書庫の静寂、あるいは無害な観測者
王宮図書館。そこは、魔導帝国の知の集積地であり、シオンにとっては「現実」というノイズから逃れるための聖域だ。
高い天井まで届く書架の合間で、シオンは今日も一冊の古い詩集を開き、自分の世界に没入していた。
「……ふむ。文字とは、紙の上に閉じ込められた思想の死体だ。だが、私の視線が触れることで、それらは再び呼吸を始める。……ああ、今の表現、実に深淵だな」
満足げにペンを動かしていると、書架の向こう側から、パタリ、パタリと規則正しい靴音が近づいてきた。
現れたのは、第三王女アイリス。
第一王子カイルたちのように魔力を誇示することもなく、常にどこか眠たげな瞳をした、シオンにとっては数少ない「害のない」血族である。
「……あら、シオン。またそんなところで、難解そうな本を読んでるのね」
「……姉上か。知の海を漂う一艘の小舟を、嵐で沈めるような真似はやめていただきたい」
シオンは視線を本に戻したまま、いつもの「酔いしれモード」で応じる。普段の兄たちならここで「無能が生意気な口を!」と激昂するところだが、アイリスは「ふふ」と小さく笑うだけだった。
「そう。お邪魔して悪かったわね。私はあっちで調べ物があるから。……あまり目を酷使しないようにね、シオン」
「……ご忠告、痛み入る」
挨拶はそれだけで終わった。
アイリスはシオンの隣のテーブルに座ると、彼に干渉することなく、山積みの古文書を黙々と捲り始めた。
(……素晴らしい。沈黙という名のマナーを心得ている。彼女は、私の孤独を飾る一幅の絵画のようだ)
シオンは心の中でアイリスを「無害な観測者」として認定し、再び「理」の操作に意識を向けた。
実は、彼がここで本を読んでいるのには理由がある。
(……この図書館の最深部。結界に守られた禁書区画に、世界の『バグ』の原因が眠っている。……さて、ページを捲るふりをして、結界の因果を少しだけ削り取るとしようか)
シオンが本を捲る指先に力を込める。
能力【因果の種:紙上の遁走曲】。
彼が読んでいる本の内容(物語)が、見えない植物の繊維となって空間に溶け出し、禁書区画の結界に音もなく侵入していく。
隣でアイリスが静かにペンを走らせる音が、シオンの隠密作業を隠す最高のBGMとなっていた。
作業を終えたシオンは、本を閉じ、静かに立ち上がる。
「……先に行く。姉上、良い旅(読書)を」
「ええ、おやすみなさい、シオン」
アイリスは顔を上げずに手を振った。
背後でアイリスが何を調べていたのか、シオンは興味を持たなかった。だが、彼女がめくっていたページには「失われた古代の植物」についての記述があったことに、彼はまだ気づいていない。
「……ふふ。今の去り際、完璧に『謎めいた賢者』だったな。アイリス姉上の記憶に、私の背中が深く刻まれたに違いない」
シオンは自分のカッコよさに再び酔いしれながら、悠然と図書館を後にするのだった。




