毒々しい印象を与える。
「この本を読んだからかしら。私、この本を読むと元気が出るの。そのせいかもしれないわ」
「へぇ、そうなんだ。どんな話なんだ?」
「体に醜い奇形を持って生まれた少年が、それでも幸せを手に入れたいと願い、それを叶える話。醜い彼のことを唯一受け入れてくれた女性は盲目だったの。それでも彼は幸せには変わりなかったのだろうし、彼女も幸せだったんだと思うわ」
悠斗は一瞬返事に困った。普段あまり本を読まない悠斗にとっては少し理解しがたい内容だった。
「なんだか、難しい本を読んでるんだな」
悠斗はとりあえずそれだけを言う。
「全然難しくなんかないわ」
凪子は本を開いて、パラパラとページをめくる。
「自分のせいではないことで、世間から疎外されていた少年。彼には幸せを得る権利がないのかしら? そんなことはないけど、やっぱりそれを実際に得るのは難しいことだと思うの。それでも彼は、形はどうであれ、幸せを手に入れた。それにはとても辛い道を通らなくてはならなかったけど。私はそんな彼に勇気をもらったの」
凪子は本を床に置いた。
「どんな手を使ってでも欲しいと思うものが、誰にだってあるでしょ? そういうのを他人が否定する権利なんてないの。誰にだって、幸せな未来を描く権利がある。そしてそれを実現させようとするのは自然なことよ」
凪子の表情が一瞬翳った気がした。かろうじて雲の合間から見えていた太陽が、分厚い雲にすっかり隠れてしまったせいでそう見えただけなのかもしれなかった。
ふと背筋が寒くなった。背後をちらりと見やると、奥の襖の陰に人影が動くのが一瞬見えた。
学校には殆ど通わず、一日中妹を――そしておそらくは悠斗をも――監視しているという棗。あまり深くは考えないようにしていたが、やはり不気味だ。異常だと思った。看病をしているという様子ではない。いつか凪子が言ったように、「見張って」いるのだ。軽く俯いた凪子の横顔を見る。一体どうしてそんなことをする必要があるというのか。
ふと我に返ったように、凪子が悠斗のほうに顔を向けた。不意打ちで目が合ってしまって、胸がどきりとした。
「ごめんなさい。せっかく来てくださったのに、変な話しちゃって。気にしないで」
「いや、別に変じゃないよ」
そう、この家の異常さに比べたら、そんな話は大したことではない。前から思っていた。
――何かがおかしいのだ、この家は。
凪子がおもむろに本を開き、パラパラとページを開き始める。その細い指と形の良い爪を見ていると、それに触れてみたいという欲求が騒ぎ出した。
愛するものに触れたいと思うのは、当然の欲求だ。凪子はガラスケースの中の人形だ。凪子に触れてはならないという禁止事項が、余計に悠斗の欲求を肥大させていた。何故触れてはいけないというのだろう? 傷つけるつもりはない。ただ触れたいというだけのささやかな願いだ。ガラスを割るのはたやすいことだ。しかしそれを割り、中の人形に手を触れたとき、その手は血まみれになっているのではないか……。どこからか沸いたそのような危惧が、悠斗を迷わせていた。
「悠斗さん、残念だけど、今日はもう帰ったほうがいいわ。ほら、空の機嫌が良くないみたい」
悠斗は我に返り、空を見上げる。灰色の分厚い雲が天を覆っていた。頬に冷たい水滴が落ちた。
「ごめんな、あんまり話せなくて。また明日来るから」
「無理はしないで」
悠斗は庭を出て、階段を下る。桐哉はもうそこにはいなかった。辺りは暗くなり、雨はどんどん酷くなる。土が完全にぬかるんで歩けなくなる前に、山をおりなければならなかった。
凪子は悠斗を見送ると、家の中に避難し、縁側のガラス戸を閉めようとした。すると雨に濡れだした美しい庭を、一匹の蝶が彷徨っているのをガラス越しに見つけた。凪子は戸と戸の隙間から手を伸ばし、雨宿りする場所を探しているように見えるその蝶を、その指に止まらせようとした。蝶は凪子に吸い寄せられるようにその指に止まり、羽を休めた。凪子は戸を閉め、その場に座った。
「すごい雨になりそうね」
凪子は羽を濡らした蝶に顔を近づけ、澄んだ声で優しく話しかけた。
「助けてあげたんだから、ちょっと私の話を聞いてね。最近、胸が痛くなるの。これって罪悪感から来るものだと思っていたんだけど、罪悪感ではないみたい。だって私は、あなたにこうして話しかけることに対する罪悪感なんてものは、もう持ち合わせてないのよ。だからこの痛みは罪悪感が原因ではないの、今更そんなことはありえないの。ねぇ、何だと思う?」
その問いに、蝶が答えるはずもなかった。
「もう、何なのよ悠斗のやつ。せっかく面白いホラーDVD見せようと思ったのに」
柚木はぶつぶつと文句をたれながら、傘をさして帰路を急いでいた。急に母親にお使いを頼まれたのだが、遠くにある商店に行っている間に天気が崩れた。片手を塞ぐ重たい荷物と、傘をさしても防ぎきれないほどの大粒の雨が靴下を濡らしているせいで、苛立ちは増す。
最近の悠斗はそっけない。柚木にはそれが理解不能だった。いきなり冷たくされる理由に心当たりが無かった。自分の振る舞いを振り返ったときに、直すべき部分がいくつかあるのは事実だったが、それは以前からのことなので、急に嫌がられるようなことではないと考えていた。
田園風景が終わり、家々の明かりが雨のカーテンの向こうに見えている。足早に道を曲がった時、悠斗の家がある方向から良く知る声が聞こえた。柚木はその声が気になり、ブロック塀の陰から道を覗き込むようにした。
暗いせいで顔はよく見えなかったが、先ほどの声と背格好で悠斗と判断した。道の奥のほうで、何かを拾っている。傘もささずにいるのが異様な姿に見えた。よく見ると、道の上に散らばったノートや教科書を鞄の中に入れていた。そしてその鞄を傘がわりに頭の上にのせて、家に向かって走る。一瞬街灯に照らされたその顔は、間違いなく悠斗だった。
何故傘もささずにあんなところにいるのか、まずその疑問がわき、そしてもっと重大なことに気づく。
悠斗は、どうして道の奥から走ってきたのか?
道の奥は行き止まりだ。他の道とは繋がっていない。わざわざこんな雨の中、傘もささずに、何の用も無いのにあんな場所にいるわけがない。
そして柚木はある記憶にたどり着いた。それは子供の頃の色あせた古い記憶だ。危ないから近づくなと大人達から散々言われた、まるで子供を食べる悪魔の口のような怖い山への入り口が、この道の先にあったのだ。一見行き止まりの道だが、一番奥に建っている家の車庫の陰に細い道があって、その奥にこの小さな山への入り口があったはずなのである。幼い頃、町内の仲間達と探検ごっこをしていたときによく行った場所だった。しかし山に入ろうとしても、ぬかるんだ土が侵入を拒み、結局一度も奥には入れなかった。子供から見ると山はまるで大きな化け物のようで、山道に生えた植物の棘は化け物の攻撃のようだった。いつからか、そんなものに興味も無くなり、今まで忘れていた。
悠斗にその入り口の存在を教えたことはなかったが、偶然見つけてしまった可能性は否定できない。
柚木は降りしきる雨の中、山をしばらく見つめていた。
***
告白をするタイミングというのは、とても難しい。悠斗と凪子は仲が良い部類に入るのだろうし、凪子も悠斗という人間を嫌ってはいないだろう。だがそれが愛の告白となると話は別だ。凪子が自分のことをどう思っているのか、それがどうしようもなく気になりだしたのは、昨夜放送していたテレビドラマのせいだろうか。恋に不器用な主人公に共鳴してしまった自分を、悠斗は自覚していた。
凪子と話しているだけで、十分幸せだった。しかしずっとそうしているわけにもいかない。今のままでは凪子はずっと友達のままだ。今まで恋などしたことがなかった悠斗は、どうすればいいのかが全くわからなかった。ずっとこのままの距離を保てば、距離が縮まることもなければ離れることもない。しかし告白してしまったら、距離は近づくか離れるかのどちらかだ。その決断をする度胸を、悠斗は持っていなかった。自分の情けなさに恥じ入りながらも、悠斗は今日も凪子に会いに行くつもりだった。
カーテンを開けると、昨日の雨が嘘のように晴れていた。悠斗が部屋干ししていた制服をハンガーから外し、着替えようとしたその時だった。携帯電話が震えたので画面を見ると、柚木からメールが届いていた。
『今日は学校休みます』
簡潔な内容だった。柚木が欠席するのは珍しいため、体調でも悪いのだろうかと心配になった。
実は悠斗も体調が優れなかった。欠席をするほどでもないが、どこか調子がおかしい。風邪のような気もするし、ただの寝不足のような気もした。きっと疲れているのだ、と自分に言い聞かせ、部屋から出た。
学校が終わり、いつも通りに凪子の家に直行する。
表向き悠斗は、病弱な少女の話し相手として家に通っていることになっている。それがある限り、告白しても拒絶しかされないような気がしていた。凪子の意識を少しずつ恋愛の方向に向けていかなければ、進展はなさそうに思えた。
それを一体どうやればいいのか、それすらも分からないのだから、お話にならない。しかし悠斗は、凪子を好きな気持ちだけは誰にも負けないと自信を持っていた。その自信を糧にして、どうにかうまいこと事を運べないか、そんなことを考えながら家を目指した。
昨日の雨のせいか、山全体が生き生きしているように感じられ、緑がいつもより鮮やかに見えた。澄んだ空気を肺一杯に吸い込むと、気分が晴れた。しかし土は見事にぬかるみ、いつ転んでもおかしくない状態だった。この山道を、もう何回往復しただろう。毎日毎日飽きることなく、凪子の家を訪れた。ただ話しに行くだけだ。しかしその度に凪子のことをもっとよく知ることが出来た。相手を深く知ってしまうと、益々好きになるか嫌いになるかのどちらかになるのだろうが、悠斗は当然前者だった。
どうにか階段までたどり着き、気をつけてのぼる。家が見えた。
「凪子!」
庭に足を踏み入れ、声をかける。縁側の戸は開いていたが、凪子はいなかった。代わりに、沓脱ぎ石のすぐ脇に蝶の死骸が落ちているのを発見してしまった。それは昨夜の大雨の犠牲者に違いなかった。
もう一度声をかけると、背後で足音がした。振り返ると、軍手をした棗が雑草のようなものを持って立っていた。棗は悠斗を見たが、すぐに視線をそらし、何も言わずに家の中に入っていった。
それと同時に、家の奥から音がした。今度こそ凪子だった。
「すいません、お待たせしました」
凪子は萌葱色のスカートの端をつまんで、縁側に腰掛けた。柔らかい微笑を向けられた悠斗の心臓がきゅうっと縮まった。恋をした人間は、皆こんなふうになるのだろうか、体が言うことをきかなかった。
「どうしたの?」
凪子が怪訝そうにしたので、悠斗は慌てて首を振る。
「いや、何でもない」
平静を装っていつものように隣に座る。凪子の気持ちを意識しすぎているせいか、いつもの自分と何かが違うと、自分でも気づいていた。
家の奥の方から、何かを流水で洗っているような音が微かに聞こえた。それがやむと、廊下から階段へと足音が移動していく。棗は二階に行ったようだった。悠斗は小さく息を吐く。
悠斗は、今日の学校での面白い出来事を凪子に聞かせた。凪子は笑ってくれた。それだけでも十分なはずなのに、今日の悠斗はどうしても心に満たされない部分があった。悠斗の手のすぐ横に置かれた、凪子の白く小さな手。少し手を伸ばせば届いてしまうそれに触れてみたいと、心の底から強く思った。
『凪子に触れてはいけない』
兄達に言われた言葉が再生される。何故触れてはいけないのかという説明は満足に聞かされていない。
禁止されるとやってみたくなるのが人間の性だ。ルールがあれば破りたくなる。ましてやそれが自分にとって恋焦がれているものなら、尚更だ。
悠斗はそろそろと指先を凪子の手の方に近づけた。そして、指先が凪子の手の甲に軽く触れそうになった時――白い手が勢いよく引っ込められた。
悠斗は驚いて、凪子を見る。凪子の大きな目が見開かれ、黒目が落ち着きなく動いている。
「あ……!」
凪子は今悠斗が触れようとしたほうの手の手首をもう片方の手で押さえた。悠斗は呆然とした。それは完全なる拒絶だった。
凪子ははっと我に返り、項垂れて絶望の海に沈んだ悠斗に言った。
「ごめんなさい! 突然でびっくりして……」
「こっちこそごめん。変な意味があったんじゃないんだ」
どちらも言い訳がましかった。だが無言で気まずくなるよりはよほどいい。
悠斗は顔を上げる。その時凪子は庭のほうに顔を向け、恥ずかしそうに頬を赤らめ、口許に手を当てていた。それは予想外のことだった。嫌がっているふうではない。もしかしたら本当に、不意打ちのことに驚いただけなのかもしれないと思ったら、悠斗の心は少し浮上した。
「本当にごめんなさい。私、そういうの慣れてなくて……」
凪子がちらりと悠斗を見る。悠斗も恥ずかしくなって赤面した。
「いきなりごめん。このことは忘れてくれ」
脈がないわけではないと確認できただけでも、悠斗は満足だった。それにしても先ほどの動揺の仕方は過剰だったようにも思えたが、それほど驚いたのだろうと勝手に解釈し、気にしないことにした。
微かに足音が聞こえた。音が響かないように気をつけているようだったが、古い階段は軋むらしく、棗が二階からおりてきているのは丸分かりだった。そしてまた二人を監視するのだろう。まるで何かが起こってしまうのを恐れているかのように。――恐れる? 一体何を? 自分の思いつきを自分で否定し、そして笑った。何が起こるというのだ。
背後に棗の視線を感じた。その得体の知れない不気味な状況に慣れてきている自分がいた。当然凪子も棗の存在に気づいているのだろうが、何事もなかったかのように話し始めた。悠斗もそれに合わせた。
そして、いつもより早めに家に帰ることにした。
***
いつものように下校し、いつものように倉田家を訪れた悠斗は、呼び鈴を鳴らすことなく慣れた様子で庭に足を踏み入れた。凪子は既に縁側で待っていて、その視線は手元の本に注がれていた。凪子は悠斗が庭に入ってくるのに気づいて顔を上げた。
「本、読んでたのか。どういう本?」
悠斗は凪子の隣に腰を下ろしながら訊いた。
「外国の御伽噺。幽閉されていた女の子が王子様と恋に落ちて、自由を手に入れて幸せになる話。これを読むといつも思うの。この少女のように自由を手に入れ、この家から出たいって。私が知っている世界はすごく狭いの。外に出られたら、もっと色々知ることが出来る気がする」
凪子はその物語の主人公と自分を重ねているようだった。悠斗は胸が痛むのを感じた。たとえそれがただの作り話でも、同じような境遇にいる者が幸せを掴めば、自分もいつか幸せを掴めるだろうかと希望を持ちたくもなるだろう。中には諦める者もいるだろうが、少なくとも凪子は諦めていないのだ。しかし悠斗にしてやれることは、こうやって話し相手になってあげることくらいだった。悠斗は自分の無力さに怒りさえ感じた。凪子が病弱である限り、凪子はこの家から出られない。しかし凪子の体のことは、どうしようもないのだ。
ガタン、と二階から物音がした。今日は平日なので桐哉は家にいないはずである。物音の主は棗以外に考えられなかった。
心臓が高鳴った。誰も監視していない今がチャンスかもしれないと思った。しかし勇気を出すのには、かなりの努力が必要だった。昨日の記憶が、決断力を更に弱める。
悠斗は、悩んだ末に口を開いた。
「……なぁ、凪子」
「何ですか?」
瞬きしながら、凪子が顔を近づけた。
「お前は……俺のこと、嫌いか?」
自分から、好意を寄せていると告白する勇気が出ないからといって、相手にそれを言わせるのは最低以外の何物でもない。しかし悠斗にはそれが精一杯だった。
悠斗の言葉を聞いた凪子は、大きな目をぱちくりさせた。そしてその質問の意味するところがわかったようで、うろたえ、やがて俯いてしまった。頬や耳が林檎のように真っ赤に染まっていく。それを見ながら、悠斗もまた赤面し、心臓が激しく脈打った。答えを知ることへの期待や恐怖が一気に襲う。
凪子は小さく唇を動かした。
「……嫌いなわけ、ないじゃないですか」
その声は小さかったが、悠斗の鼓膜に確かに響いた。凪子は顔を両手で覆ってしまった。
悠斗の理性を押さえつけていたものが壊れそうになっていた。いつの間にか悠斗の手は凪子に向かって伸ばされ、凪子の手首に触れ、凪子が目を見開いた時には、凪子の手首を掴んでいた。
「悠斗さん?」
その困惑気味の声は悠斗には届いていなかった。初めて触れたその肌の温かさと柔らかさに夢中だった。ガラスケースの中の人形なら、こうはいくまい。触れてみたいと焦がれていたものが実は見た目と違う硬質の冷たい肌で、がっかりするかもしれない。それは人形が見るためのもので触るためのものではないからだ。しかし凪子は人形ではない。ガラスの壁もない。触れて悪い理由がどこにあるというのだろう?
無意識に、悠斗は凪子に顔を近づけていた。そして唇と唇が触れそうなほどの距離になった時――凪子が叫んだ。
「嫌ぁ!」
その叫びで、悠斗は我に返った。身を震わせている凪子から手を放す。 凪子は後退り、赤くなった手首をもう片方の手で押さえた。それを見て悠斗は、自分で思っていた以上に強い力で手首を握ってしまっていたことに気づいた。
「ごめん!」
二階から音がした。今の声を棗が聞きつけたに違いなかった。時間がなかった。悠斗は逃げ出すという選択肢しか思い浮かばず、立ち上がった。
「凪子、本当にごめん。家に帰って頭冷やすから!」
「悠斗さん、待って!」
走り出そうとした悠斗は足を止める。
「家に帰ったらすぐに手を洗って! 絶対に!」
それはまるで、触られたという事実を消してしまいたいとでも言っているように聞こえた。
棗が階段を駆け下りてくる音がした。悠斗は棗に見つかる前に、美しい庭を飛び出した。階段を下ると、背後から棗の怒声が微かに聞こえていた。
凪子に触れてはいけない、と忠告をしてきた兄達。しかしそれは兄達が思っていたことではなく、凪子の意思だったのだろうか。凪子は触れて欲しくなかったのか。となれば、悠斗は嫌われてしまっただろう。禁止されたことをしてしまったのだから。
悠斗は、軽薄だった自分を心の中で罵りながら、家に向かって走った。
悠斗が逃げた直後、棗が凪子の元に駆けつけた。襖を勢いよく開けるとそこには、縁側に一人座っている凪子がいた。棗は駆け寄り隣に座る。
「凪子、どうした! さっきまであいつがいただろう?」
「……彼なら帰ったわ」
凪子は棗から目をそらしたまま言った。棗は凪子の顔が赤く、薄く汗をかいているのに気がづいた。そして凪子の手首が赤くなっているのを見た時に、何があったのかを大体把握した。棗の顔がさっと青ざめる。
「おい、まさか」
「大丈夫。未遂だったわ」
その答えに棗は胸を撫で下ろしたが、それと同時に怒りが湧き上がってきて、床を拳で叩いた。
「あいつ、忠告を無視したな! 次に会ったら殴ってやる!」
「棗兄さん、それはやめて!」
凪子は憤慨する兄の腕を掴もうと腕を伸ばした。それに気づいた棗は、「触るな!」と、凪子の手を振り払った。そこで棗は、しまった、という顔をした。
凪子は、棗の爪が引っかかって赤くなった手の甲を押さえ、俯いた。
「……ごめんなさい、兄さん」
棗は小さく舌打ちし、立ち上がった。凪子に背を向け、少しの間の後、言った。
「俺はお前の狙いがわかったかもしれない」
凪子ははっと目を見開き、棗の背中を見上げた。
「やっとわかった。否、前からわかってたのかもしれない。ただ認めたくなかっただけで……」
凪子は無言でその背中を見つめている。棗は振り返った。
「お前は父さんと同じことをしようとしてるな?」
その問いに対し、凪子は肯定も否定もしなかったが、それが全ての答えだった。
「だよな、それしか考えられないよな。……他人を巻き込むな。いくら顔があいつに似てるからって」
「それだけじゃないわ。悠斗さんは優しいし、良い人よ」
「お前は一生誰とも恋愛なんか出来ない!」
棗は強い口調で言い放った。凪子はそれ以上何も聞きたくないというように両耳を塞ぎ、叫ぶ。
「わかってるわ、そんなこと。だからこれで最後にさせて! 兄さんみたいに全部諦めるなんて出来ないわ!」
「ならせめて本人に知らせるべきだ。だがそんなことは現実的に不可能だ。あんなことを言ったって、受け入れてもらえるはずがない」
「でも私は……それでも、確実に悠斗さんを繋ぎとめておきたいの」
言いながら、凪子は首を横に振る。
「違う、それも違う……。私だってわからない。どうしたらいいのか、わからないのよ」
棗は大仰な溜め息をついた。そして聞き分けの無い子供に言い聞かせるように言った。
「何も迷う必要はないだろう。お前はもうあいつと会わなければいい。それだけの話だ。お前はこの家に閉じこもっていればいいんだ。次にあいつが家に来たら、俺はあいつを追い払う。お互いのためにそうするべきだ」
棗は凪子に背を向け、襖を開けて部屋を出て行った。
いつの間にか白い頬を涙が伝っていた。凪子はそれを手で拭いたが、とめどなく溢れてきて、手がぐしょぐしょに濡れた。
***
悠斗は頬杖をつき、教室から窓の外を見ていた。冴えない色をした空の下で、生徒達が元気にサッカーをしているのが見える。
凪子に拒絶されてから数日がたった。しかし心の傷はいまだ癒えない。しかし凪子の傷はそれ以上だと予想していた。凪子の家にはあの日以来行っていなかった。行ったところで、まともに顔を合わせることなど出来るはずもない。
大きく溜め息をついたとき、肩を勢いよく叩かれ、振り返ると、予想通り柚木が立っていた。
「どうしたの、溜め息なんかついて」
「何でもない」
悠斗はそっけない返事をした。
「ふぅん。でもちょっと顔色悪いよ。保健室行かなくていい?」
「……顔色悪いか? 大丈夫だって」
「そう? それならいいけど」
心配そうに顔を覗き込んでくる柚木を席に返して、悠斗は机に突っ伏した。そしてまた思案に暮れた。凪子の姿、体調のこと、今何をしているのか。いつものように庭を眺めながら自分を待っていてくれているのだろうか。それとももう会う気などなくて、縁側の戸は閉め切られてしまっているだろうか。
はっきりと拒絶されたにも関わらず、凪子のことを想う気持ちは全く変わっておらず、そんな自分を哀れに思った。もう望みなどないのに、その想いを捨てきれないでいる。
しかし悠斗には引っかかっていることがあった。凪子は確かにはっきりと拒絶を示したが、悠斗のことを嫌っている様子は全くなかった。そして凪子はそれを態度だけでなく言葉でも示した。それは一縷の望みであるように思えた。凪子は悠斗を心底嫌っているわけではない。もしかしたらあの拒絶は、照れていただけだったのではないか? それは単に自分に都合のいいように解釈しただけの妄想なのかもしれなかった。しかし悠斗は凪子をこのまま諦めることだけはしたくなかったのだ。
そして悠斗は、凪子の家を訪れる決心をした。
クラスで任されている委員会の会議が終わり、悠斗は急いで学校を出た。夕日を背負った山が黒い影になっている。悠斗は先を急いだ。
ぬかるんだ山道など、もう悠斗の敵ではなかった。周囲の木に掴まりながら上を目指す。
倉田家のすぐ近くの階段をのぼっている途中、烏の鳴き声に混じって、その声が微かに聞こえ、悠斗は立ち止まった。それはどこかで聞いたことのある声だったが、誰の声だったかは思い出せなかった。男の声だが、桐哉でも棗でもない。それは森の中ではなく、倉田家の庭から聞こえた。悠斗は気づかれないようにそっと階段をのぼり、庭を囲う生垣の隙間から中を覗き込んだ。
縁側に凪子が座っていた。そしてその隣にいたのは、いつか軒先で会った浜崎だった。浜崎はあの時と同じ調子で、一方的に凪子に話しかけている。凪子は明らかに不快そうな表情をして、適当な相槌を打っていた。それは悠斗に対する態度とはまるで違うものだった。
「凪子ちゃん、また髪の毛伸びたね。切らなくていいのかい? 以前のように髪を短くしていた方が可愛いよ」
「私は長い方が好きです」
凪子の返事はどこか冷たい感じがした。凪子は、お喋りな浜崎のことがあまり好きではなかったはずだが、それが表情や態度に露骨に出ていた。
しかしそれに気づいていないのか、浜崎はかまわず続ける。人の心を読めない男は、見ているだけで人を不快にさせる。
「それにしても、この庭はいつ見ても観賞用の花が少ないね。こんなに広いんだから、もっと綺麗な花を植えればいいのに。そうすればもっと素晴らしくなるよ」
「ここは父さんの庭ですから、派手な花はいりません」
「先生は本当に研究熱心だったからなぁ。スズランにイチイ、スイートピー、アイリス……うん、確かにこれは先生の研究用の庭だ。洗練されているよ」
一瞬、浜崎が視線をこちらに向けた。覗き見がばれたのかと思ったが、そうではないらしい。
「そういえば、今日は来ないのかい。何て言ったっけ、ナントカ悠斗君」
自分の名前が出て、悠斗はドキリとした。
凪子は浜崎から目をそらす。小さく口を動かした。
「……わかりません。多分、来ないと思います」
「あれ、そうなの? もしかして喧嘩?」
凪子は口ごもる。その表情から凪子が何を思っているのかを読み取るのは難しいことに思えたが、浜崎はそれを肯定ととったらしく、軽く笑った。
「そうか、まぁ、そういうこともあるさ。仲直りはできそうかい? それとも喧嘩したままでいるつもり?」
「私は……」
凪子が何かを言おうとするが、沈黙する。悠斗はその先が気になり、必死に耳を傾ける。しかしそれを浜崎が邪魔した。
「突然で悪いけど、訊いていいかな」
凪子は戸惑いの色を浮かべながら浜崎を見る。
「何ですか?」
「凪子ちゃんは悠斗君が好きなのか?」
「え?」
その問いの真意を測りかね、悠斗も驚いた。
「もしかしたらな、と思って。どうなんだい?」
「またいつもの推理ごっこですか?」
凪子は呆れたように辛辣さを含ませて言ったが、浜崎は怯むどころか更に言った。
「だって彼の雰囲気が、先生に似ていたから。女の子は、自分の父親に似た男の子を好きになるっていうじゃないか。もしかしたらそういうことなんじゃないかと思ってね。すごく仲がいいんだろう?」
「……もしそうだとしても、浜崎さんには関係の無いことです。いい加減にしてください。悠斗さんに家の事情を軽々しく話したりして、探偵ごっこもここまで来ると最低です。迷惑なんです」
「ああ、そのことは僕も後悔してるんだよ。色んな意味でね」
浜崎は嫌な笑みを浮かべた。
「昨日桐哉君に電話で聞いたところによれば、彼は毎日のように君に会いに来ているらしいじゃないか。君はそれをとても喜んでいるようだって。あんなに短い期間で、君の世界に入り込んで。君は楽しそうに笑って、毎日毎日あの男を家に呼んで、あの男もきっと君のことが好きで」
「浜崎、さん?」
悠斗は眉根を寄せる。浜崎の様子がおかしい。浜崎は凪子の両腕を掴みあげ、凪子が声をあげる暇も与えずに言った。
「僕じゃ駄目か? 僕のためには笑ってくれないのか? 僕じゃいけないのか? 僕のほうがずっと前から君のことを好きだったのに!」
浜崎は凪子を床の上に勢いよく押し倒した。予想外の展開に、悠斗は固まる。
「やだ、離して!」
足をばたつかせ抵抗する凪子に、浜崎は強引に口付けた。一旦顔を離し、再度口付ける。自分の欲望を押し付けるようなその様に激しい嫌悪感を覚えたとき、凪子が苦しそうな声をあげた。それで悠斗は我に返った。こんなことをしている場合ではない。立ち上がり、凪子を助けようと庭に入った。
「おい、やめろ!」
悠斗が怒鳴ると、浜崎は振り返り、目を見開いた。それは第三者の登場に驚いたからだろうと悠斗は思ったが、そうではなかった。浜崎は悠斗の姿を見ていなかった。大きく見開かれた目は、悠斗に焦点を合わせていない。
「おい、何やってんだよ! 早く凪子から手を」
離せ、と悠斗が続けるまでも無く、その手が凪子から離された。浜崎は自分の胸の辺りを押さえると、その体はガクガクと激しく震えだした。足をもつれさせて地面に転倒する。
「ぐ……がはっ!」
浜崎は強い痙攣を起こしながら、嘔吐し始めた。顔は激しい苦しみに歪みきっている。
悠斗はその場から動けないでいた。目の前で起こったのが何なのかが理解できない。
浜崎の体は草の生い茂る地面の上でのたうち、嘔吐を繰り返す。口の端から吐瀉物と涎を垂らし、足の先から手の指先まで引きつらせる。
悠斗は、青ざめた自分を理解していた。凪子を見ると、凪子もまた青ざめていた。何も言葉が出なかった。
うつ伏せになった浜崎の体は、やがて全く動かなくなった。
ぱきり、と枝が折れた音がし、悠斗と凪子はびくりと震え、音がした方を見た。そこには棗が立っていた。棗は二人の青ざめた顔を訝しげに見た後、その足元に倒れている男の姿に気づき、持っていた荷物を放り出して庭に飛び込んできた。
「浜崎さん? 一体どうしたんだ、おい、凪子!」
凪子は青ざめてはいたが、震えの止まらない悠斗の何倍も落ち着いた様子で、答えた。
「さっき彼が急に訪ねてきて、縁側で話してたのよ。そしたら、いきなり襲い掛かってきて……」
吐瀉物にまみれた顔は苦痛に歪み、眼鏡のレンズは割れている。棗はそのすさまじい状態を直視し、「糞野郎!」と言い捨てると、悠斗に向き直って言った。
「おい、このことは誰にも言うなよ。もし言ったら」
「い、言わない。凪子は何も悪くないんだ、だから」
悠斗は自分でも何を言っているのかわからなくなっていたが、この理解不可能な状況を警察に通報することは、この場にいる誰の得にもならないであろうということは推測出来た。そして誰かに言ったところで、信じてくれるわけがないということも理解していた。
「俺は誰にも言わない。約束する。――浜崎さんは持病か何かがあったんだろ? そうなんだよな?」
「悠斗さん……」
浜崎の死は、凪子との口付けによってもたらされたもののように見えた。しかしその行動と死というものが全く結びつかない。もしそれが真実だとしたら、これ以上に甘く、苦しい死に様があるだろうか? そしてそんなことが現実に起り得るのだろうか?
「凪子を大切に思うなら、お前は今日あったことを全て忘れるべきだ」
棗の言葉に、悠斗は頭を抱えながら頷いた。
「わかった。凪子ごめん、今日はもう帰らせてくれ」
頭が岩に打ち付けられたように痛かった。悪夢なら覚めてくれと願いながら、悠斗は倉田家をあとにした。
不安そうにその背中を見送った兄妹は、遺体を見下ろしながら何かを言い合った後、それぞれがやるべきことをやり始めた。
棗は桐哉の携帯電話に電話をした。受話器の向こうが緊張感で張り詰める。
「浜崎さんの目的は凪子だったんだ。全然気づかなかった。――ああ、うまくやってみせる。前回だって何とかなったんだ。今回も誤魔化してみせるさ、凪子のために」
予想出来なかった事態ではなかった。むしろ決まりきっていたことだった。棗は内心で、兄の楽観的思考を馬鹿にした。
「仕事が終わったら、急いで帰ってきてくれ。それまでにやることはやっておく。――凪子か? 平然としてるよ。清純そうな白い花こそ危険だって言っていたのは兄さんだろう」
電話を切り、棗は襖の隙間から庭を見た。男の亡骸を見下ろす妹の横顔には、何の感情も浮かんでいないように見えた。もしくは、諦めにも似たものが心を支配して、何も考えることが出来ないでいるのかもしれなかった。
棗は襖を開け、縁側に近づいた。
「もう、あいつはこの家には来ないだろう。諦めろ」
その言葉に、凪子は何も反応を返さなかった。
***
朝はいつものようにやってきた。カーテン越しに届く白い陽光が、寝起きの悠斗の目を焼いた。悠斗は悪夢にうなされでもしたかのように表情を歪ませていたが、それは夢のせいではなく、昨日現実に起こったことのせいだった。
身支度をさっさと終えた悠斗は、食欲がわかず、何も食べずに家を出た。空の清々しい青さも、悠斗の心に立ち込めるもやもやしたものを取り去ってはくれない。
すたすたと歩く悠斗の肩が、背後から勢いよく叩かれた。振り返ると柚木が立っていた。
「おはよう。今日は早いね。何か用事でもあるの?」
「お前こそ。いつも俺より家出るの遅いだろ」
「朝弱いから仕方ないじゃん。今日は委員会の仕事があってさ、頑張って早起きしたんだよ」
柚木は悠斗の横に並び、一緒に歩き始めた。二人で下校することは多くても、登校することは滅多に無い。
柚木は当たり障りの無い世間話を始めたが、悠斗は適当に相槌を打つ余裕も無かった。昨日の目の前で起こったことが頭から離れず、どうしたらいいのかわからなかった。
その様子に気づいたらしい柚木が、心配そうに声をかけた。
「大丈夫? 何かあったの?」
昨日見た不可解なことを、他人に話すのは躊躇われた。しかし自分の中に仕舞い込んでおくには重すぎた。悠斗は楽になりたくて、つい口を開いてしまった。
「お前、変な話好きだろ。幽霊とか、占いとか、宇宙人とか」
「それがどうしたの?」
「キスしただけで人を殺せるなんて話、聞いたことがあるか?」
自分で言いながら、なんて馬鹿なことを訊いているのだろうと自嘲した。さすがの柚木も目を点にして、戸惑う様子を見せた。
「聞いたことないなぁ、そんな話。珍しいね、悠斗がそういう話するの。そういうの、あんまり信じてないんでしょ。でも、それってちょっとロマンティックだね。キスしただけで人を殺せるなんて。名づけるなら、死神のキスってところかな」
それをロマンティックだと言えるのは、実際にその場を目撃したことのない人間だけだ。全身を引き攣らせ、嘔吐し、苦痛に歪んだ表情を浮かべたまま息絶えた浜崎。あまり好きではない人間だったとしても、あの死に方はないと思った。
「そうだ悠斗、今日の放課後は暇? ちょっと買い物に付き合って欲しいんだけど、いい?」
いつもなら倉田家に行くために、すぐに断っただろう。しかし今日、あの家に近づく気にはなれなかった。凪子に対するあらゆる感情がない交ぜになって、どういう顔をして会えばいいのかがわからなかった。
「……いいよ。どこまで行くんだ?」
すると柚木は嬉しそうに笑顔をはじけさせた。
「やったあ! あのね、隣町まで出たいの。新しいショッピングセンターが出来たんだって。百円ショップもあるらしいよ」
「へぇ、都会にいた頃はよく行ってたな。懐かしい」
悠斗は平和な話題で盛り上がることで、あの異常な出来事を忘れ去ろうとした。あれは何かの間違いであると、自分を騙そうと努力した。
放課後はあっという間に訪れて、二人は校門前のバス停からバスに乗り込み、隣町に向かった。そのショッピングセンターは、以前は広々とした田園だった場所を潰して建てられたようで、新しい建物の周囲には田園風景が広がっていた。
隣町は、二人が住む町よりも人口が多く、ショッピングセンターは大勢の人々でごった返していた。
その中に入っている百円ショップはあまり規模が大きくなかったが、柚木はそれでも満足だったようで、付けまつげやマニキュアなどを大量に購入した。それから別の店で服などを購入し、気がつけば悠斗は荷物持ち係になっていた。
「お前、最初からこれが目的だったな」
「だってそんなに沢山荷物持てないもん」
悪びれもせずに言い放つ柚木に、悠斗はため息をついた。予想出来なかった自分も悪いのだ。
「あ、ちょっと向こうも見ようよ」
柚木は悠斗の手を握り、引っ張った。その何気ない動作に、悠斗は顔を火照らせた。いくら相手がただの友人である柚木であれ、女子にいきなり手を握られて驚かない男などいないだろう。
幸いにも柚木は悠斗の様子には気づかなかったようで、そのまま安売りの靴下のワゴンを囲む人だかりの中へと消えていった。
こんなに騒々しい場所に来たのは久しぶりだったので、悠斗は少し息苦しさを感じた。生徒数の少ない学校、民家の少ない町、静かな山の中――悠斗は静かで長閑な場所に既に慣れていたのだ。梢が揺れ、小鳥が鳴き、草木が支配するあの庭の居心地のよさが突然恋しく感じられた。何かに絡め取られるかのように、意識があの家へと向かう。まるで外界から切り取られたかのようなあの場所が、凪子の笑顔が、時たま見せる切なげな表情が、頭から離れなくなっていた。
***
悠斗と目が合った棗は、驚きのあまり如雨露で水を撒いていた手を止めた。
「お前……来たのか」
棗は如雨露をプランターの横に置き、軒先で立ち尽くす悠斗に近づいた。悠斗は俯いた。
「五日前のことは誰にも喋っていないな?」
棗の問いに、悠斗は柚木に口を滑らせたことを思い出したが、「言っていない」と嘘をついた。この家で実際に起こったことだとは言っていないので、許されるだろうと勝手に判断した。
「凪子には会わせないぞ。あれを見てわかっただろう?」
凪子と口付けを交わした男が死んだ――その不可解な出来事がいかにして起こったのか、その理由は見当がつかない。しかし、凪子に近づくと危険だということだけは理解出来る。
「今日は凪子に会いに来たわけじゃない。あの日のことを説明してもらいに来たんだ」
「お前に話すことなど何も無い。あれが全てで、真実だ」
棗は聞く耳を持たず、悠斗を追い返そうとした。すると悠斗の背後から声がした。
「悠斗君、君は凪子が怖くないのか」
振り返ると、軍手をし、草の入ったビニール袋をぶら下げた桐哉が立っていた。
「あんなものを見たら、もう君はここには来れないだろうと思っていたけど、君は来たんだね。それはどうしてだ?」
「凪子のことが心配だからです。凪子が何者でもいい、ただ真実を知りたいんです」
悠斗は即答し、強い口調でそう述べた。
「どうやら本気のようだ」
桐哉は肩をすくめて、ビニール袋と軍手を足元に放り出した。そして玄関の戸を開ける。
「凪子は今、奥の部屋で寝てる。起こさないように静かにあがって。……二階に案内しよう」
それを聞いた棗は桐哉に食って掛かる。
「正気か? それじゃあ今までのことが台無しになるじゃないか。あのことは絶対に話すべきじゃない!」
「お前は黙ってろ」
桐哉は辛辣に言い放ち、玄関に入った。
「悠斗君、君は凪子を大切に思ってるか?」
「はい」
「これから話すことは、君にとっては信じがたい話だろうし、この上なく恐ろしい話でもあると思う。そして他人に知られた時、一番困るのは凪子だってことを忘れないでくれ。取り乱して凪子を問い詰めるようなこともしないでくれ。わかったな?」
悠斗は深く頷き、家の中へと入った。それに棗も続き、玄関の戸がそっと閉められた。
桐哉のあとを追って、階段をのぼる。ギシギシと音をたてて二階につくと、ひんやりとした闇が肌を撫でた。棗が照明をつけると窓の無い廊下が明るくなったが、小さな電球の明かりは心許無く、不安感を増長させているようだった。
廊下は階段の降り口から二手に分かれていて、桐哉は右に向かった。短い廊下の奥にはドアが一つだけあり、桐哉はドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開いた。桐哉が照明のスイッチを押すと、チカチカと蛍光灯が瞬き、部屋を照らした。悠斗は恐る恐る中を覗きこむ。八畳分くらいの広さのある部屋の壁際には背の高い本棚がずらりと並べられ、窓は塞がれており、机と椅子が置いてある場所に半分だけ見えている窓からブラインド越しにわずかに光が漏れ出ている程度だった。床には分厚い本が其処彼処に積み上げられていて、辛うじて二、三人が座れるスペースが空いているだけだった。
悠斗は椅子を勧められ、腰を下ろした。他の二人は床に直に座った。
桐哉は早速口を開いた。
「ここは俺達の父さんの書斎だ。これらの本は全て父さんの研究資料だ。父さんは大学で植物学を教えていた。しかし、植物学といっても色々ある。父さんの場合は特に偏っていた。父さんは有毒植物に興味を持ち、それに関するあらゆる資料を収集した。植物だけでなく、毒に関する資料も含めてね」
桐哉は周囲に散乱していたノートを片付け、背後の本の山から一冊のハードカバーの本を取り出した。それは古く、痛みが目立った。桐哉はそれを開き、悠斗に渡した。
「そのページを読んでみてくれ」
そのページには、致死量にあたらない少量の毒を毎日飲み続けることで体が毒に慣れ、数十日後には致死量を服毒しても死ななくなる、という古典小説の一節が引用されていた。本のタイトルを確認すると、それは毒薬に関する書物のようだった。
「これがどうかしましたか?」
「こっちも読んでみろ」
棗に渡されたそれはボロボロのノートだった。数ページにわたり丁寧な文字が並んでいる。悠斗はその文字を読み進めるうちに、背筋が凍っていくのを感じた。
「今から話すのは、可哀相な男と犠牲者の少女の話だ。落ち着いて聞いてくれ」
桐哉はゆっくりと話し始めた。現在に繋がる、おぞましい過去の出来事を。
その男は倉田桂樹 といった。近隣の大学で植物学を教え、研究に没頭していた。特に心惹かれていたのは有毒植物についてで、ある時海外旅行に行った際に見かけた美しい毒草園に心奪われ、それ以来有毒植物に関する研究ばかりを行っていた。
桂樹は研究室助手の青木凪という女と恋に落ち、やがて結婚した。凪は大きな目が印象的な可愛らしい顔立ちで、肩の上で切りそろえた髪がよく似合っていて、気立てもよく、桂樹は凪を深く愛していた。
凪は助手をやめて専業主婦になり、やがて男児を二人産んだ。四人は山奥の自然に囲まれた家で、和やかな日々を過ごしていた。
いつまでも続くかのように思われた家族四人の幸せは、少しずつ崩れ始めた。桂樹は研究に没頭するあまり、家族に関心を向けずに書斎に篭ることが多くなった。凪は夫のことを極力理解しようとしたが、それが何年も続くとさすがに我慢がならなくなってきた。
しかしその頃、凪の妊娠が発覚した。凪は夫の愛を呼び戻せると思い喜び、桂樹に報告をした。しかし桂樹は凪が期待していた反応を返さず、書斎に篭りがちな生活は変わらなかった。凪の不満は爆発した。膨らんでいくお腹を撫でながらも、その顔に笑顔は無かった。むしろ憎悪のようなものを含んでいるようだった。
やがて凪は女児を出産したが、出産後すぐに家を出て行き、それきり行方不明になった。浮気相手と蒸発してしまったのだ。そこで桂樹は初めて、深く愛していたはずの凪を苦しめていたことを知った。残されたのは、泣きじゃくりお乳をねだる赤ん坊だけだった。その顔には凪の面影があった。桂樹は、この娘だけは手放したくないと強く願った。そして凪子と名づけたその娘の無垢な体内に、忌まわしいものを流し込んだ。忌まわしいものはミルクに混ぜられ、体内に蓄積された……。
桐哉の話を聞いていた悠斗の指は震えていた。悠斗に渡されたノートの内容を要約すれば――その昔インドでは、体内に猛毒を持つ乙女が作られていた。娘がまだ赤子の時に、ゆりかごの下に毒草を置く。次に布団の下に挟み込み、それも大丈夫なようなら産着の中に毒草を入れる。こうして毒に馴染ませた娘に毒入りミルクを飲ませる。そのまま毒草を食べさせ続け、美しく成長させれば、毒の娘の完成である。その娘と口付けを交わしたが最後、その人物は死に絶える――ということだった。
「今の話は、父さんの日記から得た情報や、俺達の記憶を合わせて出来たものだから、事実の誤りが多少はあるかもしれない。しかし大筋はこういうことだ。父さんは母さんを失ったことで、残された娘に執着した。そしてそのノートに書かれているのと同じ方法で、凪子の体内に毒を流し込み、禍々しい存在にしてしまった。他の男が近づけないように、自分の元から去って行かないように」
「そんな馬鹿な。狂ってる!」
「信じがたい話だというのは百も承知している。しかし真実を受け止める勇気も大切だ」
その時悠斗は、あらゆる疑問に対する答えを得た気がした。凪子を家から出さないのは、他人に接触させないため。凪子に触れてはいけないのは、毒の付着を避けるため。病院に行かせないのは、体の秘密を守るため。棗は、凪子が周囲に被害を与えないように監視をしていたのだ!
恐ろしいことに、この話を真実とすると、不可解な事柄に全て納得のいく理由がつけられてしまうのだ。そしてその話が真実である証拠を、悠斗本人が目撃しているのだ。口づけを交わしただけであっさりと死んだ浜崎の姿が鮮やかに蘇ってきて、悠斗は吐き気を覚えた。
「本当は、誰にも話さないべきだったんだ。しかし君はもう無関係というわけでもない。君は凪子のそばに長いことい続けた。――実は、この家の庭にある草花や木は、全て有毒植物なんだ。君はここの空気を吸いすぎた。たまに訪れる程度ならまだしも、毎日家にやってきた。俺はそれが危険だと知っていたが、寂しがる凪子のことを思うと、君を犠牲にしてもいいと思ってしまった。おそらく君は今、息を吹きかけることで虫を殺すとまではいかなくとも、多少の毒を飲んだくらいでは死ねなくなっているだろう」
つまりそれは、長いこと毒の空気に触れ続けたことで、悠斗の体が毒に馴染んでしまったということだ。
今思えば、体調が悪くなりだしたのは凪子の家に初めて行った日の晩からだった。その時は緊張のせいだと思って軽く流していたが、それは違っていたのだ。凪子と会って話をした瞬間から、凪子の吐息に混じった少量の毒が、悠斗の体内に入り込んでいたのだ。凪子が話すたび、息をするたびに、その毒は悠斗を侵蝕していたのだ。悠斗は、知らず知らずの内に自分の身体に変化が起きていたことに気づき、恐怖した。
「凪子は純粋に友人が欲しかっただけだと思う。凪子を責めるのはやめてくれ。それから、君はもうここに来るのはやめた方がいい。今ならまだ抜け出せる。これ以上ここにい続けると、俺達のように恋の一つも出来なくなってしまうぞ。体液まで毒に侵される前に、凪子の前から姿を消してくれ。そしてこの家のことは忘れてくれ」
桐哉は切なそうな笑みを浮かべ、棗は深く俯いた。それは二人の毒の侵食が進んでいるということを示していた。悠斗以上に長い期間この家に住み続けた人間は、直接毒を体内に取り込んだ人間には及ばなくても、他人を寄せ付けることに危険を感じるほどの毒素が既に身体に入ってしまっているのだろう。
「解毒剤は無いんですか?」
悠斗は訊いたが、桐哉は力なく首を横に振った。
「凪子をあのような体にするのに使った毒草はトリカブトだが、トリカブトの解毒剤はいまだに見つかっていない。俺達は凪子の体を治してやりたくて、素人なりに色々調べた。しかしわかったのは、毒に侵食されつくした体は、毒を与え続けなければ弱ってしまうということだ。毒は、凪子の身体を正常に機能させる成分の一部になってしまっているんだ。凪子は今でもトリカブトを食べ続けている。庭でも育てているが、無くなれば山中を探し回る。今日のようにね」
桐哉が図鑑を取り出して、トリカブトの写真を悠斗に見せた。それはヨモギの葉に似ていて、以前凪子が薬草と称して食べていた葉に酷似していた。写真の横には、猛毒があるとの注意書きがあった。
「毒は昔から様々なことに使われてきたが、どの国や地域でも、使い方は似たようなものだ。無味無臭の粉末の毒を食卓に盛って人を殺していたんだ。だが、インドは特殊だった。つまりこの毒の娘だ。生きた毒花を敵国に送り込んで、王を毒殺していた。食事に盛るならまだマシだ、警戒することができるし、一応毒見役がいる。しかしまさか女自体が猛毒だなんて誰が予想できる? 女の毒見役なんていないだろう? あのクソ親父は、それを現代に蘇らせたんだ。凪子の人格を無視してな」
「凪子はこのことを知ってるんですよね……?」
「知らないわけが無いだろう。君が話し相手になってくれるまでは、毎日そのことで苦しんでいた。どうして自分はこんな身体になってしまったのかと泣いていた」
悠斗の心が締め付けられたように痛くなった。悠斗は人付き合いが煩わしいと感じることがよくあるが、もしも話し相手が家族だけという日が続いたなら、苦しくて仕方がなくなるだろう。なんだかんだ言いつつも、悠斗の周りには所用で言葉を交わす程度の人間がいて、周りにいて当たり前のクラスメイトがいて、近所に住む柚木もいる。凪子にはそれすらもいなかったのだ。他の人々が当然のように持っている仲間というものの一員になる権利が無かったのだ。それがいかに辛いことかを考えると、凪子が不憫に思えてきて、悲しくなった。
「なんて身勝手な!」
この部屋で研究をしていた学者は、娘に歪んだ愛情を注ぎ、悲しい存在にしてしまったのだ。悠斗は腹立たしい気持ちを吐き出すように、机を拳で叩いた。
その振動で、机の端に置かれていたものが倒れた。悠斗は慌ててそれを起こしたが、それは写真立てで、そこに写っている人物の顔を見た瞬間、悠斗は驚きを隠せなかった。それは家族写真だった。男と女、そして少年二人が写っている。少年二人は桐哉と棗の幼少時に見えた。そして女の顔は、髪型が違う以外は、凪子に恐ろしいほどよく似ていた。その横で笑っている男の顔は、眼鏡をかけていることを除けば、いつか凪子や桐哉が言っていたように、どことなく悠斗自身に似ていた。それはとても奇妙なものに見えた。
「悠斗君、もういいだろう。家に帰って、心を落ち着かせなさい」
立ち上がった桐哉に肩を叩かれ、悠斗は我に返る。そしてとても重要なことを思い出した。
「浜崎さんの遺体はどうしたんですか?」
すると桐哉の表情が凍りついた。
「君は知らなくていいことだ。こちらで処理したから」
それ以上の追求を許さないとでも言うかのような強い口調に気圧され、悠斗はそれ以上何も聞けなくなった。大事になっていないことを考えれば、うまいこと誤魔化したには違いなかったが、その方法は悠斗にはわからなかった。辛うじて出来たのは、広さに限りがあるとは言っても広いことに変わりの無いこの山のどこかに遺体を隠したのではないか、もしくは警察にうまいこと説明して誤魔化したのではないか、という単純な想像だけだった。
「わかりました。……帰ります」
悠斗は書斎を出ると凪子に気づかれないように階段をおり、静かに玄関の外に出た。軒先から庭が見える。ここに生えている無害な雑草にしか見えない草も、梢を揺らし心地よい音を奏でる樹木も、可憐な花も、全て有毒植物だという。それぞれが恐ろしいものを茎や葉や根に持っているくせに、それを誇示するような派手な色をしておらず、人々を癒す美しい緑であるようなふりをして平然と地に根を下ろしているのが腹立たしい。この庭を見たときに温室のようだと感じたのは、あながち間違いではなかったのだ。この庭は凪子たちの父親が研究のために作り上げた、毒草庭園なのだから。そして自らの愛するそれらの毒草によって死んだのだ。自殺であれ事故であれ、殺人であれ……自分が育てたものによって死に至るとは、何て悲しい運命なのだろう。
(……自分が育てたものに、殺された?)
悠斗の脳裏に一瞬浮かんだ恐ろしい想像は、それ以上膨らむ前に、すぐに忘却の海に沈められた。
(そんな訳がないだろう。まさかな)
本やノートを整理しながら、ずっと不服そうにしていた棗が口を開いた。
「本当にあいつに話してよかったんだろうか」
それを聞いた桐哉は、はたきで本棚の埃を落とす手を止めずに答えた。
「あの話だけはした方がいいだろう。これでもう彼はここには来ない……少し残念だが」
「え?」
「凪子を閉じ込めて他の人間に近寄らせないのが一番だと思ってるだろ。現実的に考えればそうだが、お前はそんな凪子の孤独を考えたことがあるか?」
「でも、凪子は別に一人じゃないじゃないか。家族の俺達がいる」
「凪子が欲しいものは、俺達にはどうやってもあげられないものなんだよ。凪子はそれを手に入れようとしたけど、駄目だったな」
「……やはり凪子の目的は、それだったか」
桐哉は凪子が不憫で、助けてくれる誰かが現れてくれればいいと思っていた。棗は徹底して凪子を閉じ込めておきたいと思っていたが、凪子が強く願うので仕方なく悠斗を入れた。兄達にも、どちらが正しい考えなのかは判断出来なかった。
ただ一つわかっていたのは、どちらかが幸せを手に入れればどちらかが不幸になる、ということだった。そして今回、不幸になったのは凪子なのだと二人の兄は確信していた。この家の狂気に飲み込まれそうになっていた少年は、今日逃がした。それが最善の方法だったのだ。
「凪子を慰めてやらないとな。数日後には相当荒れるだろう。学校の方は大丈夫か?」
「何とかなる。凪子の問題が最優先だ」
「ああ、そうだな。凪子を絶望から救ってやれるのは、もはや俺達だけなんだから……」
桐哉は机に近づき、写真立ての写真を眺めた。様々な思いが桐哉の頭の中を巡った。
悠斗はベッドの上にうつ伏せに寝転がり、今日凪子の兄達から聞いた話を何度も思い返していた。まるで出来の悪いファンタジー小説でも読まされたような気分だったが、それが真実なのだと自分に何度も言い聞かせ、信じる努力をしていた。あまりにも衝撃が強すぎて、まるで他人事のようだった。自分の体が毒により変質しつつあるということですらも、自分のことではないように思えた。
あれらの資料が本物で、兄達が話したことも真実なら、それは受け止めなければいけない残酷な現実だった。あれらが嘘である証拠を見つけ出すのは困難で、あれらが真実だと裏付ける証拠を思い出すのは簡単だった。
そして様々なことに思いを巡らせていく内に、凪子の父が毒により死んだという話の記憶にたどり着いた。悠斗は自分の想像に、にわかに青ざめた。凪子は自分の体のことを悩んでいたのだから、父親のことを恨んでいないはずが無い。それから導き出される疑惑とは――凪子が父親を毒殺したのではないかという、悠斗の心臓を圧迫する、恐ろしいものだった。
(そんな馬鹿な。あれは自殺か事故に決まっている……)
考えれば考えるほど、愛する凪子が忌まわしいもので穢れていくような気がした。しかし一度浮かんだその疑惑は、悠斗の思考にどしりと沈み込み、そこから動こうとはしない。悠斗は頭を掻き毟り、寝返りを打ち仰向けになる。
その時、携帯電話が鳴った。画面を確認すると、柚木からのメールが届いていた。その内容は平和そのもので、悠斗は思わず脱力した。
「いいな、あいつはのん気で」
ため息が漏れた。しかし、絵文字や顔文字で飾られたその明るい文面は、悠斗の沈んだ気持ちを少しだけ浮上させた。
(本来は、こっちのほうが理想なんだよな。物騒な話なんか何もなくて、平凡な毎日がずっと続くこの世界こそが、俺がいるべき世界なんじゃないか?)
悠斗の脳が、危険を回避するという本能を働かせたのか、あの異常な家のことを無理矢理頭の中から追い出した。やはりあの家は、いつか思ったように、こちら側の世界とは切り離された場所だったのだ。兄達が言っていたように、今ならまだこちらの世界に戻れる。あの家にもう近づかず、これ以上毒に侵されずにいれば、まだ十分に逃れられるのだ。あの甘い幻想のような日々をすっかり忘れてしまうのが最善の方法に違いなかった。
悠斗は柚木とのメール交換に没頭した。今までの日々を完全に忘却するためならば、話題は何でも良かった。とにかく気持ちを切り替えたかった。胸の中で大きく育った恋の芽を、ぐしゃぐしゃに踏み潰してしまいたかった。
『そういえば、もう少しで試験があるじゃない。もう何か準備してる?』
悠斗は柚木から届いたそのメールを見て、試験の時期が近づいていることを思い出した。このところそれどころではなかったので、当然何もしていなかった。
『何もしてない。やばいかな』
『私もまだ。いいこと思いついたんだけど、これからしばらく放課後図書室で勉強しない? 悠斗、英語得意でしょ。私は古典を教えてあげるから、代わりに私に英語を教えてよ』
それは嬉しい申し出のように思えた。実際、悠斗は古典が苦手で、いつも赤点に近い点数をとっていたので、得意科目を教え合うのはお互いに有益だ。
『わかった。明日からそうしよう』
試験の話によって完全に現実に引き戻された悠斗は、メールを終えると机に向かい、教科書とノートを開いた。普通ならば憂鬱な試験勉強だが、今の悠斗にとってそれは普遍的な日常の一片であり、自分の存在をこちら側の世界に引き戻すためには大切なことだった。
***
翌日の放課後、悠斗と柚木は学校の図書室にいた。窓際の席に向き合うように座り、勉強を教え合っていた。二人の他にも何人かの生徒がいたため、うるさくならないように気をつけた。
「だから、ここはこの文を先に訳すといいんだよ」
「じゃあこっちの問題は? ……ああそうか、さすが悠斗」
二人の手元を照らす窓から降り注ぐ光は、次第に赤くなっていく。ふと顔を上げて窓の外を見れば、燃えるように赤い夕日が山の向こうに沈んでいこうとしていた。――山。
悠斗は立ち上がり、急いでカーテンを閉めた。それを見た柚木は当然だが驚いて、「いきなりどうしたの」と悠斗に訊いた。
「ちょっと眩しかったから」
「ふうん……」
柚木は首を傾げる。悠斗は席に戻り、胸を落ち着かせようと深呼吸をした。
「そういえば、もう用事はいいの? 最近ずっと放課後忙しそうだったじゃない。いつも先に帰ってたし」
「ああ、それは……もういいんだ。それよりも勉強のほうが大事だろ。お互い、苦手教科は本当にやばいんだから」
「そうだね。あと二週間で何とかなると思う?」
「毎日やれば、何とかなるだろ」
二人はその後も毎日図書室で試験勉強をし、下校時間ぎりぎりまで居座るという生活を続けた。校門を出る頃には太陽はすっかり見えなくなり、銀色の月が空に浮かんでいた。
試験の前日も、二人は月の下を並んで歩いていた。田舎道は街灯が少ない。しかも二人の通学路は田園を通るので、辺りは闇に沈んでいて危険だった。頼れるのは月と星の頼りない光と、柚木が持っている小さな懐中電灯のキーホルダーの光だけだった。
柚木は足元をそれで照らしつつ、空を見上げながら言った。
「とうとう明日だね、試験。流れ星でも流れないかなぁ、そうしたら、いい点数が取れるようにお願いするのに」
「あんなの、嘘に決まってるだろ。流れ星が消えるまでの短い時間に願いを三回も言うなんていう凄いことが出来るなら、それ以外の願いを叶えることなんか簡単だっていう意味なんだよ」
「現実的なこと言わないでよ、夢がないなぁ。もしかしたら本当かもしれないじゃない。嘘みたいな話ほど、実は本当だったりするんだからね!」
「……そうだな」
「でも、多分大丈夫だよ。今回は本気で頑張って勉強したんだから。星なんかに頼らなくてもいい点数とれるよ」
遠くに見える家々の光を目指し、二人はそのまま歩いていく。
二日間にわたる試験が終わり、試験の結果が出た。悠斗の努力に見合った点数をなんとか得ることが出来、悠斗はそれを柚木に報告した。柚木もまた同様で、英語の試験用紙を悠斗に見せ付けた。
「私、今までこんな点数とったこと無い! 悠斗のおかげだよ、ありがとう!」
「俺のも見ろよ、いつも赤点すれすれだったのが嘘みたいだ。やれば出来るんだな」
二人は喜びを共有し、二人揃ってガッツポーズをとった。
短縮授業だったので午後二時に校門を出た二人は、笑顔を浮かべて道を歩いていた。プレッシャーから開放されたことと、結果を出せたという喜びが、二人の心に満ち溢れていた。
「こんなに明るい時間に帰るのって久しぶりだね! 今日は家に帰って何しようかなぁ。心霊サイト巡りしようかなぁ」
柚木は浮かれた様子でいくつも候補を並べ、そして何かを思いついたとでも言うように、人差し指を立てた。
「そうだ! このまま隣町まで出かけちゃおうよ。ボウリングやりたい」
「それは俺も来いってことか? しかもボウリングって、唐突すぎるだろ。それに俺、あんまりやったことないし……」
(……それに)
悠斗は右方向に視線を向ける。――山だ。青い空を背景に、小さいながらも存在を主張しているその山を、どうしても気にしてしまう。忘れようと努力しても、勉強に没頭してみても、心はあの家に囚われたままだった。放課後の学校にいる自分に違和感を持つこともあった。自分がいるべき、いるほうが幸せな世界はこちらの筈なのに、気持ちはこちらには無かった。
「悠斗? どうしたの?」
服の袖を引っ張ってきた柚木の手を、悠斗は振り払った。
「ごめん。やっぱり、家に帰る」
「え? だってもう、何も用事は無いんでしょ。家にいたって暇なんじゃないの?」
うまい断り方が思いつかずに、悠斗は口ごもる。柚木と出かけるのが嫌なわけではない。正確に言えば、自宅に帰るわけでもない。――自分の恋心が芽吹き、根を張り、花を咲かせたあの庭に、どうしてももう一度訪れたいのだ。
柚木は眉間にしわを寄せ、寺の前で立ち止まった。悠斗もハッとし、立ち止まる。
「……あの家に行くの?」
「え?」
「私、知ってるんだから」
柚木の言葉に、悠斗の背中がひやりとした。
「見ちゃったの。悠斗があの山からおりてきたところを。そして山に入って、何があるのかを確かめてみたの。そうしたら、あんな所に家があって吃驚した。しかも庭に人影があって、人が住んでた。あの女の子は誰? あそこに何の用があったの? いつも急いで下校してたのって、あそこに行ってたからでしょ? 気づいてなかったかもしれないけど、制服に花のにおいが染み付いてるよ。あの庭のにおいでしょ? すごいにおいがしてたもの!」
悠斗の心臓が跳ねた。柚木に山をおりたところを見られ、しかも山の中まで確認されたことなど知らなかったし、柚木がそこまでする理由が思い当たらず、困惑した。そして制服のにおいを嗅いでみたが、花のにおいに慣れてしまったのか、どんなにおいも感じなかった。しかし初めて倉田家の庭に入ったとき、濃厚な花の香りが漂っていたのは確かで、長い間ににおいが制服に染み付いていたとしても不思議は無かった。
悠斗は信号のない横断歩道の白い縞模様を見つめた。
「……お前には関係ない。じゃあな」
悠斗が横断歩道に一歩足を踏み出すと、柚木が悠斗の腕を強い力で掴んだ。
「悠斗、お願いだからあんな所に行くのは止めて。――あの家、なんか変だったよ。すごく嫌な感じがした」
「第六感ってやつか? 生憎だけど、俺はそんなもの信じてない」
「そういうのじゃない! あの家を見た瞬間に思った。そしてあの女の子をちらりと見た時に――何故か危ない感じがしたの。心配なんだよ」
「危ない?」
それは事実なのだと、悠斗は知っている。死に誘う恐ろしい存在、少女の姿をした毒草、瞳から毒液を流す美しい殺人者、そういうものなのだと理解している。近づいてはいけないものだとも解っている。しかしそれでも、どうしても忘れられない面影が心を支配して、悠斗の唇と足を動かした。
「女の勘だとでも言いたいのか? 馬鹿馬鹿しい。俺は行くぞ」
柚木の腕を振り解いて、荒々しい足取りで横断歩道を渡る。車道を横断しきった時、背後から柚木が叫んだ。
「私、悠斗のことが好きなんだよ!」
悠斗は立ち止まり、背後を振り返った。反対側の車道に立つ柚木は、いつもの様子からは想像も出来ないような今にも泣きそうな顔をして、顔を赤くしていた。そしてその声は少し震えていた。
「私、あの女の子とはタイプは全然違うけど、きっと私のほうが悠斗のことを好きだよ。私に変な所があるなら、直すから言って。あの女の子とは、もう会わないで!」
いつの間にか柚木は涙を流していた。それが柚木の必死さを表していた。悠斗は柚木の気持ちに今まで少しも気づいていなかったので、ただただ驚いた。今思えば、高校生の男女が一緒に出かけるというのは所謂デートのようなものに近かったような気がするし、柚木はそういうつもりで悠斗を誘っていたのかもしれなかった。記憶を漁ればいくらでも心当たりがあって、自分の鈍感さにも驚いた。
「ごめん、全然気づかなかった。言葉で言ってくれなきゃわからねえよ……」
「だから今言ったじゃない。私は悠斗が好きなの! 悠斗はあの子が好きなの? 告白したの? もう恋人同士なの? そうじゃないなら、私と付き合ってよ」
悠斗の心がぐらりと揺れた。柚木のことは嫌いではない。もし今から恋人同士になれば、今以上に柚木を好きになることも有り得るだろう。一般的な高校生のカップルとして、町に出かけて手を繋ぎ、デートをすることも可能だろう。――凪子は違う。いくら愛する気持ちがあろうと、あの家の外には出られない。手を繋ぐことも出来ない。言葉だけで関係を繋ぐのが精一杯で、それ以上を望めば、その先には不幸しか待っていないのだ。どちらを選ぶべきなのかははっきりしていた。
少しの間、自分の中でせめぎ合う感情と戦い、悠斗は大きく息を吐く。そして向かいの歩道にいる柚木に言った。
「……ありがとう。俺はお前と一緒にいたほうが、幸せになると思う」
「そうでしょ!」
「だけど、俺はお前を選べない。俺は幸せになりたいわけじゃない。ただ、一緒にいたい人と一緒にいたいだけなんだ」
喜びの色を浮かべた柚木の表情が、一瞬にして暗く沈む。悠斗はその顔を直視出来ず、視線をそらした。
「お前のことが嫌いなんじゃない。ただ、あの子のことが好きなだけなんだ。……もう、俺のことは放っておいてくれ」
山に向かい歩き出した悠斗の背後から聞こえる泣き声が、どんどん遠ざかっていく。悠斗があの家に向かうことは、平凡な幸せに別れを告げることと同義だった。それでも悠斗は歩みを止めず、約二週間ぶりに山の土を踏んだ。
がちゃん、と何かが割れる音がして、棗は慌てて階段をのぼった。書斎のドアが開いていたので中に入ると、薄暗い室内の真ん中で、床の上に横倒しになった写真立てを凪子が見下ろしていた。その写真立ては木製の額にガラス板がはまっているタイプのものだったが、ガラス板が割れ、破片が床に散乱していた。破片が激しく飛び散ったのか、凪子の指は血で真っ赤に濡れていた。既に巻かれていた白い包帯には、鮮やかな緋色が滲んでいる。
「何をしてるんだ、凪子!」
「こっちに来ないで! 私の指を口に突っ込まれたいの?」
凪子は血に濡れた手を棗に向けた。凪子の血液は毒薬と同じ性質のものであり、少しでも口に含めば、いくら毒に慣れた棗でも倒れるのは間違いなかった。
数日前に凪子は、風呂場と洗面所の鏡を割った。その時に手を怪我して、右手には包帯が巻かれていた。その手でまた写真立てを破壊したのだ。
「お願いだからもうやめてくれ! そんなことをして何になるんだ」
「どうにもならないわ。悠斗さんは私を置いてこの檻から出て行ってしまった。兄さん達が余計なことを教えたのも悪いわ。そう、もうどうにもならないの。――そもそもこの女が悪いのよ!」
叫んだ凪子は写真立てを蹴り飛ばした。それは本の山にぶつかり、棗の足元に滑ってきた。そこには凪子を除いた四人の家族が写っている。そこに写っている四人の中に、女は母親の凪しかいなかった。
凪子は自分の顔に両手を添えると、赤く濡れた爪で頬を引っ掻いた。その跡が頬に赤い線となって残る。
「鏡を見るたびにこの女を思い出して、虫唾がはしるのよ! 父さんは母さんを愛してたわ。だからこそ、私をこんな体にしたの。父さんの愛にも気づかずに他の男に逃げ、実の娘を捨てた女の血が、私の皮膚の下にも流れてるなんて考えたくもない! それなのに、私の顔はどんどんあの女に似ていく。信じたくないのに、鏡が真実を突きつけてくるのよ!」
凪子は吐き出すだけ吐き出すと、破片が散らばっているにも関わらず、その場にうずくまる。しばらくそうしていたが、おもむろに口を開いた。
「……実は、これでよかったのかなって思ってる部分もあるの」
「え?」
凪子は顔をゆっくりと上げ、入り口に突っ立ったままの棗を見上げた。叫ぶようなことは無く、声は落ち着きを取り戻していた。
「兄さんは以前言ったわよね、私は父さんと同じことをしようとしているって。その通りよ。でも、私は悠斗さんをこの家に呼び続けることに、ある時から罪悪感を持ち始めたの。それは何でだと思う?」
「……わからない」
「私もわからなかったわ。この苦しみから逃れる方法はそれしかないのに、私の心がそれを放棄しようとし始めたんだから。その方法を完全に失った今、私は物にあたるくらいしか出来ないのよ。それなのに私の中のもう一人の私は、この状況にむしろ安堵している。逆なの。それはね、私が――」
その時、呼び鈴の音が家中に鳴り響いた。凪子は言葉を途切れさせ、棗は弾かれたように廊下に出た。この家に訪ねてくる人間が限られているのを考えれば、驚くのは当然だった。長兄は仕事で、浜崎はもう死んだのだから、残されたのは一人しか思い浮かばなかった。
棗は階段を急いでおりた。
悠斗は縁側の戸が開いておらず、誰もいないのを確かめると、玄関の方に戻った。その時、家の中から凪子の声が聞こえてきた。その声は今まで一度も聞いたことのないような激しさで、誰かと喧嘩でもしているようだった。
悠斗は躊躇ったが、目的を果たすために、玄関の呼び鈴を押した。ややして、家の中から物音がし、玄関の戸が開いた。そこにいたのは棗で、悠斗の姿を見て目を見開いた。
「……どうも」
「お前、また来たのか」
「さっき凪子の声がしたけど、どうしたんだ?」
棗は何かを迷っているように見えた。何も言わずに、足元に視線を彷徨わせていた。
階段の軋む音がした。悠斗は期待と不安の混ざった複雑な気持ちで、廊下に現れるであろう人物を待った。二階からおりて来たのは思った通り凪子だったが――その荒みきった風貌に衝撃を受けた。乱れた黒髪、手に巻かれた包帯、血に塗れた指、そして頬についた赤い血の跡のようなもの。それは破壊され捨てられた人形を思い浮かばせるような強烈さだった。
「凪子……どうしたんだ、それ。怪我か?」
靴を脱いで凪子に近づこうとした悠斗は、棗に止められた。
「血を拭かないと、毒にやられるぞ。お前は庭で待っていろ」
棗はそう言って、悠斗を玄関から追い出した。悠斗は言われた通りに庭で待つしかなかった。
庭園の草木は、相変わらず無害そうな顔をしていた。きっとこれらは、そのあたりに少し生えている程度なら、単なる可愛い花に過ぎないのだろう。しかしこうして密集してしまうと、とたんに危険な空間を作り出すのだ。それぞれの草木が微量の毒素を撒き散らし、それが濃厚な毒に変わり、肌からじわじわと浸透していくのだ。今こうしている間にも、彼らは悠斗の体内に入り込んできているに違いない。
三十分ほど経って、縁側のガラス戸が開けられた。その音に気づいて振り返ると、唇を引き結んだ凪子が立っていて、悠斗の顔をじっと見つめていた。顔は綺麗に拭かれ、髪は梳かされ、包帯は新しいものに取り替えられていた。
二人はしばらくの間沈黙していたが、凪子がそこに座ったので、悠斗もその隣に座った。いつものように二人並んで、庭を見つめながら縁側に座る。どちらも視線を合わせようとはしなかった。二人の間の距離はいつもより少し遠かった。
「棗兄さんには二階に行ってもらったわ。色々、話したいことがあるもの。まさかまた会えるとは思ってなかったわ……。逃げるなら今のうちよ。むしろ、ここから出て行ってもらいたい。ここにいても、いいことなんか一つも無いんだから」
凪子はやっと口を開いた。その声は少しかれていた。
「わざわざ会いに来たのに帰るわけ無いだろ。それよりも凪子、大丈夫か? その怪我、どうしたんだ?」
凪子は包帯が巻かれた腕を見つめながら答えた。
「鏡や、写真立てを割ったのよ。大した傷じゃないの」
「鏡を? どうしてそんなことをしたんだ?」
「私が自分の体の秘密を知ったのは、父さんの書斎に入った時だったわ。私はその時既に学校には行かせてもらえてなかったから、本を読むくらいしか娯楽が無くて書斎に忍び込んだの。そうしたら、たまたま手に取った一冊の本の間にメモが挟んであって、私が普段食べていたのが猛毒のトリカブトだって知ったの。後日、インドの毒の娘の記述も見つけたわ。父さんに問い詰めたら、私は母さんの代わりだって、誰にも渡さないって、その口ではっきりと言った……。母さんが憎くなった。あの女が浮気をしたから、父さんもおかしくなった。憎い母親に似ている自分の顔を見るのも嫌だった。だから鏡を割ったのよ」
凪子は言いたいことを思いつくままに一気に話して、包帯の上から傷口をさすった。
「でもそのことを知っても、その時の私は父さんを嫌いにはなりきれなかったの。いい子にしていれば、いつかは私を愛してくれるって信じてた。でも、その愛が私に向かうことは無いって気づいたの」
凪子は自分の髪を束にして指先でつまんだ。
「私の髪、今は凄く長いけど、昔は短かったの。母さんが短い髪だったから、私もそうしなくちゃ駄目だった。母さんが凪っていう名前だったから、私も凪って略して呼ばれてた。愛してるって毎日言われたけど、それは私に対してじゃなくて、母さんに対しての言葉だった。――やっぱり、父さんにとっての私は、母さんの代わりでしかなかったの。父さんはいつだって、私の向こうに母さんを見てた。私は母さんの見た目をした人形だった。父さんは、兄さん達には素手で接するのに、私の頭を撫でる時は必ず手袋をしていた。私が二人を恨むのもわかるでしょ? 二人のせいで、私はこんな不幸を背負わなくてはならなくなったんだから。もう兄さん達に、私がどうしてキスしただけで人を殺せるようになったのか、あらかた聞いてるんでしょう、気づいてるわ。くだらない小説のような、笑える話だと思わない? 毒入りミルクを実の娘に飲ませるなんて、普通じゃ考えられないわよね」
「それは……」
悠斗は慰めの言葉が見つからず、言葉を詰まらせる。母が浮気をした挙句に失踪し、父親は娘を毒に漬けて、人形のように扱った。一番の犠牲者は凪子だ。その話が本当ならば、幼い心についた傷跡がどれくらい深いものだったかは想像に難くない。
「だから私、ころしたのよ」
「え?」
悠斗は訊き返した。聞き間違いであると期待して。
「ころしたの……私、殺人犯なの。父さんは事故でも自殺でもない。私が殺したのよ……」
悠斗の期待は打ち砕かれた。
その言葉を聞いた悠斗の背筋が寒くなるその一方で、心はその言葉を冷静に受け止め、納得していた。一度は忘却の海に沈めたその悪い想像が、底から浮き上がってくる。それは簡単に想像出来たことなのだ。状況を考えれば、凪子が父親を恨んでいないはずがない。そして植物学者の父親が、誤って毒草を食べるということは考えにくいのだ。
「それは、冗談じゃあないんだな?」
「ええ。……一回目はキスしたのよ。でも父さんは私のキスでは死ねなかったの。トリカブトの毒に多少の免疫があったから症状が出るのに時間がかかったし、入院だけですんだ。父さんは自分の指についたトリカブトの毒が原因だと思ったみたい。それは私がタバコにわずかに触れておいたから、警察が調べてもそれは辻褄の合う一つの真実になった。二回目はね、父さんは果実酒をよく作っていたから、その瓶にこっそり毒ウツギの実を混ぜて、いつもの果実酒だと偽って飲ませて殺したの。毒ウツギの果実酒はよくある事故だって知っていたから。思ったとおり、事故っていうことで処理されたわ。兄さん達は、私が台所の棚を漁っていることを不審に思っていたらしくて、私が殺したのだとすぐに感づいたみたい。だけどそのことを警察には言わなかった。私は兄さん達によって守られたの」
凪子はテープを再生しているかのように淡々と語った。父親の死の真実を知った悠斗は、父親の骸の横に立ち尽くす無表情の子供の姿を思い描き、背筋を冷えさせた。悠斗が触れたいとずっと思っていた小さなその手で、凪子は父親を殺したのだ。
「父さんは私を愛してくれなかったけど、私は父さんに愛されたかった。その気持ちが強くなっていったある日、私は家に一人でいるのが嫌になって、家を抜け出したわ。その日にたまたま悠斗さんに会ったの。悠斗さんは父さんに似ていて、とても驚いたわ。そして思ったの。この人に父さんの代わりになってもらえないかって……」
凪子が悠斗に顔を向けた。その大きな瞳には、血の気を引かせた悠斗の顔が映りこんだ。
思い返せば、凪子の行動は不自然だったのだ。突如現れた見ず知らずの男を招き入れ、家に来てくれと頼み込むなんていうことは。全ては凪子に仕組まれたことだったのだ。そして悠斗は一つの重大なことに気がついた。
「凪子は知っていたんだよな、自分に近づけば、その相手も毒に侵されるということを。凪子は最初から、俺を毒に漬けるつもりでこの家に呼んでいたのか?」
凪子は悠斗から目をそらした。
「そうすれば、もう外の世界には帰れなくなって、私から逃げられなくなる。そう思って、悠斗さんを家に誘ったの。仕方なかったのよ、自分勝手だとはわかっていたけど、私には父さんが必要で、父さんに対する執着は無くならなかったんだから。兄さんは以前言ったわ、私は父さんと同じことをしようとしているって。その通り、父さんが私を母さんの代わりにしたように、私は悠斗さんを父さんの代わりにしようとしたの。愚かなことだと自分を罵ったわ」
凪子は両手で顔を覆って、嗚咽を漏らし始めた。その頬を伝う涙は、地面に落ち、そこを歩く蟻を殺すのだろう。悲しみが溶け込んだ暖かい雫は、冷たい刃で生命を奪い、更なる悲しみを生むだけだ。なんと虚しい存在なのだろう。
凪子は数分の間涙を流し、その涙が枯れると、服の袖で頬を拭いた。そして真っ赤になった顔を手で半分隠しながら、悠斗に向き直った。
「でも、途中でやめようって思い始めた。悠斗さんをこの家に呼び続けることに罪悪感を持ち始めたの。もちろん、やめてしまったら、私はまた寂しい毎日を送ることになるわ。だけど、それでもいいから、悠斗さんをこれ以上こちら側に引きずり込みたくないと思ったの。何故だと思う?」
悠斗はしばらく考えるそぶりを見せた後、「わからない」と答えた。
「蝶や蜘蛛、人でさえ、私のせいで死んだってもう何とも思わないのに、悠斗さんだけは違ったの。それは……悠斗さんのことを、父さんの代わりとしてではなく、悠斗さんとして愛している自分に気づいたからよ」
凪子は思いつめたような表情を浮かべて、悠斗を見つめ続けていた。悠斗もまた、その瞳を真っ向から見つめ返した。
「相手がどうでもいい相手なら、死んだって苦しんだってかまわないの。父さんの代わりになれば誰でもいいって最初は思っていたから。だけど本気で愛しているっていう自覚が出てきて、この家から逃したいという気持ちが、ちょっとずつ出てきたの。――私がどんなに酷くて恐ろしい人間なのかわかったでしょ? だからもうここから去って。今ならまだ間に合うから」
通常なら、この死の園にい続けるのは狂気の沙汰だろう。運よく蜘蛛の巣から逃れた蝶がその場に留まることなく飛び去っていくように、悠斗もそうするべきなのだ。凪子は悠斗と完全に離別する覚悟を決めていた。しかし悠斗は凪子の願いを聞かなかった。
「嫌だ。犠牲者は父親じゃない、凪子だ。凪子は罪人なんかじゃない、ただこの家に縛り付ける父親が憎くて、排除しただけだ。怖いとは全く感じない。俺は凪子のことが大事なんだ。毒が何だ。俺はそんなの、一向に構わない」
それは悠斗の強い意思だった。それは恋という名の狂気と言ってもさしつかえないだろう。悠斗には自分が正常ではなくなっているという自覚があった。この家には毒殺者が生きている。自分がそれらと同じものになりつつあると知っても、凪子への気持ちを捨てることの恐怖に比べれば、それはとても小さな恐怖に過ぎなかった。
「俺は覚悟を決めてきたんだ。俺は、凪子と一緒にいられればそれでいい」
自然と漏れ出た本音だったが、悠斗にもはや照れは無かった。それを聞いた凪子の顔は一瞬赤く染まったが、すぐにその色は消えた。
「じゃあ、もう一つ恐ろしい話をするわ。今度こそ、悠斗さんはここにはいられなくなる」
凪子は立ち上がり、庭の隅に歩いていくと、そこに生えていた葉の一枚を千切り、それを食べて見せた。毒があるはずの葉だが、凪子は躊躇せずにそれを飲み込んだ。
「この葉は私の母であり、姉妹でもあるの。この土の下には、私の母親とその浮気相手の死体が埋まっているわ。私の体内の毒は、これらの葉によって蓄積されている。そしてこれらの葉は、二人の遺体を養分にして育った葉なの」
「死体だって? どういうことだ?」
「兄さん達が目撃したらしいの。浮気を怒った父さんが二人を殺して、庭に埋めているところを。二人は失踪したということになっているけど、本当はこの下に埋まっているのよ。この庭は罪人を埋めた墓地なの。不気味でしょう」
悠斗は胃から物が逆流するような感覚を覚え、胸の辺りをおさえた。親の死体の養分で育った葉を食べるということは間接的なカニバリズムとも言えるような行為であり、娘を捨てて死んだ母が、捨てたはずの娘を死後になって育てているような不思議な状況でもあり、飲み下すのが困難な話だった。
凪子は地面を踵で強く踏みつけると、嘲笑を含んだ言い方で言い放った。
「わかったでしょう。この家は何もかもが狂っていて、私はここで育ったの。この家の狂気に毒されるのは、私達だけで十分。こんなことに関わらせたのは私なのに、私から別れを告げるなんて自分勝手なことをしてごめんなさい。さようなら」
凪子は、悠斗が今度こそ立ち上がりこの庭を去ると確信し、その姿を焼き付けるかのように悠斗を見ていた。しかし悠斗は顔を上げると、強い光を秘めた目で凪子を見つめた。
「俺は行かない」
「え?」
「今の自分の顔を鏡で見てみろ。すごく寂しそうな顔してる」
凪子は、ガラス戸に写る自分の顔を見た。そこには、口が発する言葉達とは全く逆の感情が映し出されていた。
「本当は寂しいんだろ? 桐哉さん達は桐哉さんたちなりに凪子を愛してるんだと思う。だけどそれじゃ駄目なんだろ? お前が欲しい愛は二人からはもらえない。だから俺を毒に染めてまで欲しいと思ったんじゃないか。その気持ちは、そう簡単には打ち消せないと思う」
「……だけど、悠斗さんを苦しめるくらいなら、その望みを捨てた方がましだと言っているのよ。そうよ、本当は悠斗さんから離れたくないの。だけどそれは悠斗さんを不幸にするだけだわ。どうか分かって」
「凪子から離れる方が不幸だって、どうして気づいてくれないんだよ!」
悠斗は立ち上がって凪子に駆け寄り、その華奢な身体を強く抱きしめた。凪子は一瞬固まったが、悠斗の行為がどれだけ恐ろしいことかに気づき、その腕の中から逃れようともがいた。
「駄目よ、危ないから触らないで!」
しかし悠斗は凪子の身体を押さえつけるように更に強く抱いて、耳元で囁いた。
「俺は、お前を凪ではなく凪子として愛する。俺は凪子の父親にはなれないから、親子の愛情とは形が違うかもしれないけど、俺は俺なりに凪子を愛するから。それじゃ駄目か?」
凪子が欲しがったものは父親からの愛情だった。悠斗が凪子を愛したところで、それはあくまでも恋人が与える種類の愛で、親子間のものとは違う。悠斗は凪子の父親にはなれない。これは凪子を愛したいという、悠斗自身の意思なのだ。
凪子は諦めて大人しくなると、悠斗の腕の中で呟いた。
「……私は悠斗さんが好き。でも実を言うと、今でも父さんと悠斗さんを重ねてしまう部分がある。私は私自身を愛して欲しいと願うのに、私は悠斗さんの中にまだ父さんの面影を捨てきれないでいる。――それでもいいの?」
「凪子はまだ父親に囚われてるんだな。今はそれでもいい。いつか、父親が作ったその檻から、凪子が開放されるように願ってる」
凪子が逃れるべきは、家という物質的なものからではない。既に死んだ父親が、死後も凪子の魂を捕らえ続けていた頑丈な檻だ。その檻を壊せるのは自分しかいないと悠斗は思っていた。
「凪子は俺のことを想って、俺をここから逃がそうとしたんだよな?」
「……そうよ。相手のことを一番に考えるべきだって気づいたから」
「じゃあ俺は、凪子のために、体を毒に変えよう」
悠斗が凪子に顔を近づけると、凪子の吐息がかかった。花の芳しい香りがし、それも毒の香りだった。
凪子は小さく震える声で言った。
「本当に戻れなくなるわよ、解毒剤は無いの。後悔しない?」
悠斗は頷いた。
「凪子を見捨てたりしたら、それこそ後悔することになると思う」
凪子は悠斗の服をぎゅっと掴んだ。
***
八月、庭のトリカブトの青紫色の花が一斉に咲いた。地面から突き出された腕のような真っ赤な曼珠沙華が庭の隅を飾る時期も過ぎ、枯葉が地面を埋め尽くす季節になった。
悠斗は数ヶ月の間、今まで以上に毒草に触れる機会を増やし、時には食して、体内に毒を取り込む努力をした。その結果、悠斗の身体は毒の濃度を増し、小さな羽虫ならば悠斗の息に当たるとひとたまりも無く、一瞬で命を奪われた。最初は虫の命を奪うことに抵抗があったが、一度受け入れてしまえばそれは消えた。
悠斗は毒に身体を染めるにつれ、学校に行かなくなった。殆ど家出をした状態で、倉田家に居座っていた。悠斗という毒草が、新たにこの家に根を下ろしつつある。
鬱蒼とした緑がこの家を覆い隠している限り、この家の秘密は守られる。自らこの場所に囚われることで、幸せは保証される。
毒草庭園の植物の手入れをしていた悠斗の肩を、凪子が叩いた。悠斗は立ち上がって振り返った。
「どうした?」
「鼠捕りに、一匹引っ掛かっていたの」
凪子の手のひらの上には、小さな鼠がいた。凪子は逃げようとする鼠を両手で押さえつけて、悠斗の顔の前に持ってきた。
「最近、食べる毒草の量を増やしたから、このくらいなら殺せるようになっていると思うの」
黒い目と丸い耳をした可愛い顔が何かに怯えるような色を浮かべ、激しく鳴き始めた。悠斗は少し躊躇ったが、そっと息を吹きかけた。するとその小さな生き物は鳴き声を弱め、さらに息を吹きかけると、身体をびくびくと震わせて苦しげに鳴いた後、目を閉じてぴくりとも動かなくなった。それを見た凪子は嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。これならもう大丈夫だわ」
凪子は何かを期待するように、悠斗を見上げた。悠斗は凪子が何を求めているのかすぐにわかった。悠斗は土いじりのために手にはめていた軍手を外して、素手で凪子の頭を優しく撫でた。それは凪子が父親に望んだ行為だった。そしてこうして凪子に触れることは、悠斗が望んだことでもあった。凪子は今この瞬間、死んだ父親の亡霊に頭を撫でてもらっているのだ。凪子は幸せそうな顔をした。
悠斗はあることに気づいていた。口に出しはしなかったが――凪子は結局、憎い母親と同じだったのだ。ただ、桂樹という一人の男の愛を求めた。しかしそれが得られないと分かったら、他の男にその愛情を求めた。凪は他所の男に、凪子は悠斗に。二人がやったことは全く同じことなのだ。そしておそらく凪子はそれに気づいていない。
撫でるのをやめると、凪子はにこりと笑った。そして鼠の死体を持ったまま庭の隅に向かった。
「お墓を作らなきゃ……」
繁茂する草に隠れて見えづらかったが、庭の隅の一角に小さな土の山がいくつもあり、細い木の枝などが何本も突き立ててあった。それは凪子が殺した小動物達を葬るための小さな墓場だった。
この場所を悠斗が見つけたのは八月初旬のことだった。庭の毒草をしみじみと見つめていた時にこの一角に気づき、凪子に訊いた際、凪子はこのように言っていた。
「殺してしまうのはどうしようもないことよ。そういう身体になってしまっているのだもの、受け入れたほうが楽だわ。だけど、その死体を放っておくのはさすがに可哀相で、埋めてあげているの。私にはそれくらいしか出来ないから」
凪子はスコップを手にして、空いている場所に小さな穴を掘り、そこに鼠を置いて上から土をかけた。そして傍に生えていたエゴノキの小枝を一本手折り、土の山に差した。
それは、古いフランス映画の主人公の少女が夢中になったお墓遊びを思い出させた。その映画に出てきた墓に比べれば、その小さな墓場はとても地味だったが、無邪気に墓を作ろうとする少女と、悪意無く奪った命を埋葬する凪子の姿が、何故か重なった。
「なぁ、凪子」
悠斗は名前を呼んで、凪子の注意を自分の方に向けさせた。凪子が自分と父親を重ねてしまうのはかまわなかったが、自分だけを見て欲しいという欲求も当然だがあった。父親の幻想を見たままでいさせるのは嫌だった。それは父親に対する嫉妬だった。
悠斗自身が死に誘う恐ろしいものになってしまった今、同じ性質である凪子との間に壁は無かった。誰かを葬ることしか出来ない身体を愛してくれるのは、お互いにこの相手しか存在しない。
悠斗は、きょとんとしている凪子の細い体をふわりと抱き寄せた。すると凪子は精一杯の背伸びをして、その腕をゆっくりと悠斗の肩にまわした。その腕はまるで木の幹に絡みつく蔦のように悠斗を捕らえた。――その初めての口付けは、死をもたらすことは無かった。ほんの少しの苦味と、大きな幸福感だけが二人の感覚を満たした。少女の心は今、長い間閉じ込められていた小さな檻から飛び立った。
庭の草木が風に揺れた。まるで祝福の拍手でも送るかのように葉同士を擦れさせて、さわさわと音をたてた。
この作品を最後までお読みくださり、ありがとうございます。
最後までお読みになって、「これはナサニエル・ホーソーンの名作に似ている」と感じられた方がいらっしゃるでしょう。それは気のせいではありません。が、私がその作品の存在を知ったのはこの作品をほぼ書き上げてからであり、「毒に慣らされた娘」について調べている最中に、偶然その作品の存在を知りました。
自分でも驚くほど設定が似ていて、「ああ、これは出版社への投稿は無理だ」と愕然とし、同人誌で終わらせてしまったのは苦い思い出です。
ですが、私は彼の作品を模倣してこれを書き上げたわけではありません。それだけははっきりとさせておきたいと思いました。
私が「毒に慣らされた娘」を知ったきっかけは、三原ミツカズの漫画『毒姫』を読んだからだったのですが、どうやらこの元ネタが、そのナサニエル・ホーソーンの作品のようでした。ですので、未読でありながらも、そのエッセンスは間違いなくこの作品に染み入っていると思います。
ですが、これは私の一番のお気に入りの作品で、私の中では完全なるオリジナル小説なのです。たとえ古い作品に似ていたとしても、私はそれを読んだことがなかったのですから。
いくつか作品を書いていればネタがかぶることもあるさ、と前向きに考えて、これからも作品を書いていきたいと思っています。
次は、誰も思いつかないようなネタを思いつきたいですね。
それでは、次の作品でも、よろしくお願いいたします。
発行 コッペリアの本棚
発行日 2009/12/3
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